【荒れ果てた庭】③ 『春美/大根と奇襲』
危ないところだった……
春美は目的の男が振り返った瞬間に、なんとか人影の中に隠れた。
ずいぶんと距離は開けてあった。それこそ彼の姿はずいぶんと小さく見えていたのだ。にもかかわらず、あの男は急に振り返った。
何かを感じ取ったということなのだろうか?
(勘の鋭い奴かもしれないわね)
春美は男の評価を少し改めた。
♥
彼女が追っている男は『ファーザー』の息子だった。
ファーザーに子供がいるということ自体が驚きだったが、その息子がごく普通に生活を営んでいるという事のほうがよほど驚きだった。なにしろファーザーは現代日本の中でももっとも凶悪、卑劣、残虐な行動を起こした個人であり組織だったからだ。
春美は両手で持っていたブランド物のハンドバッグを肩にかけ、頭にかけていた大ぶりのサングラスを目元にずらしてスーパーに向かって歩き始めた。
さっきは気づかれそうにはなったが、ここで引き下がるわけにもいかない。
なにしろ芳春から徹底的に行動パターンを探るように言いつけられているのだ。
それにしてもせっかく一流ブランドの服で身を固めているというのに、スーパーマーケットなんかに入らなければならないのが苦痛だった。
(このアタシが、こんな庶民の店に入らなきゃならないなんて……)
♥
それでも彼女はまず店先で大根を手にとり、それを見ているふりをした。
この大根に触れるという行為に、サングラスの奥ではマグマのように怒りが燃え上がっていたが、他人の目には熱心に品物を見ているぐらいにしか見えない。
「それは今日の特売品よ」
店のおばさんが言うと、春美はにっこりと微笑んだ。サングラスをかけていてもその美貌ははっきりと分かる。彼女には普通の人間にはない、はっきりとした美しさが漂っていた。
「そうなの? じゃ、ひとつもらってくわ」
そのまま大根をかごに入れ、さらに店の奥へと向かった。
店内は狭くごちゃごちゃとして、やたらと値引きを謳った手書きのポップが貼り付けてある。最悪だった。一番嫌いなタイプの店だった。
さらに店内は迷路のように入り組み、店のかどでは氷水に入ったさんまが悪臭を振りまき、特売のシールを貼った挽き肉のパックが積み上げられている。その匂いに吐きそうになりながら先に進むと、調味料のコーナーにたどり着く。
そこに目的の男はいた。
♥
ターゲットの名前は『桜井京一』。
年齢は十九歳、自分と同い歳だ。現在は予備校生、成績は中の上といったところだそうだ。身長は175センチ、これは自分よりも2センチ低い。顔はハンサムではない。ひどくはないが、ごく普通の顔だ。髪をさっぱりと短くし、線は細いがなかなかがっちりした体つきをしている。
あれは剣道を六年間続けてきたせいだろう。ちなみに剣道では目立つ存在ではなかったそうだが、大会ではいつでも上位に食い込んでいたという。
その男は、今マーボナスの素を熱心に見比べていた。
♥
(うーん、あまり強くはなさそうね)
春美は一目見てそう判断した。
器用そうだが、パワーも戦闘センスもないタイプだろう。
それでも春美はそれを確かめてみたくてしょうがなかった。それが悪い癖だということは承知していたが、この癖ばかりはどうなるものでもない。
春美は買い物カゴを左手に持ち、京一の立つ通路に方向を変えた。
両側には高い棚がならび、その隙間の通路はすれ違うのがやっとの広さだ。棚に並んだ商品を眺めるフリをしながら、一歩一歩近づいていく。
ターゲットは買い物に夢中で、春美が近づいていることに気がついていない。
(先制攻撃は……)
春美はカゴの中の大根に目をやった。
これで間違ったふりをして頭を殴りつけてみようか。
そう決めると、バッグをカゴに放り込み、右手に大根を持った。京一と背中合わせになるように向きを変え、横歩きで棚を眺めるふりをしながら近づいていく。
♥
ふと京一が首をめぐらせて春美を見た。
目があったのは一瞬、しかし向こうから先に視線を外した。
特に警戒している様子もなく、通路を空けるために一歩前へ出て、ふたたび調味料を熱心に見つめはじめた。
春美は京一の方向にくるりと体を回し、あいた通路をさらに横歩きに進んでいく。そうしながら大根を握り締め、完全に京一の死角まで進んだところで大根をゆっくりと振りかざす。
選んだ大根は大ぶりで硬く、重さもあった。頭蓋骨骨折とまではいかないまでも、急所にあてれば気絶くらいはさせられるだろう。
そして春美にはそのテクニックがあった。
♥
(これなら外さないでしょう)
春美は少し笑みを浮かべながら、スピードをつけて一気に大根をふりおろした。
が、そこで再び信じられない光景を目にした。
なんと京一は、大根があたる寸前にさっと身を屈めたのである。大根は京一の背中をぎりぎりのところで通過していった。
しかも京一はこの攻撃に気づいた様子もなく、隣の棚で別の調味料を手にとって眺めはじめた。
(そんな馬鹿な……コントやってるんじゃねぇぞ!)
瞬間的に春美の怒りが沸騰した。
死角から不意をついた完璧な一撃だったのだ。今のタイミングなら戦闘経験を積んだ人間でもそうそうよけられるはずがなかったのだ。
だが京一はそれをあっさりとかわしてみせた。
しかも余裕を見せて次の調味料なんかを選んでいる。
(ぜったいぶっ殺してやる……)
♥
春美は大根をカゴの中に戻し、そのカゴを床に置いた。
これで両手が自由に使える。さらに今日はスカートではなく、パンツをはいていたので両足も自由に動かせる。
軽く首をひねって伸ばすと、戦闘態勢は万全になった。
あとはきっかけだ。相手を間違えたふりをして叩きのめす。
それにはなにか理由づけが必要だ。
春美はそういう時にいつも使うセリフを口にした。
「――ねぇあんた、あたしに見覚えがあるでしょ?」
そういいながら京一の肩をぐっとつかみ、自分のほうにぐるりと向ける。
同時に下から突き上げるように、胃袋を狙って膝蹴りを繰り出した……
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