【荒れ果てた庭】② 『京一/悪夢の余韻』
京一はベッドに寝そべったまま、窓の外に夕日が沈んでいくのを眺めていた。
机の上に雑然と積み上げられた参考書が、部屋に長い影を落としている。今日はひどい夢のせいで結局予備校に行かなかった。
大学受験も三ヵ月後にせまり、一日たりとサボっている場合ではないのだが、今日だけはどうしても行く気になれなかったのだ。
♣
京一は朝からずっとあの悪夢のことを考えていた。
小さなころから、繰り返して同じ夢を見てきた。一度そのことを友達に話してみたのだが、これは結構普通ではないことらしい。だがそれが普通であろうとなかろうと、夢で見てしまうものはしょうがない。腑に落ちないのはその内容だ。
夢の中の自分はどうしてあんなにも好戦的なのだろう?
自分のことなのにそれがまったく理解できない。
まるで別人のことのように思えるのだ。
「まぁ、考えても仕方がないよな。夢は夢なんだし」
京一はわざと口に出してそうつぶやいた。どうせ聞いている人間はいない。父親は仕事に出かけており、帰ってくるのは夜中になる。母親は彼が三歳の時に病気で死んでしまっており、それ以来父親と二人だけでつつましく暮らしてきた。
「でも、どうして相手が父さんなのか、だ……」
♣
心が重苦しいのはそのせいだ。
父親は大学病院に勤める精神科医で、口数も少なくぶっきらぼうなタイプだった。だがけっして冷たいわけではなく、その表現は不器用ではあったがやさしかった。京一にとってはいい父親だったのだ。
その父親に殴りかかる夢というのがどうにも理解できない。
本当に父親に対しては何の不満もないのだ。
ストレスがあるとすれば、今のこの状況だ。たしかに浪人生活というのは想像以上にストレスだった。一年間の限定とはいえ、受験という、のるかそるかの大勝負が常に頭から離れないし、この受験に失敗したらと思うとそれこそ胃が痛くなってくる。
だが、だからといって父親に殴りかかる夢をみる理由はどこにもない。
(でも、俺は殴りかかっていった……)
♣
(まぁ、これ以上考えたところで仕方がないか……)
京一は起き上がると、スエットを脱いでジーンズとTシャツに着替えた。その上からごわごわのシャツを羽織り、さらにパーカーつきのコートを着た。
着るものにはあまり頓着しない方だが、身長があるので着こなしは悪くない。
それから洗面所で手早くひげを剃って顔を洗った。
ふと、鏡の中の自分と目が合った。
夢の中の好戦的な自分がフラッシュバックする。
「どうかしてるよな、俺」
鏡に語りかける。
昔はこの鏡が怖くてしょうがなかった。というよりはガラス製品全てが怖かった。あの割れる音が怖くて仕方がなかった。
このことは誰にも言ってないが、実は今でもガラスが割れる音には恐怖を感じる。ガラスが粉々に砕けて散らばる感覚、そこに移った自分までもがばらばらになってしまいそうな気がしてくるのだ。
京一は長年の習慣から反射的に、鏡の中の自分から目をそらした。
(そう、俺はいまだに鏡の中の自分を正視できない、だからあんな変な夢を見つづけるんだ)
♣
京一は自分の部屋を出て居間に入った。
陽も暮れて部屋はすっかり暗くなってきている。
とりあえず冷蔵庫まで歩き、扉を開けてその中を覗き込む。冷蔵庫の中はすっきりと整理されている。京一が自分で整頓したものだ。
野菜と肉をチェックし、今日の献立を手早く考えた。しょうが、ねぎ、キャベツが残っている。肉は豚のバラ肉と、ひき肉が少し入っているだけだ。
「うーん、生姜焼き、かな」
京一は頭の中で手早く献立を組み立てた。
キャベツの千切り、豚の生姜焼き、ごはん、味噌汁は油揚げとワカメ。まぁこんなものだろう。父親は料理に注文をつけたことがない。
それから京一は食器棚からコップを取り出した。
そのコップは京一のガラス嫌いのためにプラスチック製だった。コップだけではなく、食器棚にあるものは皿などもすべてプラスチック製になっていた。食器棚の扉もガラスではなく、すべてアクリル版にかえられていた。それほど京一のガラス嫌いは筋金入りだった。
プラスチックのコップで水を一杯飲むと、財布をジーンズのポケットにねじ込み、買い物をするため家を出ていった。
♣
スーパーマーケットは通いなれたおなじみの店だ。店先で野菜を並べているパートのおばさんに挨拶し、今日の特売品を聞く。
「今日はナスが安いよ、買っていかないかい?」
「うーん、どうしようかな」
「マーボナスでもつくったらどう? 調味料も安売りになってるわよ」
そういえばひき肉があったことを思い出した。おばさんとは顔なじみだから、たぶんこちらの台所事情もよく把握しているのだろう。
「じゃあもらってく」
「はいよ、今日も晩御飯を作るんでしょ? いつもえらいわね」
「たいしたことじゃないよ」
♣
そのとき――
京一は不意に背中に視線を感じた。
誰かが見ている……そんな感覚が確かにある。
だがこんな経験は初めてだった。冬が近づいているというのに、額を汗が滑り落ちた。鼓動が早くなり、全身に大量の血が行き渡っていく。
「どうかしたのかい?」
おばさんの声を遠くに聞きながら、京一はゆっくりと振り返った。
同時に、あの感覚がすべり落ちるように消えた。
目の前にはいつもの商店街の光景が広がっている。
買い物袋を下げて行き交う人々、地面に座り込んだ高校生、幼稚園児を連れた母親が歩いている。
普段となにも変わることはない。
足を止めてこちらを見ている者はだれもいない。
もちろん立ち止まって見ている人間もだ。
「おかしいな……」
京一は違和感を覚えながらも、ふたたび
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