【荒れ果てた庭】⑨ 『芳春/ファーザー』

 芳春は研究室の扉を開けた。目の前にはパーテーションが立ち並び、ちょっとした迷路のようなつくりになっている。

 そのまま後ろ手に扉を閉め、ついでに鍵をかけると、部屋の奥へ向かって歩いていった。


 部屋の奥、右側には大きめの会議机とパイプ椅子、左側には個室に区切ったソファースペースが並んでいた。右側は学生との授業に、左側は簡単な応接室になっているようだ。

 今の時間はどこにも人はおらず、ファーザーの姿も見えなかった。


   ♠


「誰かね? わたしなら、ここにいるよ」

 仕切り壁の向うから声が聞こえてきた。のんびりした感じで、いかにも教師風の話し方だった。


(すっかり溶け込んでるじゃないか……)

 芳春は湧き上がる恐怖と憎悪を押さえつけ、一つ短く息を吐きだしてから、明るい声で返事をした。


速水はやみといいます、桜井教授、実はちょっとお聞きしたいことがあって来ました。入ってかまいませんか?」

「ああ、いいとも」


   ♠


 ついに扉の前まで来た。

 この薄い扉一枚の向うに、長年追い求めてきたファーザーがいる。


 ふたたび軽い恐怖が背中をかけあがっていったが、拳を握り締め、ありったけの憎悪と殺意をかき集めた。


(恐れるな……昔とは違う……俺は変わった……もうガキじゃない)


「失礼します……」

 芳春は軽くノックをして、部屋の中に足を踏み入れた。


 

 コップ、灰皿、文鎮、そのほかにガラスで作られた雑貨、置物、そういったものが机全体を占領している。

 さらに壁には二枚のガラスで挟み込むフレームがびっしりと並べられ、天井からはガラスで作られたモビールや風鈴などが所狭しと吊るされていた。

 これら無数のガラス製品の全てが、夕焼けの最後の光を受けてきらきらとオレンジ色を乱反射していた。


   ♠


「驚いたかね? これはね、わたしの趣味なんだよ」

 にこやかに笑いながらそう言ったのが『ファーザー』だった。


 ファーザーはどっしりとした机に、ゆったりと腕を組んだ姿勢で座っていた。歳は五十代後半、背筋のピンと張った男だった。

 髪は白髪混じりのグレー、口ひげをたくわえ、ふちなしの眼鏡をかけている。服装は白いポロシャツに紺のスポーツジャケットとカジュアルな服装である。


 医者、学者というよりはビジネスマンのような雰囲気のある男だった。


  ♠


「全部ガラス細工なんですか?」

 芳春は興味深そうにそれらを見回した。もちろんそのフリをしているだけだが。


「ああ、わたしはね、壊れるものが大好きなんだ」

「なんだか、恐いですね。精神科の先生がそんなふうに言うと」


「そうでもないよ、単に趣味嗜好の問題さ、ところで初対面だね、なにか用があってきたのかな?」

 ファーザーはそういいながら、手近のソファを手振りで示した。芳春は軽くうなずくと、言われた通りに座った。


 ファーザーはテーブルの上からガラス製のコーヒーカップを二つ選び出し、コーヒーメーカーからずいぶんと煮詰まっているコーヒーをついだ。

「すまんが受けとってくれるかね?」


 芳春は自分に、と差し出されたコーヒーを両手で受け取った。

 そうしないと手が震えだして、コーヒーをこぼしてしまいそうだったからだ。


 そして改めて座りなおすと、心の中で息を吸い込んだ。


   ♠


 ファーザーはこちらの正体に気づいていないようだ。

 主導権はこちらにある。


  


 湧き上がる殺意をまた押さえつけた。

(タイミングだ。確実にナイフをねじ込めるタイミングだ)


 だがその機会は一瞬で永遠に奪われた。


「さてと、さっそくだが目的をきかせてもらおうかな? ?」


 ぞくりと背筋が震えた。

 そう簡単にことが運ぶわけがなかったのだ。

 なにしろ相手はファーザーなのだから。


   ♠


「やっぱり、バレてんだな……」

 芳春は口の端をゆがめて、壮絶な笑みを作り出した。


 だが急に心が軽くなった。恐怖は消え去り、不思議と穏やかな気持ちになれた。

 そう、命を惜しんでいたらコイツには絶対勝てない。

 それが今さらのように心に染み込んできた。


「ふぅ」

 芳春は大きく息を吐いた。

 それからコーヒーカップを傾け、中身をゆっくりと床にたらした。


「察しがいいじゃないか、それともまだ同窓会でも開いてんのかよ?」

 芳春はそういうと、おもむろにコーヒーカップを天井に向かって投げつけた。


 ガラスのカップが、天井に取り付けられた風鈴やモビールをまっすぐに砕いて、天井で破裂した。そして粉々に砕けたガラスのかけらが雹のように二人の間にぱらぱらと舞い落ちた。


   ♠


「まぁ、それなりに、だな」

 ファーザーはまるで動揺することなく平然とそう言った。

「……それよりも、ずいぶんと父親ファーザーを殺してきたそうじゃないかね?」


「ああ、あんた以外は全部殺してやったよ」

 芳春は首を傾けてにっこりと笑った。


 俺は完全にいかれている。それは自分でも分かっていたから、いっそう気分がよかった。ようやく本来の自分に戻れた気がした。

 破壊だけを純粋に楽しむ復讐者、殺戮者、それこそが自分であり、死なずに生きつづけてきた理由であり、生きている意味である。


「それにしても俺のこと、よく気が付いたな」

「ああ、君のことは覚えているよ、とても美しい子だった。たしか、少佐のお気に入りだったな」


 ……その言葉に芳春の身がすくんだ。

 それは突然心の中を貫いた、幼い頃の記憶のせいだった。


   ♠


 西欧風の家具に囲まれた居間の中だった。

 いたるところに生け花が飾られていた。

 クラシック音楽のレコードが大音量で流れていた。

 その中で小さな子供だった芳春が立ちすくんで泣いている。

 彼の目の前には男がいた。まだ若い男で、少佐と呼ばれていた。

 現在の芳春に負けないほど綺麗な顔をしていた。

 少佐はパリッとした軍服に全身を包み、ゆったりとしたソファに身をしずめ、芳春が泣いているのをじっと見ている。

 男のそばには赤々と燃える暖炉があり、彼の右手には真っ赤に焼けた鉄の棒が握られている。

(さぁ、ナンバーナイン、こっちにくるんだ)

 少佐がゆっくりと呟く……


   ♠


 芳春は勢いよく首を振ると、頭の中の幻影をたたき出した。

 あれは俺じゃない。俺の身に起こったことじゃない。そう自分に言い聞かせる。

 言い聞かせながら殺意と憎悪をかき集める。


(消えろ消えろ……何もかも消えろ! 消え失せろ!)


 芳春は立ち上がると、目の前のガラスのローテーブルを抱え上げ、そのままファーザーの机の上をなぎ払った。机上のガラス小物が片っ端から小さな破片となって、空中を飛んでゆく。


「ああ! あいつも殺してやった! 自慢の顔を切り刻んでやった!」


 芳春は再びガラステーブルを持ち上げると、今度はファーザーの机にたたきつけた。派手な音を立ててガラスが割れ、大量の破片が宙に舞った。


 それはまるで銀色の流星が流れていくようだった。その破壊の美しさに見とれながら、鉄のフレームだけになったテーブルの残骸を持ち上げる。


   ♠


「カッターナイフで、切って切って、切り刻んでやった!」

 芳春はさらにフレームを振り回し、壁にかけてあるガラスの額縁を破壊してまわった。さらにすさまじい量のガラス片が空中に飛び交い、あふれんばかりの鋭い音が部屋中に反響する。


「ほぅ。そいつはすごいね」

 ファーザーは呟くようにそう言った。最初に会った姿勢のまま、テーブルの上でゆるく腕を組んだ姿勢のままだった。


 まるで動じる気配がない。その様子のままで、むしろリラックスした様子で、観察でもするように芳春を眺めている。


   ♠


「たいしたものだ。ところで君はどんな能力を使うんだ? どうもよく覚えていないんだ。君は美しいだけで、印象の薄い子だったからね」


 その言葉がさらに芳春の狂気に火をつけた。

 芳春は美しい顔を、壮絶にゆがめて笑っていた。

「そうかい、これから教えてやるよ……」


 そう言って芳春はフレームを投げ捨て、ポケットの中に手を入れた。

 ポケットの中でスマートフォンのボリュームを上げてゆく。


 最初は微かに、やがてはっきりと『神々の黄昏』の旋律が流れ出した。

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