【荒れ果てた庭】⑩ 『京一/サキの部屋』

『ファーザー』と呼ばれる男は金色の髪をしていた。そして恐ろしいほどくっきりとした青い目をもっていた。その肌は透き通るように白く、がっちりとした筋肉質の体を軍服に包み込んでいた。


「キョウイチ、戻れ。こっちにくるんだ」

 その男は闇を見透かすように、まっすぐ京一を見つめて告げた。明らかに外国人の顔立ちだったが、完璧な日本語を話している。そして京一が恐れていたような、狂人ではないようだった。


「まだ実験の途中だ、戻って来い」

 京一はあとずさった。足音を立てないよう、闇に身を潜めるように、一歩一歩後退していく。


 それでもその男の姿から目が離せなかった。男はナイフをかざすと、扉に結びつけていた鎖の結び目にその刃先を滑り込ませ、ぐいぐいと力任せに押し込み始めた。


   ♣


「――――」

 闇の奥からまた『あの声』がささやきかけてきた。


 だが京一は恐怖で頭がしびれていた。ナイフで鎖が切れるはずがない。それは頭でわかっているのに、それが切られるような気がして仕方がない。


 もしあの扉が開かれたら、俺はいったいどこへ逃げればいいんだろう? それとも大人しく、あいつのところに行ってみるべきだろうか? 見たところ狂人ではないし、怒っているわけでもなさそうだ。今ならなにもされずに許されるかもしれない……


 パキン、といきなり鎖が切れた。


 京一の全身に鳥肌が立った。

 男が巻きつけた鎖をまわしながら外していく。


 京一はクルリと振り返り、男から逃げ出した。闇に目が慣れてきたせいで、大体の輪郭は分かる。

 それでも転ばないように、右手の指先だけを扉に触れながら、ゆっくりと走り出す。カタカナの名前を刻まれた分厚い扉が、一枚一枚、京一の横をすべるように流れていく。


   ♣


「キョウイチ、戻って来い!」

 後からファーザーの声が聞こえる。

「逃げられる場所なんてないぞ!」

 闇の奥からの声が、だんだんと大きく、近くに聞こえてくる。


 と、いきなり別の声が右手の指先の辺りから聞こえてきた。

「こっちだ、お若いの!」

 京一は立ち止まった。


 ずっと呼んでいた『あの声』とは別の声。その声は『』だった。その声は閉ざされた扉の向うから、ささやくように聞こえてきた。


   ♣


 京一はその扉を見つめた。扉についているプレートの辺りを、指先でなでてみる。

 そのときにひとつだけはっきりと分かった。名前をわざわざ刻んであるのは、暗闇の中でこのプレートを読むためなのだ。

 そのプレートにはカタカナでこう書かれていた。


【 サキ 】


「お若いの、奥のアイツは、あんたにはまだ早すぎる」

 扉の向うからゆったりとした口調で老人がささやきかける。その声は不思議と心のざわめきと恐怖を静めてくれた。


   ♣


「あんた、いったい、何の話をしているんだ?」

 京一は扉の向こうの声『サキ』に問いかけた。


「だから奥で閉じ込められているアイツさ、アイツは乱暴ものでな、おまえの手には負えんよ」

「だから、いったいなんのことを話しているんだ?」

「おまえさん、全部忘れてるんだな? まぁ、無理もない、あんなことをされちゃ忘れたくもなるわな」


   ♣


 そのとき、闇の奥からふたたび『あの声』が聞こえてきた。


「――サキ、よけいなことをいうな! ジジイは引っ込んでろ! キョウイチは俺に用があるんだ! でしゃばるな!――」

 その声は吠えるように、壁全体に響き渡って聞こえてくる。


 京一はもう一度扉のほうを見た。

 どちらを信じるべきなのか?


「さて、お若いの。いまこの瞬間にワシの言うことを信じれば、おまえは間違いなく助かることができる。ファーザーからも、あの奥にいるアイツからも。今のおまえを本当に助けられるのはワシだけだ。どうだね? ワシを信用してみんかね?」


 京一は一瞬で決断した。

 それはその老人の声が信用できるものだったからだ。すくなくともこの世界に紛れ込んでからは一番信用できる声だった。


   ♣


「どうすればいい?」

「まずこの扉の鍵を開けておくれ、おまえの右ポケットにマスターキーが入っておる。だがな、一つだけ忠告しておく。。大変な痛みだ。それを覚悟しておくことだ」

「分かった」


 京一はもう一度、ポケットに手を入れた。先ほど鉄格子の南京錠を開けた鍵だ。それは精巧さとは無縁の、歯が二つ刻まれただけの単純な鍵だった。


 京一は鍵を鍵穴に差し込んだ。

(痛み……だったな)

 それからゆっくりと鍵を回した。


   ♣


 その瞬間、まぶたの裏に、直接フラッシュを押し付けたような鋭い閃光がはじけた。あまりの圧倒的な光に目がくらみ、それからゆっくりと視界が戻ってきた。


 最初に見えたのは一面の赤い空間だった。

 真っ赤な霧が立ち込めているような、濃密な赤い空間。

 しばらくすると、それが赤い霧そのものだと分かってきた。恐ろしく細かな水滴で、しかも生暖かかった。それが濃密に空気中に漂っていた。


 その霧をかき分けながらよろよろと歩いていく。

 床には絨毯が敷いてあり、子供のおもちゃが散らばっている。ひょっとしたらクリスマスの日かもしれない。リボンと、破られた包み紙があった。白いあごひげのサンタのぬいぐるみも落ちていた。


 と、京一の前に四本の足がぶら下がっていた。

 見上げると、それは腕を縛り上げられ、天井に吊り下げられた男女だった。その首は真横に切り裂かれ、その傷口からは今も血が噴き出していた。


 女の首がぐらりと揺れ、青白い顔が京一の顔を見下ろした。その顔はやつれ果てていたがそれでも優しそうで、目には涙をいっぱいにためていた。


(この人……母さん、なのか?)


 京一に母親の記憶はまったくなかった。考えてみれば写真の一枚も見たことがなかった。それでも本能的にこの女性が母親であることは理解できた。


 だが父親は……父親は今も生きている。

 京一はちらりと男の方を見上げた。だがその顔は角度が悪くはっきりと見て取れない。

 いつのまにか自分の身長がちぢみ、視点がずいぶん低くなっているようだった。


 京一は自分の目に涙があふれてくるのを、悲しみが込み上げて胸が張り裂けそうになるのを感じた。


 と、この部屋ではないどこかで、がした。


 その音に背筋を恐怖が這い登った。

 そして……

 グルリと母親の首が動き、その目が京一をとらえた。


「――きょういち、早く、逃げて――」


 その声を聞いたとたん、正真正銘の悲鳴が腹の底からせりあがってきた。そして京一はあらゆる悲しみと恐怖を詰め込んで、体が張り裂けるほど絶叫した。


   ♣


「――何を見たのかは知らんが、同情するよ」

 そっとサキの声が忍び込んできた。


 同時に目の前の光景がゆがみ、粉々に砕けた。

 京一は鍵を握り締めた姿勢のまま、扉の前で凍りついたように立ちつくしていた。

 軽く頭をふって、幻覚の名残をふるい落とす。心に刻まれた傷は、たしかにひどい痛みをもたらしている。心臓が狂ったように脈打ち、目からは涙があふれ出していた。


「――それより、今は急いだほうがいい――」

 サキの言葉に気を持ち直し、ドアノブを手前に引いた。


   ♣


 部屋の中はぼんやりと明るかった。小さなベッドと小さな机が一つ、部屋にあるのはそれだけだ。机の上にはノートと鉛筆、二つのサイコロがあった。

 そして部屋の中央に子供のような小さな人影があった。

 足を踏み入れると、背後で静かにドアが閉まった。


「もう大丈夫じゃ。あやつはこの部屋には入ってこれんからな」

 そう言いながらサキがゆっくりと歩いてきた。


 右手に杖を持ち、床まで届いた真っ白なあごひげを引きずりながら、小さな足でよちよちと歩いてくる。

 と、もうひとつ彼が引きずっているものがあった。それは尾だった。キツネのようなふさふさとした真っ白い尾だった。


   ♣


「お前さんが見た光景、それがワシが生まれたきっかけだ。まぁ、いっぺんに話しても分からんだろうから、今はこれだけ言っておく。


 サキは京一の前まで来て立ち止まった。

 その身長は京一の腰までしかなかった。


 どこかでそんな予感はしていた。

 扉の中の存在は人間ではないだろうと。


 京一はサキの目線に合わせてしゃがんだ。

 やはりサキの顔は人の顔ではなかった。サルに似ているが、その顔面には虎のような縞があり、大きな瞳は鮮やかなグリーン色をしていた。

 それでも愛嬌のある顔立ちで、同時に鋭い知性を感じさせた。なんというか仙人のイメージだ。


   ♣


「なかなか、礼儀をわきまえておるな、お若いの。改めて挨拶しよう、ワシの名前はサキ。『』を持っておる」

 サキはそう言って目を細めて笑った。


「俺の名前は京一。よろしく、サキ」

 京一もまた笑顔でそう答えた。


「ところで、これからどうしたらいい? ファーザーは本当に入ってこれないのか?」

「ああ。これから現実の世界へ戻るからな」

 サキはそういって京一の横をひょこひょこと通り過ぎ、その背後に立った。


「ちと、せわしないが、ここよりは安全じゃよ」

 サキは小さな右手で、そっと京一の背中に触れた。

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