【荒れ果てた庭】⑥ 『京一/荒廃した庭』


 京一は【荒れ果てた庭】に立っていた。

 

 ここが庭だと分かるのは、目の前に古びた洋館が建っているからであり、この庭全体がぐるりと鉄製のフェンスで囲まれているせいだ。

 その洋館は木造の二階建てで、人が住まなくなってずいぶんと長い時間が経過しているようだった。白いペンキの跡が残る壁の板はあちこちで剥がれて、ぼろぼろに朽ち果てている。かつては洒落た印象を与えたであろう出窓は、ガラスがことごとく割れており、今はベニヤ板が打ち付けられている。

 正面のドアはちょうつがいが外れ、斜めに傾いたまま、風もないのにゆっくりと揺れている。


   ♣


 京一はこの場所に見覚えがあるような気がした。ただ気がしたというだけで、それにまつわる記憶というのはまったくない。

 だがそれでもこの場所をよく知っている感じがした。

 たとえば正面の洋館がまだ新しく、白いペンキがまばゆく輝き、レースの透ける出窓が太陽の光を反射させている光景を容易に想像できた。

 この庭もそうだ。今はすべてが枯れ果てているこの庭が、緑の芝生に覆われ、花壇に色とりどりの花を咲かせていた頃の光景を想像することが出来た。


(それだけじゃない……)


   ♣


 振り返ると、やはりそこには噴水があった。

 それは大理石で出来た円形の噴水で、中央には水がめを持った女神の彫刻がある。もちろん噴水にも荒廃の波は容赦なく襲いかかっていた。大理石のあちこちが欠け、ひび割れ、枯れたツタが噴水全体を幾重にも取り巻いていた。

 だがこの噴水の光景からも、白くなめらかな肌をした大理石の女神が、細い腕で抱えあげた水がめから、透き通った冷たい水を流していた姿が自然と想像できる。


(なぜだろう? なぜそんなことが分かる?)


   ♣


 京一はまた自分を見失ったような気持ちになった。


 なぜそんな風に感じられるのだろう? わからない。

 どうして見覚えがあるのだろう? わからない。

 自分のことでわからないことが多すぎる。

 いったいここはどこなのだろう?


 時刻だけはなんとなくわかる。まだ早朝だ。

 空気全体がインクを流したように青く染まっている。

 だが分かるのはそれだけだ。いつから自分がここにいるのか、どうやってここにきたのか、なぜここにいるのかも分からない。


   ♣


 その時だった。


 


 その音は屋敷の裏側から聞こえてくるようだった。なにか鋭利な刃物で草を切っているような音だった。

 その音はだんだんと近づいてきている。誰かがいるということだ。ということは、ここがどこだか教えてくれるかもしれない。

 京一は音に向かって一歩を踏み出した。


 が、その瞬間に背中からうなじまでがいっせいに総毛だった。

 それは突然湧いた恐怖のせいだった。それも生半可な恐怖ではない。全身がとめどなく震えだし、あぶら汗が噴き出してきた。口の中はからからに乾き、頭の中が麻痺したようにしびれきっている。


 それは生き物として感じる、死に直面しているような根源的な恐怖だった。


   ♣


 京一はあたりに目を配った。


(はやく隠れなくちゃ)

 急にそれしか考えられなくなった。

 だがこの荒れ果てた庭には身を隠せる場所はなかった。


(外はどうだ? フェンスは?)

 フェンスは高さもあるし、先端が鋭くとがっている。

 それにあそこまで走りきる時間もない。


(どうする? どうしたらいい?)

 京一の目は再び正面の玄関をとらえた。

 傾いたドアが、その向うに見える暗闇が、手招きしているように見える。


 もはや選択の余地はなかった。

 京一はすばやく石段を駆け上ると、傾いたドアの隙間に体をすべりこませた。


   ♣


 屋敷の中は薄暗く、古いほこりとカビの匂いが充満していた。

 正面には蹄鉄の形にカーブを描く階段が二本、二階に向かって伸びていた。階段の頂上は壁になっており、そこから左右に廊下が伸びている。


 二つの階段が突き当たる壁には巨大なステンドグラスが二枚はめこまれていた。キリスト教をモチーフにしたもので、右側には赤ん坊を抱いた聖母マリアの姿が、左側には磔にされたキリストの姿が浮かび上がっている。


 さらに二枚のステンドグラスの間にはやはり巨大な額縁に収められた油絵が飾ってあった。その油絵は人物画のようだったが、逆光になっていて細部はよく見えない。だがその人物は鼻の下に小さなヒゲをはやし、軍服のようなものを着ているのは分かった。


 


 だが今はそれを気にしている時間はない。


   ♣


(二階に逃げようか?)

 一瞬そう思ったのだが、行き先はそこではない気がした。


 たぶん……右に目をやると大きな扉が見えた。それから左側に目をやると、こちらにもまったく同じ、大きな扉がついていた。


 京一は迷わずに左の扉に向かって歩き出した。足元で床板がぎしぎしと音を立てたが、それを気にせずに走り出す。


 鍵がかかっていたらどうしよう?

 一瞬そう思ったが、大きな扉は音もなくするりと開いた。


 開いた扉の向こうには長い廊下が伸びていた。すぐ右手には地下へと降りる階段があった。階段は途中で折れ曲がり、行く先は闇に閉ざされている。

 地下からは冷たい風が吹き上げ、その風の中にはなにかひどく不気味な臭いがまぎれ込んでいた。


(どうしよう? 廊下の奥へ進むか、地下に降りるか……)


   ♣


「――――」

 階段の下からささやくような声が聞こえた。


   ♣


 それはひどくかすれた声だった。だがとても力強い感じの声で、その調子は友達が呼んでいるような親しい感じだった。


 恐ろしい感じはしない。むしろ自分の味方だと本能的に感じるものがあった。


 それでも京一はためらった。

 地下にはなにかよくないものが待っている気がしたからだ。


「――――」

 声がささやく。


(誰に? 誰に殺されるというんだ?)

 京一は思った。


(……ハルミ、とかいう女?……)

 不意に京一に記憶がよみがえった。やたらと美人だが恐ろしい女のこと。彼女が突然スーパーに現れ、自分を殴りつけたこと。そしてガラス瓶が割れ、あの恐ろしい音がいくつも炸裂し、自分が気を失ったこと。


   ♣


……)

 ようやくここにいる理由がわかった。


 だが、それに気づいたところで、この夢から覚める方法はなかった。そしてもっと現実的な問題、今自分が夢の中で正体不明の存在に追われていることにかわりはなかった。


「――――」

 階段の下からふたたび声がささやきかける。


 京一は階段に向かって一歩を踏み出した。

 自分がトラブルに足を突っ込もうとしているのは自覚している。

 だがこの場合、選択肢はなかった。

 この場を切り抜けるには、地下にいる何者かに頼るほかないようだ。


「……どうせ夢の中だ」

 京一は階段を一歩一歩降りていった。

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