第47話




 肌に当たるシーツのひんやりとした感触から、私は今ベッドにいるんだなと、微睡みの中で理解する。薄く目を開くと、横たわる私の身体から何かを求めるように伸ばされた手の先に、四角い窓に切り取られた空が、遠く、小さく、灰色の雲を浮かべていた。

〈雨が降っているのね……〉

 窓が閉まっていても、雨の流れる気配は伝わってくる。音、空気のにおい、かすかな頭痛などによって。

 いつもよりも重い倦怠感を抱えながら私は身体を起こし、ぼんやりとした頭で記憶を呼び覚まそうと努めた。

〈昨日は確か……、リハビリ室へ行って……、美咲ちゃんに手嶋君を紹介してもらって……、中庭で走ってみようと思って……、それから──〉

 それからどうしたのだろう。走ったことまでは覚えているのに、そのあとどういう経緯で今にいたったのか、思い出そうとすると偏頭痛が疼いて集中を散らしてしまう。気を紛らわすように辺りを見回していると、「起きたら連絡してね」と書かれたメモが備え付けの小さな棚に置かれていて、私は半覚醒の頭をふらふらさせながら、ナースコールを押した。


 先生が来るまでの間、私は横になって、気だるく落ちる点滴のしずくを数えていた。雨の降る空模様は病室を少し薄暗くして、けれども電灯のスイッチを入れるほどではなく、中途半端な明るさはどこか、私の心をざわつかせる。

「おはようございます」

 さわやかな挨拶とともに、先生は病室へ入ってきた。いつも朗らかでやさしい先生ではあるけれど、今日の笑顔にはどこか張り詰めたような、ある種の切実さがわずかに漏れ出ているように思われた。そして先生が寝ている私のそばへ座ったとき、かなしみを隠そうと不器用に微笑むその表情を見て、私はまた嫌なことを聞かされるのだと確信した。今の先生は、私が一日に三時間しか起きていられないということを告げたときとまったく同じ顔をしていたからだ。

「調子はどうですか? どこか具合が悪いところは?」

 私は首を横に振り、惣市さんから渡された体温計を脇に挟む。

「──先生、私は昨日いつごろ眠ったんでしたっけ……。なんだか頭がぼんやりして、よく覚えていないんです」

 先生はハッとして表情を固くするけれど、わずかな間でもとの顔を取り戻し、私の質問には答えないまま何事もなかったように「そういえば」と続ける。

「聞きましたよ、高田先生から。リハビリ中に日向さんと抜け出して、中庭で走っていたそうじゃないですか」

 覚えていますか、と先生は私の目を覗き込む。プールサイドの際で水面に写る自分の姿を見つめているように、記憶の波が徐々に弱まっていって、私は昨日のことを少しずつ思い出していった。

「駄目ですよ。勝手なことをしては。あなたの身体はまだ完全に回復している訳じゃないんですから。大事にならなかったからいいようなものの、転んでいたら骨を折っていたかもしれない」

「……ごめんなさい」

「どうして、走ろうと思ったのですか?」

 過去の私を振り抜きたかったから。新しい私を築きたかったから。前へ進んでいるという確信を得たかったから。こんな私でも希望はあると信じたかったから。

 先生の問いかけに、答えはすぐにいくつも浮かんでくるけれど、私が思ったのはまったく別のことだった。

「先生」

「何ですか?」

「何か言いづらいことがあるんですよね」

 先生と惣市さんが一瞬目を合わせ、すぐにそらす。突然空いた沈黙の隙を埋めるように、空気を読まない体温計が「ピピッ」と間抜けな音を立てる。

 体温計を惣市さんに渡すと、もう時間を稼げるものはなく、先生は小さく息を吸って話し始めた。

「……君は三年前、父親の運転する車で事故に遭い、頭部に深刻なダメージを負った結果、外傷による遷延性意識障害を起こし、植物状態に陥りました。

 ところが新しく投与した抗生物質の偶発的な作用によって、君は目覚めた。

 ある種類の睡眠導入剤が遷延性意識障害を負っている患者に対して効果的であるという報告が、わずかながら上がってはいます。しかし君のように、限定的とはいえ、健常者とほとんど変わらない高レベルでの意識覚醒は、世界的にも極めて珍しい、いや、世界で初の症例といってもいいでしょう。

 ただ……、聞いたことがあるかもしれませんが、誰の身体にも外から入った異物に対して、それを排除しようとする作用が働きます。この自浄作用の対象は薬も例外ではなく、長期に渡って投薬、服薬した場合、身体に薬に対する耐性が出来てくるのです。すなわち──」

 先生はそこで言い澱み、組んだ手を握り合わせると、申し訳なさそうな、かなしそうな眼差しを私へ向けながら言った。

「今まで投与していた薬の効果が弱まってきています。……君が覚醒していられる時間は徐々に減ってゆき、やがて──」

「いつまでですか」

「えっ?」

「私はいつまで、起きていられますか」

「……はっきりとは断定出来ませんが、どんなに長くとも一ヶ月後には……」

「……そうですか」

 仰向いた瞳に映る天井は、あの日のように清らかさとさみしさを含んだ白ではなく、諦念と穏やかな絶望を表した薄灰色をしていた。

 誰もが口を閉ざし、静けさが満ちる病室には、冷たい雨音がよく響く。

「出ていってもらえませんか」

 私はベッドに横になったまま、視線を変えることなく、宙へ放り出すように言った。

 ため息ほどの間のあと、先生と連れ立って出ていこうとする惣市さんの手を、私は掴んだ。二人は一瞬戸惑った様子を見せたものの、先生が惣市さんに何事か頷き、病室は私と惣市さんの二人だけになった。

 惣市さんは何も話しかけて来ようとはせず、ただ黙って同情と憐れみの視線を私に投げ掛けてくる。雨が降っているせいかエアコンの効いた病室はいつもより肌寒く、握ったままの手も暖かくはならない。

「燈子ちゃん……」

 彼女は私に何かを伝えようとして、けれど何を言えばいいのか分からない様子で、ずっと俯いている。

「そんな顔をしないで下さい。惣市さんは何も悪くないんですから」

 言いながら、私は彼女の手を強く握り返した。決して逃がさぬように。

「むしろ感謝しているくらいなんです。あのとき惣市さんが私の背を押してくれたから、私は前に進もうと思えたし、リハビリだって頑張れたんですよ」

「……」

「そういえば、お風呂で言ってた彼とはその後どうですか。惣市さんは私から見ても素敵だなって思える女性ひとですし、別れたのがいつなのかは分かりませんが、今の惣市さんなら、その彼とも手を取り合って幸せに生きてゆけると思いますよ。私と違って」

「燈子ちゃん、あのね──」

「あ、気を悪くされたならごめんなさい。あんまり無責任なことは言うなって話ですよね。でも、うかうかしてたら別の女の人とくっついちゃうかもしれませんよ。時間は限られているんですから」

 私がそう告げると、惣市さんはますます悲しげに目を伏せて、両手で私の手をそっと包み込み、祈るような、すがるような顔付きで言った。

「燈子ちゃん。私じゃ力になれることはないかもしれないけれど、私に出来ることなら何でも言って」

 その言葉を聞いた途端、何故か私は──ひとつも愉快な気持ちではないにもかかわらず──可笑しくて可笑しくて、込み上げてくる笑いを堪えるのに必死だった。それでも堪えきれずに漏れた私の笑い声に彼女は戸惑っているようで、不安げに私の名前を呼びながら上目遣いに見つめてくる。

「燈子、ちゃん?」

「昔ね──」

「えっ?」

「昔、まだ身体がこんな風になる前、一度だけ浩樹君を怒らせたことがあったんです。

 何となくお互いに好き合っているんだな、っていうのが分かりかけてきたころで、私は学校から一緒に帰る道のりで見せる浩樹君の何気ない表情のひとつひとつに、いちいち心をときめかせては、もっと違う顔を見たい、新しい表情を見せて欲しいと、密かに願っていたものでした。

 彼は私の望んだとおり、たくさんの顔を見せてくれました。喜びの笑顔、かなしげな憂い顔、無邪気で楽しそうな顔。

 だけど決して彼は私に怒った顔を見せなかった。それは彼のやさしさでもあったんだけれど、私は浩樹君の全部が知りたくて、あるときわざと彼を怒らせてみたんです。

 細かいやり取りは覚えていませんが、私がわざと無神経なことを言い続けると、彼はそのことにはまったく触れず、ただ押し黙って、怒りというよりもむしろ傷付いた顔で静かに憤るんです。

 ……すぐに後悔しました。嫌な沈黙がのしかかり、けれども彼の瞳からは『どうしてそんなに酷いことを言うんだ』という戸惑いやかなしみが雄弁に語られていて、家に帰ってからも浩樹君のつらそうな顔が頭から離れず、明日からもう彼は私と口を聞いてくれないんじゃないか、どうしてあんなバカなことをしてしまったのかと、私は自分を責め立てました。

 次の日、浩樹君からいつもどおり声をかけてくれて、私が内心どんなに安堵したことか。

 私はそのとき決心したんです。無意味に誰かを傷付けたり、お互いが不幸になるような真似は絶対にしないって。──ところで惣市さん、ひとつ聞いてもいいですか」

 不意をついた私の一言に、彼女は肩を震わせる。私はにこやかな笑顔を貼り付けながら問い質した。

「どうして、私なんでしょうか」

「どういう、意味……?」

「浩樹君を怒らせて、傷付けて、軽蔑される一歩手前まで酷いことをしてしまったのは、私自身が招いた結果です。今の彼が私を顧みなくなってしまったのも、私が彼にすがり付き、彼の時間を縛ってしまっていたからで、これも私の弱い心が起こさせた、私の責任です。

 でも、何故私がこんな身体になってしまったのか、何故希望を得た直後に何度も絶望を味わうような目にあうのか、その理由が、どうしても分からないんです。

 ……ねえ、惣市さん。『私に出来ることなら何でも言って』って言いましたよね。だったら答えて下さいよ。どうしてなんですか。どうして私ばかりが、こんな──!」

 平静を装っていたつもりだった。けれどもう無理だった。惣市さんの手を痛いくらい握り、それでも抑えきれない怒りや、かなしみ、やりきれない思いが、すべて『どうして』という一言に収斂されて、私の身体を、肩を、腕を、脚を、小刻みに震わせる。呼吸はしだいに早く、大きくなり、じっとしていられないほどの衝動が胸から指先までを駆け巡る。

 惣市さんは何も答えてはくれず、叱られた子供のようにただ縮こまっていて、その弱々しい態度に、私は我慢の限界を迎えた。

「黙ってないで何とか言ってよ! あなた言ったよね!? 浩樹君はきっと待っててくれるって! 私が頑張れば、いつか浩樹君と一緒に生きてゆけるって! だから私頑張ったのに! 結局全部意味ないじゃん! 何でそんなぬか喜びさせるようなこと言ったの!? 無責任に適当なこと言って! 今の私がどんな気持ちか、あなた分かってる!?」

 彼女はほとんど聞き取れないほどの小さな声で「ごめんなさい」と呟く。

 その様がますます私を苛立たせ、私は彼女の手を払いのけて詰め寄った。

「誰も謝って欲しいなんて言ってない! 代わりに責任とってよ! 大丈夫だって言ったよね!? きっと浩樹君に追い付けるからって言ったよね!? だったら責任とってよ! 私をどうにかしてよ!」

 惣市さんは肩を震わせながら、何度も「ごめんなさい」と消え入りそうな声で続ける。

 卑怯者。その一言が瞬間的に頭に浮かんだ。許せなかった。

「……うそつき」

 ずっと俯いていた惣市さんが、ハッとした表情で顔を上げる。長い睫毛が、朝露のような雫に濡れていた。

「うそつき! 嘘つき! 嘘吐き!!」

 わずかに残った冷静な部分では、もちろん彼女は何も悪くないということは分かっていた。けれど止まらなかった。世の中が、世界が、運命が、ありとあらゆる理不尽を押し付けてくることに、私は誰に、何に怒りをぶつければいいのか捉えることさえ出来ず、目の前にいる惣市さんへ、ただ闇雲に拳を振り下ろしていた。枕を投げ、点滴スタンドを引き倒し、それでも止まらない激情さでめちゃくちゃに腕を振り回しながら、私は何度も叫んだ。どうして、と。

 暴れる私と止めようとする惣市さんの間で揉み合いになり、私の腕を掴みにかかる彼女の手を払いながら、私はなおも彼女を攻撃した。

「触らないで! どっか行って! きらい! 大きらい!!」

 惣市さんは一度も口を開くことなく、暴れる私/患者をプロの看護士らしい手際のよさで押さえる。両手を封じられ、この程度の抵抗さえあっけなく止められてしまう自分の無力さに、悔しさと歯がゆさでいっぱいになった私の心を、不意に暖かくてやわらかい何かがそっと包み込んだ。

「ごめんなさい……」

 私は惣市さんに抱きしめられていた。両腕でしっかりと。私の頭を抱え込むように。

「やめて! 離して!」

 自由になった両手で私は精いっぱいの反抗を試みた。身体を離そうともがき、左右から惣市さんの身体をたたき、爪を立てて彼女の顔をひっかいたりもした。

 それでも惣市さんは、決して私を離そうとしなかった。

 いつしか私の両手は抵抗を止め、まるでそうすることが自然なことであるかのように、私は無意識に惣市さんの背中へ手を回し、幼子のように強く抱き付いていた。

「ごめんなさい……本当に……」

 震える声とともに、彼女はぎゅっと私を引き寄せる。

 壊れそうなほど強く。

 痛いくらいやさしく。


 私は彼女の胸に抱かれながら、そのやわらかなぬくもりに溺れるように、大声を上げて泣いた。



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