【荒れ果てた庭】⑤ 『春美/声なき悲鳴』

 

 春美は片手を腰に当て、満足げに京一の姿を見下ろした。

 しかしずいぶんと大ごとになってしまった。


 棚は傾いて商品は散乱しているし、ビンが大量に割れてしまって中身が散らばっている。だがこの破壊された惨状は、見ていてとても気持ちのいいものだった。

 なにより両耳をおさえて、うずくまって座る男の姿に胸がスッとした。


  ♥


「あー、いい眺めだわ」

 春美は京一に向かって呟いた。


 だが期待していたような返事は返ってこなかった。

 ずいぶんとおびえた様子で、体中をがたがたと震わせている。


「おい――」

 そう言いながら春美はつま先で京一の足を軽く蹴飛ばした。

 だが京一はやはりうつむいたまま体を震わせている。


「おい、ってば――」

 もう一度つま先で小突いた。やっぱり反応がない。なにか妙な感じだった。ここまで怯えるようなことはしていない。

 ただ殴りつけただけだ。

 それなのに、この男は極度の恐怖を感じているらしかった。


  ♥


(コイツ、ひょっとして……)

 彼女にはこういうことに経験と理解があった。


 芳春はなんという言い方をしていただろう?

 緊張状態? 過剰反応? 精神防壁?

 たしかそんな言葉だった。


 肉体的な痛みへの恐怖というより、精神的な痛みへの恐怖。

 その防衛本能が現実から感覚の全てを遮断しているようだ。


 たぶん今は何も見えていないし、言葉も聞こえていないのだろう。


   ♥


(ちょっとやりすぎたかな?)

 春美は少しだけ反省した。


 考えてみれば店の人間がこれを掃除しなければならないわけだし、この男はいきなり痛めつけられた挙げ句に壊した商品を弁償しなくちゃならない。調味料を熱心に見比べていたくらいだから、たいしてお金も持っていないのだろう。

 まぁ知ったことではないが。


 それよりも……あたしは芳春にこっぴどく怒られるだろう。

 うーん。これは考えるほどまずい状態。これはたしかにやりすぎだった。


「おい、悪かったな、ちょっとやりすぎた」

 春美は屈みながらそう言った。そして髪の毛を掴んで京一の顔をグイと覗き込み、その様子がおかしいどころではなく、異常なことに気がついた。


   ♥


(なんだ、コイツ?……)

 京一の目はうつろで、なにも見ていなかった。


 だが異常なのは目ではない。京一は大きく口を開けていた。

 そして声にならない悲鳴を振り絞っていた。

 長く長く大きく息を吸い込み、腹に力をこめて息が絶えるまで絶叫していた。


 


「なんなのソレ? 超音波でも出してんの?」

 春美はなんとなくそんなことを思い、自分の冗談につい笑ってしまった。

 だが笑いながらも、京一の状態が冗談では済まされないようなことになっているのだけは分かっていた。


   ♥


 春美は京一の前にかがみこみ、注意深くその様子を眺めた。

 京一はまた息を吸い込み、声にならない悲鳴をあげた。


 息が苦しいのか、目には涙が浮かんでいる。しかし本人は泣いていることも、悲鳴をあげていることもまるで分かっていないような感じだった。

 ただ機械のように大きく息を吸い、息が切れるまで悲鳴をあげている。


 そうして眺めているうちに、ふと、春美は気がついた。

 京一が悲鳴をあげているとき、わずかに唇の動きが変化していた。これはなにか意味のある言葉をしゃべっているように見えた。

 春美は京一の唇の動きを真似て、それを言葉にしてみた。


   ♥


「あーえー、おーあう?」

 何のことやらさっぱり分からない。もういちど注意深く口の動きを真似てみる。


「かえー、おーあん」

 なんか言葉になってきた。京一が叫び声をあげているのをまねて、なぞるように彼女も言葉を発音する。


「はええ、おおーあん、」

 もう少し。もう少しでちゃんと言葉になりそうだ。

 もっと注意深く唇の動きを見ようと、京一の顔に自分の顔を近づける。


 そのとき、邪魔が入った。


   ♥


「どうしたんだい?」

 狭い通路をヨタヨタと近づいてきたのは、外で野菜を売っていたおばさんだった。まぁ考えてみれば、これだけ大騒ぎをしたのだから店員が出てくるに決まっている。春美はすばやく頭の上のサングラスを目もとにおろした。


「なんか、この人が急に気を失って倒れたみたいなんです! わたしもなんかびっくりしちゃって」

「そりゃ大変! 救急車を呼んでくるわね」


 おばさんは振り返り、すぐに駆け出そうとする。

 が、春美はすぐに彼女を呼び止めた。


「待って。息はあるから、ちょっと様子を見たほうがいいみたい」

「そうなのかい?」

「ええ。しばらくでいいから、この近くに誰もこないようにして」


 春美はてきぱきとした調子で言った。

 おばさんは一瞬怪訝そうな顔をしたが、春美の勢いに押されるように、野次馬になった客の誘導を始めた。


   ♥


 そうして通路に誰もいなくなると、春美はふたたび京一の前にしゃがみこんだ。

 もう一度ゆっくりと、京一の唇の動きを真似てみる。


「やええ、おおあーん、」

「やえて、おおーあん、」

「やめ・て……おとー・さん……」


。なるほどね」


 やはりファーザーの息子ということか。

 どうやら何か秘密がありそうだ……


   ♥


 春美は目を細めて、うれしそうににっこりと笑った。

 芳春にはこの騒動で怒られるかもしれないが、それ以上におもしろい土産ができた。これならば、怒られるどころか誉めてもらえるかもしれない。いや、きっと褒めてくれるはずだ。


(でも、その前にここから逃げ出さなくちゃね)


 春美は立ち上がり京一を見下ろした。

 京一はまだうつろな目のまま、声にならない悲鳴をあげている。

 こんな状態で見つかると、何かと厄介なことになりそうな気がする。

 それならば本当に気絶してもらったほうがいいだろう。それに気絶させておけば、また店の人間が騒ぎだすから、逃走の時間を稼げる。


  ♥


 春美はすっくと立ち上がり、ぐるりと店を見回した。

 店の奥にオレンジ色のビニールカーテンをたらした商品の搬入口が見えた。

 あそこから裏口に逃げられるだろう。

 たとえ邪魔が入ったところで、わたしの敵じゃあない。


「悪いけど、


 春美は左手を棚にかけてつかまると、右足を後ろに引いた。

 狙いはこめかみ。動かない相手なら、気絶させるのは簡単だ。

 そのまま力をこめて右膝を蹴りだした。

 

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