【荒れ果てた庭】⑪ 『芳春/バイの取引』
ワグナーの『神々の黄昏』の旋律が流れると同時に、芳春の視界から現実の光景が消え、荒れ果てた庭の光景が現れた。
目の前には木造二階建ての古びた洋館が建ち、彼のすぐ左手には水の枯れた噴水が、枯れたツタを幾重にも重ねて佇んでいる。その噴水の中央には、水がめを抱えた女神の像が、やはりぼろぼろに朽ち果てた姿をさらしていた。
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「まったく、いつ来ても気の滅入るところだな」
芳春は一つ息をつくと、慣れた様子でその庭を屋敷に向かって歩き始めた。
短い石段をのぼり、ちょうつがいが外れて傾いたドアをそっと開く。
屋敷の中に入るとすぐ目の前にアーチ型の階段が現れる。階段は緩やかなカーブを描いて二階でつながり、その真上の壁にはステンドグラスの窓が二枚、積もった埃でぼやけた色彩ながらも、イエスとマリアの姿を浮かび上がらせている。その二人に囲まれて飾られているのは、軍服を着た男の肖像画だ。
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芳春はイエスとマリアに向かって短く十字を切り、その指にそっと口付けした。
悪いクセだ、自分でもそう思う。
だが小さい頃に染み付いた習慣は簡単には消えない。
一階ホールには左右に同じ大きさのドアがあり、それぞれが別の翼に通じている。芳春は体を右に向け、その先にある大きな木のドアを目指して歩き出した。
ポケットに手を突っ込み、慌てたふうもなく、ワグナーの曲を口笛で吹きながら歩いていく。
「待ってろよ、ファーザー、今殺してやるからな……」
芳春は体重をかけて、軋む扉を開いた。
その先には廊下がまっすぐに伸び、すぐ左手には地下へと続く階段がある。芳春はそのまま左の階段を下に降りていった。
冷たく湿った空気が階下から上がってくる。その墓場のような匂いを嗅ぐたびに、芳春は初めてここに来たときのことを思い出す。
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それは芳春が中学三年生のときだった。当時の芳春は教会が運営する孤児院にいて、地元の中学校に通っていた。
高校受験のシーズンは近づいていたが、芳春は進学をまったく考えていなかった。とにかく働いて、お金を稼いで、独り立ちしたいと思っていたからだ。だがそれ以外はごくごく普通の生活を送っていた。
ファーザーの存在も知らなかったし、自分の過去におぞましい時代があったことも知らなかった。
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それは雪の降った一月のある日のことだった。
芳春はリバイバルで上映されていた『地獄の黙示録』という映画を見ていた。
映画は芳春の唯一の趣味で、その頃はアルバイトでためたお金の大半を映画に注ぎ込んでいた。朝から晩まで、たった一人で映画を見つづける、それが芳春の一番好きな時間だった。
その日もいつもと同じように、コンビニで買ったウーロン茶を片手に、一番前の席で足を投げ出して映画を眺めていた。
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そこまではいつもの日常とまったく同じだった。
だが物語がクライマックスにさしかかったところで、芳春の運命のすべてを変えるあの曲が流れ出した。それはワグナーの『神々の黄昏』という曲だった。
その曲を耳にした瞬間、芳春の中に猛烈な恐怖感がこみ上げた。それはあまりに突然で圧倒的だった。体が震え、涙が流れ、心臓が猛り狂い、ただ自分の体を押さえつけることしか出来なかった。
こんなことは初めてだった。自分に何が起こったのかもわからず、ただただ恐怖だけがとめどもなく溢れてきた。恐怖は一瞬にして限界を超え、完全に理性が飛び去り、目の前が真っ白になった。
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次の瞬間、芳春は『サイコガーデン』に立っていた。
とても静かだったことを覚えている。そしてこの光景に不思議と見覚えがあること、かつて自分がここにいたことをぼんやりと思い出した。
それは不思議な感覚だった。その記憶の糸をたどるように、屋敷の中に足を踏み入れ、恐怖におびえながら扉を開いたのである。
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(あれからもう四年になるんだな……早いもんだ)
芳春は階段を地下まで降りていった。
最初の頃はここにくるのが恐ろしかった。
自分の過去に踏み込むことが恐ろしかった。
だが今ではそれにも慣れた。確かにここは恐ろしい場所だが、ここにはそれ以上の力があったからだ。
それも普通の人間では絶対に手に入れることのできない力。それを使いこなすことが出来れば、みじめな人生を丸ごとひっくりかえすこともできる。
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「来たぞ、バイ」
芳春の前には廊下が伸びていた。剥き出しのコンクリートの壁と、天井に迷路のように走るパイプはずっと昔に放棄された廃墟を思わせる。
通路の中央付近には天井から裸電球がぶら下がり、風で揺れている。だが風が入ってくるような場所はない。廊下は十メートルほど進んだところで、一枚の巨大な扉に塞がれるからだ。
芳春はまっすぐその扉の前まで歩いていった。
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「また力を貸してくれ……」
それは牢獄の扉だった。それもただの扉ではない。芳春の二倍はあろうかという、巨大な鉄の扉だった。
その巨大な扉、芳春の目線よりかなり低い位置に一枚の木のプレートが掛けられていた。そこにはナイフで刻みつけたような文字が彫られている。
【バイ】
刻まれているのはたったそれだけだ。
芳春はその鉄の扉を見上げた。扉の上部にはのぞき窓が開けられており、そこから一対の大きな赤い瞳が芳春を見下ろしていた。
「ファーザーを見つけたのか?」
牢獄の扉の向こう、それもかなり高い位置からその声は聞こえてきた。低く、震えがちな、獣の声だった。
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「ああ、とうとう見つけたよ……」
芳春はそう言いながら、右のポケットを探った。
いつでも鍵はここにあった。
それをそっと取り出して、鍵穴に滑り込ませる。
かつて、初めてこの扉に鍵を差し込んだとき、自分が無意識のうちに忘れようとしていた、忌まわしい過去の記憶の全てがなだれのように脳裏に再現された。
それは血と涙に彩られた悪夢だった。今でも鍵を開けるたびに記憶の一部が流れ込んで、全身に鳥肌がざわざわと登ってくる。
だが最悪のときはもう過ぎ去っている。芳春は過去の自分に何が起こったのかを全て知っていた。
それを知ったからこそ、ファーザーを狩り尽くす旅を始めたのだ。
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カチリ、鍵は澄んだ音を立てて外れた。
芳春はすぐに後ろに下がった。巨大な扉がゆっくりと開く。その隙間から真っ白い冷気がこぼれだし、同時に獣の
「久しぶりだな、芳春」
バイは悪魔そのものの姿をしていた。
羊のような二本足で立ち、長い鉤爪のついた二本の腕を持っている。首は長く、その上に人とキツネを混ぜ合わせたような顔を持っている。さらに背中にはこうもりの羽を持ち、頭には羊のような二本の角を生やしていた。
そしてなによりバイは巨大だった。
大きな扉からさらに腰をかがめて出てきたのである。
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「まずは取引だ……」
バイは芳春のまん前に顔をもってくると、割れた舌の先をちらちらとのぞかせながらそう言った。芳春を見つめる瞳は、蛇のように瞳孔が縦に割れている。
「俺の寿命の五年分。それだけの時間、俺の体を好きに使っていい」
「ほう、今回は思い切ったな! トータルで十五年になるな」
バイは長い鉤爪であごの辺りをゆっくりとなでた。
芳春はポケットにしまった鍵をぐっと握り締めた。その鍵には十字架の飾りがついていた。その感触を指先で確かめると、少しだけ心が落ち着いた。
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(神よ、悪魔と取引することを、お許しください……)
それが到底許されることではないというのは芳春自身が一番承知している。それでも芳春は祈らずにいられなかった。
もはや後戻りはできるポイントはとうに過ぎている。前払いの期間はそのままツケ払いになっている。バイが自分の肉体を乗っ取っとれば、どれだけの殺戮を始めるか予想もつかない。
だが芳春はそうなる前に自らの手で命を断つつもりだった。本物の悪魔を道連れに出来るならば、これから犯す全ての罪を帳消しにすることも充分可能なはずだ。
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「よし。いいだろう、力を貸してやる。今回もツケにしておこう……」
バイは裂けた口をさらに押し広げて笑った。
その息はマグマのように熱かった。
「じゃあ、さっさとはじめよう……」
芳春はバイに向かって背中を向けた。
こいつに、このサイコガーデンで殺されたら、俺はいったいどうなるのだろう?
この瞬間、背中を向ける瞬間のたびに、いつもそう思う。
だがまだ殺されたことはなかった。たぶん今回も。
「さぁ、ファーザーを殺してやろうぜ、バイ!」
「ああ。任せておけ!」
バイの巨大な手が芳春の背中を包み込んだ。
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