第46話




「ねぇ……燈子ちゃん、本当に大丈夫?」

 美咲ちゃんの心配そうな声に視線を向けると、心配と戸惑いを混ぜ合わせたような顔付きの二人が、手持ちぶさたにこちらを眺めている。

「大丈夫。見てて」

 美咲ちゃんと手嶋君へ笑顔で応えるも、さっきから「大丈夫」ばかり言っているな、と苦笑いに変わってしまう。

 中庭は日曜日にしては人が少なく、気がかりにしていたほどではなかった。浩樹君と一緒に歩いたときと変わらず、綺麗に手の行き届いた花々が、正午前の穏やかな日射しを受けて鮮やかに咲き並んでいて、点々とした木漏れ日がやさしく射す人気ひとけのない遊歩道は、古い森への入口を思わせた。

〈これなら思いきり走っても誰かにぶつかることはなさそう〉

 美咲ちゃんから手嶋君との話を聞かされて、私は焦りにも似た衝動に突き動かされながら考えた。浩樹君は私が彼の隣へ行くまで、私を待っていてくれるだろうか、私を置いて、別の誰かと先へ歩いて行ってしまうのではないか、と。

 浩樹君から拒絶されてしまったのは、ひとえに私自身の甘えが原因だし、もとより胸を張って隣を歩けるようになるまで彼には会わない──というより会えない──ので、浩樹君にすがり付く訳にはいかない。

 ただ、それでも私は欲しかった。「私は大丈夫」と自信をもって言える何かが。くじけそうになったときに思い返して、心の支えになってくれるきっかけが。例え自己満足に過ぎないと分かっていても。

〈それが走ることっていうのは、我ながら安直だとは思うけれど〉

 もちろん、美咲ちゃんからの影響という以外にも走ることを決めた理由はある。ただそれが上手くいくかどうかは、やってみないと分からない。

 この場所へ来てから何分くらい経っただろうか。高木先生に話せば反対されることは明らかなので、私たちは黙ってリハビリ室を抜け出して来ていた。そろそろ先生も気付いているかもしれないので、急がなくてはならない。

 私はもう一度美咲ちゃんたちに微笑みかけて、目を閉じて深呼吸した。

「……気持ちのあり方は、自分の意思で変えられる」

 そう自分に言い聞かせるように呟いて、私はゆっくりと目を開いた。夏の終わりが近いことを感じさせる淡いグリーンの風が私を通り抜けていって、蔦が絡まったアーチの下、レンガ敷きの遊歩道に、浩樹君に支えられた車椅子の私が見えた。幸せそうな笑顔にかすかな不安を潜ませて、時間を引き留めようと、見えないところでもがいている私自身が。

 その姿を視界の端にとらえながら、私は駆け出した。

 膝を前に突き出し、足裏で地面を蹴って、全身のバネと筋肉を精いっぱい振り絞りながら、前へ、前へと加速してゆく。

 その速度は決して速くはないけれど、この一歩が、このひと踏みが、明るい未来へと繋がっているのだと信じて、私は懸命に身体を動かす。

 けれどもやはりまだ無理があるらしく、走り始めて間がないにもかかわらず、肺が痛み、脚の筋肉が小さく震え出す。私は転びそうになりながら、歯を食い縛って走り続けようとするけれど、リズムを失った手足はガタガタになって、今にも前のめりに崩れそうな膝が限界を迎えつつあった。

 そしてそんな私を、車椅子の私がジッと見ていた。

 彼女は醒めた目で私に語りかける。

 ──頑張ったってどうせ無駄よ。浩樹君はもう、私を見てくれないんだから──。

〈うるさい! お前なんかに負けるもんか!〉

 ネガティブな私からの意地悪な言葉に心を折られぬよう、私は今一度しっかりと気を持って、握った拳を力強く振りながら前へ進んだ。

 ──どうせ誰も私の気持ちなんて分かりっこないの。あなただってそう思っているはずなのに、どうして意味のないことをするの? そんなことをして浩樹君が気にしてくれるとでも──?

〈浩樹君に振り返って欲しいからじゃない。これは私自身のためにしているの〉

 何度もくじけそうになる心を叱咤して、足裏に力を込める。止まれば倒れてしまう。だから次の一歩を踏み込む。踏み締める。息切れなんて気にしていられない。

 ──もう無理しないで。何をしようと最後にはあなたが傷付くんだから。諦めて、何も求めず、穏やかに日々を過ごしなさい。それが一番あなたのためよ──。

 彼女はやさしく、私が欲している答えをそっと与えてくれる。その甘い諦念への誘惑をギリギリで堪えながら、私はなおも前へ進む。浩樹君と車椅子の私の姿が徐々に近付き、儚い幸せに包まれた二人を見ないように前だけを見据えて追い抜いた瞬間──。

 私は、新しいセカイを見た。

 レンガ敷きの遊歩道。名も知らぬ花々。小さな噴水。白いベンチ。

 何てことのない、先ほどと変わらない風景ではあったけれど、それでも、歩くこともままならず、ただ浩樹君にすがっているだけだった私が、ほんの数十メートルとはいえ走ってたどり着いたその光景を、過去の私よりも前へ進んだ私のことを、浩樹君は知らない。

 たったそれだけのことが、私の心の内へちっぽけな、しかし確かな勇気の灯火をつけてくれた。

 今の浩樹君が私の知らない面を持っているように、少しずつ経験を積み重ね、浩樹君の知らない私を増やしてゆく。そうして変化した私を、私自身が愛しく思えるようになれれば、いつか彼の隣に追い付いたとき、私は誇りを持って、彼と共に歩くことが出来るだろう。

 もつれそうな脚と荒い呼吸を連れ立って、私は速度を緩めた。のどの下まで膨れ上がりそうな心臓の鼓動を抑えるために、私は近くにあった照明の支柱へ身体を預けると、身体ごとゆっくりと振り返って、車椅子の私を見た。

 ──あなたのやっていることはただの自己満足……いいえ、自己欺瞞よ。走って私を追い抜いて、それでどうなるというの? 何が変わったというの? どうにもならない現実は何も変わっていないじゃない。所詮、あなたのしていることはその程度のことでしかないわ──。

〈そうね。確かにあなたの言うとおりかもしれない。でもね──〉

「それの何がいけないの?」

 自己満足だろうと自己欺瞞だろうと好きに呼べばいい。前へ進んでいるという自信と確信を得られるなら、私は好きなだけ自分で自分を甘やかし、騙してやるつもりだ。

 気が付けばいつしか車椅子の私は消え去っていた。晩夏の薄蒼い空から、少しだけさびしい残暑の風が私を通り抜けて、木々の梢を揺らす。

「燈子ちゃん!」

 美咲ちゃんと手嶋君が私のもとへ駆け寄って来る。理由も分からず涙が溢れてきて、けれど心は晴れやかだった。

「やったよ……。私は、これで……。きっと──」

 今の気持ちを表す言葉が見つからなくて、それでも、めいっぱいの感謝を伝えようと二人へ向かって足を踏み出しかけたそのとき──。

 不意に、視界がぐらついた。

 あれ? と思う間もなく、私は尻餅をつくように地面にへたり込み、そのまま仰向けに倒れていた。

〈疲れた、のかな──?〉

 青い顔をした二人が慌てた様子で私の名前を呼んでいるけれど、まるで水の中にいるように、くぐもってしか聞こえない。私の顔を覗き込む二人はとても焦っているようで、早口で何かを問いかけているのに、身体のだるさに包まれた私は何も応えられなかった。

〈何だかすごく──〉

 霞む意識で今の時間を思い出す。まだ余裕はあるはずだった。それなのに。

〈眠い──……〉

 穏やかな眠りとは程遠く、ブレーカーを落とすように、私の意識は一瞬で闇に落ちていった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る