【荒れ果てた庭】⑫ 『京一/サキの能力』
京一は突然目覚めた。
視界に飛び込んできたのは、ガラスのかけらが散乱した床、ぶちまけられたピクルス、そしてハイヒールを履いた春美の左足だった。
京一は一瞬にして現実を取り戻した。
(そうだ、春美とかいう女!)
「……おとなしく気絶しててね」
その声に、はっとして京一は顔を上げた。
本当はすばやくあげたつもりだったのだが、うまく体が動かなかった。と、その視界いっぱいに春美の膝が、まっすぐ自分に向かって迫るのが見えた。
彼女との戦いはまだ続いている!
♣
(やばい!)
反射的によけようとして、体がまったく動かないことに気付いた。手足の先が痺れ、ぐったりとして、まるで自分の体じゃないようだった。
(ヤバイ、ヤバイ、よけなきゃ!)
めまぐるしく思考が流れる中、春美の膝はどんどんと近づいてくる。この分だとこめかみのあたりに激突しそうだった。そうなれば再び気絶することになるだろう。
しかし避けようにも体がまったく言うことをきかなかった。
♣
(ダメか! 間にあわない!)
それでも眼だけはかばおうと、膝に向かって逆に額を向けた。それが精一杯だった。と、こめかみの辺りにまともに膝がぶつかった。再び目の中に銀色の星が飛び、痛みと共に衝撃が頭を貫き、意識がふっと遠くなった。
(なんてこった……)
そう思ったものの、もはやどうにも出来なかった。
体がゆっくりと重力に引きずられるように倒れていき、完全に横たわってしまった。暗くなっていく視界の中で、春美の両足が見える。
それは細くてすらりと長く、とても美しい形をしていた。
♣
「しばらく寝ていな」
遥か頭上から、春美の声がまるで死刑宣告のように降りてくる。
さらに左足が歩くように一歩前に踏み出され、続いて右足が京一の腹をめがけて蹴りだされた。
(こんなのよけられるかよ……)
鋭く尖ったハイヒールの先端が正確に京一の胃袋にめり込んだ。
「グゥッッっ!」
にぶい痛みが全身を犯し、視界はさらに黒いベールがかかったように暗黒に包まれていく。
自分でも気絶しないのが不思議だった。
♣
「あんたしぶといね」
さらに春美は右足を引いた。
京一はそれでも何とか逃れようと、足を動かし……
(そうだ、足だけは動くんだな……)
その鋭いつま先から逃れようともがいた。だが春美は容赦なかった。ふたたび右足を後ろに引くと、今度は京一の顔面めがけて蹴りだした。
(ムリだ!よけられない!)
だがガードしようにも手が動かなかった。
あとは来るべき痛みを待ち構えるしかできない……
♣
突然、春美の動きが止まった。
足が空中で止まったままぴくりとも動かない。
(……なんだ?)
と、それ以上に不思議なことが起こった。
突然春美の足が引き下がり、まるで気をつけの姿勢をとるようにまっすぐ並んだのだ。すると、今度は再びその右足がゆっくりと動き出し、京一の腹にそっと触れた。そして痛みが、まるで彼女のつま先に吸い込まれるように消えていった。
(なんなんだ? なにが起こってるんだ?)
♣
「――ない、テネ、くらばし――」
呪文のような妙な言葉が頭上から流れ、同時に京一の体が重力に逆らって起き上がりだした。
(これは、逆回しだ……時間が……巻き戻っている?)
京一はすぐに気がついた。まるで映画のフィルムを逆回転させたように、これまで見た情景が、一番初めに見た情景の中に、吸い込まれようとしている。
(オレになにが起こっている?)
京一は目の前の光景をじっと見つめた。
こめかみに触れていた春美の膝が離れていく。そして二本の足が再び揃えられた。すべては意識を取り戻したときの光景に戻った。
♣
(これがおまえの一分先の未来じゃ)
それは脳裏にはっきりとした言葉で伝わってきた。
それはあの【サイコガーデン】で出会った『サキ』の声だった。
(あれは、あの出来事は夢じゃなかったのか?)
(そうじゃ、おまえはもう一つの人格、つまりワシを呼び出したんだよ。まぁ、説明は後。今はこの場を切り抜けたほうがいいと思うぞ?)
(でも、体が動かないんだ。これじゃ、どうにもならないじゃないか、運命を見せられたってどうにもならない)
(運命か……運命ではないぞ。今のは非常に正確な未来予測なんじゃ。あくまで予測であって、未来そのものではないんじゃ、お若いの。未来はいくらでも変えられる。ほれ、おまえさん足が動いただろう、今度はそれを使ってみたらどうかね?)
♣
サキの言葉が消えると同時に、再び時間が流れ出した。
「おとなしく気絶しててね」
再び春美の声が聞こえた。京一は足に力をこめた。
動いたのは右足だけ、それもわずかである。
それでも京一はとにかく力をこめつづけた。目の前で春美の右膝が持ち上がり、次の瞬間にはこめかみに向かってまっすぐに伸びてくる。
ふいに体のコントロールが戻った。見えない糸で縛られていた全身が、その糸を全て断ち切ったかのようだった。
京一はすばやく顔を横に傾けた。
♣
ガツッ!
春美の右膝は、京一のこめかみを紙一重の差でかすめ、棚に置いてあったサラダ油のボトルを粉砕した。
「
春美が悲鳴をあげた。スラックスの生地がやぶれ、真っ白な肌にみるみる青アザが浮き上がってくる。
「もう、ぜったい許さねぇっ!」
春美は突然肩にかけていたカバンをずらし、その中からすばやくメリケンサックを取り出した。
「いい? あんたが悪いんだからね」
♣
春美はメリケンサックを四本の指にくぐらせると、なんのためらいもなく京一の顔を殴りにかかった。
それはあまりに自然で、あまりに予想外だった。
その一瞬の不意が、致命傷だった。
反射的に顔をかばおうと両手を振り上げたのだが、彼女の拳はそれより速く、京一の顎をまともに捉えた。
激痛とともに、顎の骨が砕ける感触が……
♣
と、再び春美の動きが止まった。
そしてゆっくりと拳を戻した。メリケンサックを外し、奇妙な動きでバッグの中にそれをしまった。
ふたたび時間が逆転していた。
(やれやれ、おまえもたいがい鈍い奴じゃな……そう何度もやり直しはきかんのだぞ。時間そのものを操っているわけじゃないんじゃ)
サキの声が再び脳裏に聞こえてきた。
春美の青アザが消え、白い肌に吸い込まれていく。破れた生地は再生し、こぼれだしたサラダ油は床をつたって、ボトルの中に吸い込まれてゆく。
♣
(頭を使うんじゃ、お若いの。未来が見えているのだからな、相手の
「おとなしく気絶しててね」
ふたたび時間が最初まで巻き戻され、流れ始めた。
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