【荒れ果てた庭】④ 『京一/襲撃と臨界』
呼びかけられた一瞬、京一は春美の美しさに驚いた。
彼女はこれまで京一が見知った女の子とはまるで別の存在に見えた。すらりとした体型、細くて長い足に小さな顔、髪の毛のさらさらとゆれる具合などまるで人形のようだった。
彼女のような人間は一度見たら忘れるはずがない。
だから彼女に見覚えがないことは、すぐに思いあたった。
♣
「いや、ないけど……」
その言葉が言い終わらないうちだった。突然圧倒的な痛みが襲った。肺の空気が残らず搾り出され、痛みで目の前が真っ白になった。
反射的に体が折れ曲がると、かすむ視界の中で彼女のひざが自分のお腹に、まさにめり込んでいるのが見えた。
京一は何が起こったのかまるで理解できなかった。
息を吸い込もうとするのだが、気管が完全に詰まってしまって空気が入ってこない。さらにお腹で生じた痛みはあっというまに全身に広がった。目の前にちらちらと銀色の星が瞬き、膝から力が抜けていく。
あ、これは気絶するな……なんとなくそう思った。
だが何とか足を踏ん張る。
が、次に腰からストンと力が抜けてしまった。
♣
「かはっ……」
そこでようやく息が吸い込めた。ふらふらと足を動かしながら、手近の棚をつかむ。が、つかんだのは何かの箱だった。ばらばらと箱がこぼれ落ち、騒々しい音を立てた。
それでももう一度、震える腕を伸ばして棚につかまろうとしたのだが、今度は棚がはずれ、そこに並べられた商品がなだれのように降ってきた。
(やばいな、店の人に怒られるな……コレ全部弁償だろうな……)
そんなことを頭のすみで考える。
だが今はとにかく立つことだ。
膝に手を当て、何とか体を支える。ようやく息ができるようになってきた。
ゆっくりと顔を上げると、そこにはまだ彼女がいた。
やっぱり見覚えなんかない。
完全な人違いだ。だからそれを伝えようとした。
♣
「たぶん人違いだよ、俺はあんたを知らないよ……」
「――嘘をつくんじゃないよ――」
彼女はささやくように言った。妙なことだが、彼女はわずかに笑っていた。
(こいつ、何か変だ……)
京一は思った。
さらに目の前の女はサングラスを外し、額の上にずらした。
美しい顔をしていた。神々しいといえるほど整った美しい顔だった。そんな女性が暴力をふるったなどとは、にわかに信じがたいほど。
だが彼女の瞳を見た瞬間、京一は春美の中の何かが決定的に壊れていることを感じ取った。
春美は右手で京一の髪をむんずとつかんだ。そのまま、片手で自分の目の高さまで京一の顔を持ち上げていく。そして自分の瞳を見せつけるように顔を近づけた。
♣
「ほんとに見覚えがない?」
「ああ、本当に人違いだよ……」
京一はうめくように答えた。
「だってあんたは『桜井京一』でしょう?」
京一は彼女が自分の名前を知っていることに驚いた。
どうして知ってるのだろう? それともやはり知り合いなのだろうか? だがどちらにしてもこんな暴力を受けるようなことはなにもしていない。
「そうだけど……でもやっぱり人違いだよ」
京一はそう言った。
が、ふいに
(いや、見覚えがある……?)
そう思った。確かにどこかで見た気がする。それも最近のことだ。
すると今朝見た夢の情景が、遠い記憶のようにおぼろげに浮かび上がってきた。
そうだ、あの夢の中に出てきた、
やたらと【恐ろしい目をした女の子】。
それが彼女だった。
♣
「あたしは
春美は京一の髪からぱっと手を離した。京一の体はすぐに重力に引かれて落ち始める。だが春美はすかさず右手を伸ばし、今度は京一の首をがっちりと掴んだ。そして体をひねりながら砲丸投げのように右手を突き出し、京一の頭を背後の棚にたたきつけた。
京一の後頭部がまともに棚にぶつかった。
ゴンと鈍い音が響き、衝撃で棚がぐらりとゆれた。
意識はあったが体が完全にグロッキー状態となり、棚を背もたれにしてズルズルとずり落ちていく。
同時に傾いた棚からは瓶詰めになったピクルスやらザワークラウト、ホワイトアスパラガスなどが順番にすべり落ちはじめた。
そして一つのビンが倒れていく京一の横を静かに通り過ぎ、タイル張りの床に接すると同時に、粉々に砕けて八方にガラスのかけらを飛び散らせた。
『パリーン』と、澄んだ甲高い破裂音が響いた。
最初に割れたビンのその音で、朦朧としていた京一の意識が澄みわたった。
♣
京一はゆっくりと流れ出した時間の中を、眼球だけを動かして音の出所を探った。左手のすぐ先でビンが割れ、八方に破片を飛び散らせているところだった。
京一の心臓にいいようのない恐怖がこみ上げてきた。
あの音、飛び散るガラス、それが恐怖の源だった。
なんとかここから逃げ出したい。まず考えたのはそれだった。
だが体はまるで言うことをきかなかった。腰は完全に抜けてしまって、今も床にすべり落ちている最中だ。
そうしている間にも頭の横をいくつものビンが通り過ぎていく。
(逃げなくちゃ!)
そう思うのだが体はまったく動かない。
パニックが駆け上がり、心臓はドクドクと暴れまわっている。
だがどうにもならない。次々とビンが落ちていくのが見える。
右に五個、左に七個のビンが空中を漂い落下していく。
全部割れてしまう……無数のガラスの破片を振りまいて、あの嫌な音をたてて。
♣
(逃げないと……とにかくここから逃げないと……ガラスが全部割れちまう)
無駄なことだとは分かっていたが、京一はそれでも体を動かそうとした。手が動くならばビンが割れる前に掴むことが出来る。だが手は動かない。
足が動けば立ち上がって逃げ出せる。だが足も動かない。
完全に逃げ場がなかった。周りではビンが次々と落ちていく。
どうにもならない……全部割れてしまう……粉々に砕けて……
そしてビンがついに地面に接した。
♣
その一瞬、自分がどうしてこんなにもビンが割れることを恐れるのかを、京一は不思議に思った。
そういえば小さい頃からずっとそれが怖かった。ただただ怖かった。この恐怖感は理屈ではなく、もっと感覚的なものだった。
♣
そして長く引き伸ばされた一瞬の後、ビンが床にあたって破裂した。
それを追うようにガラスビンが次々と床に落ち、破片を撒き散らし、かん高い音を立てて割れていった。
京一はその全てから目を離すことが出来なかった。
三十個以上のビンが次々に床に落ちて割れていく。
次々に音がはじけ、そのたびにガラスのかけらがバラバラに飛び散っていく。
♣
そのとき、京一の恐怖が限界を超えた……
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