【荒れ果てた庭】⑦ 『芳春/恐怖と憎悪』

 京一が春美の襲撃を受けていた同時刻の午後五時三十分すぎ。

 芳春はK県内の国立大学の正門前にいた。


 この大学内に長年追い求めてきた最後の【ファーザー】がいる。


 芳春は右手の奥にそびえる六階建ての白いビルを見上げた。

 調べたところでは、ファーザーはあの研究棟のどこかで、精神科の教授兼精神科医として勤めているという。


   ♠


(よくもまぁ、一般人のふりをして忍びこんだもんだな)


 かつてファーザーの『ナンバーツー』だった危険極まりない人物、その男がこともあろうに子供を教えている。それだけならまだしも医者の真似事をして人間を救っているというのだ。罪滅ぼしのつもりならお笑いぐさだ。


 あいつの犠牲になった子供たちはいったいどれくらいの数にのぼっただろう? 見当もつかないが、あいつが何度生まれ変わったとしても同じ数の子供を救うことなどできやしない。


 芳春は怒りに血がめぐるのを感じ、そのビルから視線を外した。


   ♠


(ファーザー、あんたは償いなどしなくていい、あんたの罪は決して許されないし、俺が絶対に許さない)


 芳春は紺のカシミアマフラーを締めなおし、トレンチコートのボタンをとめた。それから色の薄いサングラスをポケットに入れ、ゆっくりとした足取りで正門に向かって歩き出した。


 大学の正門は大きく開かれおり、下校する学生たちの集団がにぎやかに笑いながら歩いてくる。

 芳春はその流れに逆らうように、ゆっくりと門を通過した。


 すれ違う瞬間には女学生たちが芳春の顔を見てたちどまり、彼が通過していく姿をうっとりと眺めた。芳春はその視線の中、颯爽とした足どりで秋風をまとい歩き去っていく。


   ♠


 学校の中央を貫くメインストリートを歩いていくと、学校のシンボルである銀色の時計塔にぶつかる。それを右にまがるとこぢんまりとした屋外ホールがあり、さらにその奥に目的の研究棟が見えた。

 その研究棟からはちょうど学生たちが固まりになって出てきたところだった。見たところ入り口には守衛の姿もない。


 芳春は彼らとすれ違うようにして建物の中に入り込み、それからファーザーの研究室を探した。

 エレベーターの横に張り出されたプレートから目的の部屋を探す。

 それはすぐに見つかった。


【 503 桜井夏雄 教授 Dr. NATSUO SAKURAI 】


 この時間なら授業が終わって一人きりになっている頃だろう。

 まずは計画どおりに事が進んでいる。

 芳春はエレベーターに乗り込むと、五階のボタンを押した。


   ♠


 わずかだが心臓がドキドキしていた。

 言いしれぬ不安が心臓を絞るように締め付けてくる。


 それはこれから出会う相手が【ファーザー】の一人だからだ。

 彼らに対する恐怖は克服したつもりだが、それでも幼い頃に染み付いた恐怖というものは完全にはぬぐいきれないものだ。


 だがこんな思いをするのもこれで最後になるだろう。


 最後のファーザーを殺せば、あらゆる恐怖と決別することが出来る。そのときに初めて、自分の意志で自分だけの一歩を踏み出すことが出来るようになる。


   ♠


 エレベーターの扉が柔らかに開き、芳春はリノリウムの床に一歩を踏み出した。

 誰もいない。左右にがらんとした廊下が伸びているだけだ。

 503号室のプレートは右側に伸びた廊下の突き当たりにあった。


「待ってろよ、ファーザー。あんたたちの子供の成長した姿をみせてやる」


 芳春はつぶやき、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 素早くキーを入力していくと、小さな画面にゆらりとリストが現れた。


 すべてクラシック音楽の作曲者とその曲名だ。

 ベートーベン、シューベルト、モーツァルト、ヨハンシュトラウス、それを次々にスクロールしていき、やがて目的の曲を見つけた。


【 R・ワグナー 神々の黄昏 】


 それを確認すると、スマートフォンを握りしめたままポケットの中に突っ込む。

 準備はこれでオーケーだ。


 芳春は首を傾けて関節をぽきりと鳴らした。そしてツッとあごを上げると、一歩一歩を踏みしめるようにファーザーの研究室へと歩き出す。


   ♠


 目的地まではあとわずか十メートル。だがここまでたどり着くのに何年の歳月を必要としたことか。あの部屋へ歩いていく勇気を取り戻すのに、どれだけの恐怖を克服してきたことか。


(それもこれで終わり……終わり、終わりだ! 終わらせる!)


 芳春は胸の中に再び憎悪の炎を燃え上がらせた。

 ファーザーの恐怖に対抗する唯一の手段は、魂の底から湧き上がる憎悪だけだ。

 憎しみだけが怒りを呼び覚まし、過去にファーザーから受けた、あの虐待の日々の恐怖を塗りつぶしてくれる。


 それでもまだ、ドアノブを握る芳春の手は小さく震えていた。


(大丈夫、恐怖はない……もう怖くはない……俺は負けない)


 芳春は一つ大きく息を吸い込むと、研究室の扉を開いた。

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