第33話




 六時前。夕焼けが一番綺麗に燃える時刻。私はベッドに腰掛けて、オレンジに染まる外の世界を緊張しながら眺めていた。昨日の浩樹君からのメールで「何時頃に行けばいい?」と問われたとき、私は喜びに焦って彼がいつも学校から帰る時間を指定してしまったけれど、よく考えたら、大会に合わせて部活も時間を延長しているのではないだろうか。だとしたら、浩樹君は大事な部活の時間を無理して休んでまで来てくれるのかもしれない。

 何だか申し訳ない気持ちになって、私は暁の町並みを歩く浩樹君を想像してみた。雲の隙間から差し込む傾いた日に照らされて、まるで水槽の中に沈んだような町を浩樹君は黙って病院へ向かって歩いて来る。駅前も住宅地も病院でも、想像の中では何故か浩樹君は何処にいてもひとりきりで、細長い影を揺らせながら歩く彼の姿は、誰もいない世界に取り残されたように思えた。

 それはきっと私自身の想いが反映されたものなのかもしれない。クラスのお別れ会で形式的な悲しみや別れのつらさを四十人ぶん聞かされるやるせなさ。悪意ではなく善意から放たれる言葉の殴打に反発さえ許されない冷たいぬくもり。真綿で締められるようなやさしさに押し潰されないよう、たった独り崖っぷちで精いっぱい耐えているのに、世界から忘れられ、自分だけが置いて行かれる感覚。

 私の胸の奥、昨日からずっと抱いている不安の中心から重い痛みが走って、遠くを見つめる浩樹君の横顔と重なった。

 ──そうだ。あの夏の日、浩樹君は何と言っていた? 彼は──。

 病室の戸が静かに開く音に思考をかき消されて、私はびくっと身を強張らせた。

「藤咲」

 私の心を苦さと甘さでいっぱいにする声に振り返ると、病室を照らす夕日がぎりぎり届かない影の中へ、浩樹君は立っていた。

「久しぶりだね」

 何となく浩樹君と再会した日に似ていたが、今日の彼は戸惑うこともなく穏やかな、けれどもどうしようもない哀しみに押し潰されそうな心を必死に隠しているような顔をしていて、想像の中の寂しそうな浩樹君と怖いくらい似ていた。

「調子はどう?」

 簡易椅子に座った浩樹君が聞いてきた。

「あ、うん。今のところ変化なし。まいっちゃうよね」

 私はへへと苦笑いしながら、そっちはどう? と問う。

「変わらないよ。何も」

 “何も”と言ったところで、浩樹君はわずかに視線を逸らせた。何か様子がおかしい。いつもの浩樹君らしくない、どこかイライラした口調に嫌な空気を感じて、私は深刻な雰囲気にならないよう明るく振る舞いながら先に謝った。

「ゴメンね。大会が近いっていうのに無理させちゃって。今日、部活休んできたんでしょ?」

「いや」

 必要最低限の返事。

「じ、じゃあ、大会近くても部活の時間は変わらないんだ」

「大会はもう終わってる」

「え──?」

 そんな話はいっさい聞いていなかった。メールも送られてこなかったし、浩樹君はずっと練習に打ち込んでいるものだとばかり思っていて、私は何か裏切られたような気持ちになった。浩樹君が私を騙したわけではなかったけれど、私の心の中で、黒いもやがどんどん拡がってゆく。

「……どうして、教えてくれなかったの? 私、浩樹君のことずっと待ってたんだよ。メールだってたくさん送ったのにぜんぜん返してくれなくて……。私は、浩樹君といっぱい、色んなことをいっぱい話したくて、それで──」

 それ以上は言葉にならなかった。浩樹君も黙り込んで、二人の間に沈黙が流れるのは今までにもよくあったことだけれど、お互いこんなに不信感を募らせたのは初めてだった。しかも、私には何が原因なのか分からない。ただ燈色の夕日だけが、この場の雰囲気にそぐわないほど美しく病室を照らしていて、学校の帰り道に二人で見た夕日とよく似ていると思ったら、私は何だか余計に悲しくなってきた。

「ねえ、浩樹君、どうしちゃったの? 悩みごとがあるなら教えてくれないかな。……私じゃ力になれないのは分かってるけど、でもね、聞いて浩樹君。私が目を覚ましたとき、私はこれからずっと独りで生きていくんだって覚悟してたの。両親は死んじゃったし、親戚はどこかにいっちゃったし、おまけに一日に三時間しか起きていられないんじゃ、多分一生病院を離れられないんだろうなって思ってたの。

 ……でも、浩樹君が来てくれた。浩樹君は私を忘れずにいてくれた。そのことが私は本当に……、ホントにホントに嬉しくて、だから──」

「……そういうの、もうやめてくれないか」

 私の言葉に耐えかねたように、浩樹君はほとんど聞こえないくらい小さな声で呟いた。長い前髪に隠されて、俯いた顔にどんな表情を浮かべているのかまでは分からないけれど、その瞬間、波が引くように私の心の中の何かがさあっと遠のいていって、哀しみとか戸惑いとか焦りとか、それらがごちゃまぜになったような感情が押し寄せてきた。 

「浩樹、君……?」

「藤咲には言ってなかったけどさ……、俺、今両親とモメてるんだ。進路のこととか、将来のこととかで……」


 ──俺、ほんとは嫌なんだ。家族とか土地とかに縛られるの。俺はもっと自分自身を試してみたい。ここじゃない場所で、誰にも、何にも縛られず、自分だけの力で生きてみたいんだ。


 私の頭の中に、あの夏の日、遠い目をして呟いた浩樹君の言葉が蘇る。浩樹君との思い出はどれも大切だけれど、今は思い出したくない。それなのに──。

「親父は勝手に俺の進路を決めつけるし、お袋も目的もないのにぶらぶらさせておくほどの経済的余裕はうちにはないって言うし……。

 確かに俺は、将来なりたいものとか、自分のやりたいことなんてまだよく分からないけど、でも俺は、俺の人生を生きたいんだ! それなのに俺はずっと色んなことに縛り付けられて、まだスタートラインにすら立てていない……」


 ──何が出来るのか、何が出来ないのか。挑戦さえしないままずっとこの場所に留まり続けるなんて、俺は絶対にしたくない。俺はいつかきっと──。


「……だから藤咲、もうメールとか電話とか寄越さないでくれないか。俺、今は自分のことで精一杯だから。お前の……、お前のつまらない話に付き合っていられるほどの余裕はないんだよ。

 みんな自分の人生を歩き始めてるっていうのに、俺だけ置いてけぼりにされて……。俺だって、俺だっていつまでもこんなところに留まっていたくないんだよ!」



 ──いつかきっと、この町を出て行くんだ。



 浩樹君は俯いたまま立ち上がると、乱暴に自分の鞄を取って、そのまま振り返ることなく早足で病室を出て行った。

 紅い病室の中で、私は何も言えないまま、浩樹君が出て行った後の扉を呆然と眺めていた。



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