【荒れ果てた庭】⑯ 『芳春/バイの能力』
たしかにここまでは予想外の展開だった。
正直ファーザーの力というものをあなどっていた。
まさか自分の心の中に無数のドアを作り上げるなどということが、普通の人間に出来るとは思いもしなかった。普通の人間だったら、これほどの数のドアを持っていれば発狂しているに違いないからだ。
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「たしかに俺はあんたを甘く見ていたようだ」
芳春はファーザーをにらみ返した。眼球の血管が膨れているのか、その視界は薄いピンク色に染まっている。
「だが、あんたも俺を甘く見ているよ」
体力的にはもう限界に近かったが、ありったけの殺気をかき集めて再び精神を集中させる。
子供の頃に受けた虐待の数々、その恐怖を燃料に、憤怒と憎悪の炎を燃え上がらせる。
(バイ、俺がここで死んだら、おまえは俺の体が使えなくなるんだぜ。だから本気を出せよ、今、ここで、ファーザーを殺すんだ)
自らが作り上げた炎の中でバイがにやりと笑うのが感じられた。バイは赤い目をらんらんと輝かせ、裂けた口をいっそう大きく開き、背中の翼をぴんと張りつめた。
(――ああ、まかせておけ、ヨシハル)
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「まだ抵抗するつもりかね? 勝負は見えたと思うのだが? それともまだ能力を隠しているのかな?」
「ファーザー、あんたはこの【バイ】という名前の意味を考えたことがあるか?」
「キミたちが能力をもつ人格に名前を付けているのは知っているよ、みんなカタカナ二文字でつけるんだろう?」
「よく知ってるじゃないか。俺たちは自分の能力を表す言葉を名前につけるんだ。バイの意味は『買う』という意味のバイだ。これは相手の心の中を買収するという意味。つまり俺の能力そのものだ、だがそれだけじゃない」
「まだあるのかね? それはなかなか興味深いパターンだな」
「ああ、もう一つは文字通り『倍』、倍にするという意味だ。それを今から見せてやるよ」
バイが体を丸めた。と、ぴんと張り詰めた翼の間から、もう一対の翼が生えてきた。その翼がゆるく羽ばたき、バイの体からもう一体のバイをするりと引っ張り出した。
新しく生まれ出たバイは、元のバイとまったく同じ姿をしていた。
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「ほう、分裂して増殖するのか……たしかに面白い能力だ。だが、それがどうしたというんだね?」
(まだ終わっていないんだぜ、ファーザー……)
二体のバイが同時に笑った。
そして二体ともが再び体を丸め、翼をぴんと張った。再びその間から新たな翼が生え、新しいバイが姿をあらわした。
これでバイは一気に四体となった。
「バイは分身を作り出すことができる。そしてその分身をターゲットの心の中にずっと住み着かせることができるんだ」
四体のバイが再び体を丸めた。同じように翼をぴんと張り、新たなバイを生み出していく。それはまるでウィルスの分裂と増殖のようだった。八体に増えたバイはさらにそれぞれ分身を生み出し、さらに倍の数の悪魔を生み出し、みるみるその数を増やしていった。
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「こいつはすごいな……じつに興味深いな!」
そう言ったファーザーの声がわずかに震えていた。
芳春はその声に恐怖を嗅ぎ取った。
だが芳春自身の限界も近づいていた。
今や顔中の穴から、鼻はもちろん、目、耳、口の全てからも血がにじみ出し、流れだしていた。
(あまり時間がない……急げ、バイ……)
バイの増殖は驚異的だった。ただでさえ大きな体が大量に集まり、スズメバチの群れのように真っ黒い固まりを作り上げていた。
そして芳春の言葉を聞くと、その雲の表面がざわめき、いっせいに全てのバイが八方に飛び立った。
そして自分の周りに無数にばら撒かれていたドアの前にたどり着くと、そのドアノブに手をかけた。
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「あんたの人格が何人いようと関係ない、皆殺しにしてやる!」
芳春は最後の気力を振り絞ってファーザーを見つめた。
ファーザーはずいぶんと汗をかいていた。その体ががくがくと震えだし、ガラスの破片が撒き散らされたままの机に両手をついた。大きな破片がざっくりと手のひらを刺し貫いたが、悲鳴一つあげない。
いや、あげられないのだ。
「そうそう、あと一つ。バイにはもう一つ意味があるんだ。『さよなら』の意味のバイさ。さよなら、ファーザー」
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芳春はファーザーのいる光景を締め出すように、きつく目を閉じた。再び無数のバイの姿が見えた。バイはドアノブに手をかけたまま、芳春の命令を待っていた。
(やれ、バイ! 全部引きずり出して、殺せ)
バイはにやりと笑うと、ぐいと扉を引きあけた。そして中にいるモノを殺すために、右腕の鉤爪を振り上げ、一斉に部屋の中に飛び込んだ。
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……そして予想外のことが起こった
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それは芳春もまるで想像していなかったことだった。
それはバイにとっても同じ事だった。
バイは振り上げた右腕を力なく脇にたらし、呆然と立ちすくんだ。
「驚いたかね? まさかこうなっているとは思わなかったろう?」
ファーザーの声が聞こえてきた。
芳春は絶望にとらえられ、呆然と脳裏の光景を見つめていた。
部屋の中はすべて空っぽだった。
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