【荒れ果てた庭】⑬ 『春美/京一の覚醒』
「おとなしく気絶しててね」
春美は絶対の自信と確信を持って右膝を蹴りだした。
狙いはこめかみの一点のみ。ここなら瞬間的に気絶させられる。
京一の目は完全にうつろで、全身はぐったりとしていた。
それは外しようのない一撃だった。
♥
ガツッ、と音がした。
だが、それは春美の予想していた感触、京一のこめかみを捕らえた感触、ではなかった。
信じられない思いで足元を見下ろす。春美の繰り出した右膝は京一のこめかみをかすめ、彼の背後に並んでいたサラダ油のボトルを粉砕していた。
(なにこいつ、よけたの?)
春美は信じられない思いで京一を見下ろした。
本当だったらこの一撃で完全に気絶させるはずだった。万一にも、意識があるようならさらに胃を蹴とばし、それでもダメならもう一度頭を蹴りとばす。という三段構えの作戦を立てていたのだ。
だが一撃目からプランが狂うというのは、さすがに想定外だった。
それともただの偶然だったのだろうか?
(まぁ、どうでもいいか。いつまでも
♥
一方の京一は、春美の膝蹴りをかわしたまではよかったが、やはり体を支えきれず、再びぐったりと床に倒れていた。
周りにはこぼれたサラダ油が流れ出しており、ピクルスや白アスパラガスと交じり合って、ごみ捨て場のようになっている。
それでも京一はその状況下で、なんとか立ち上がろうとしていた。だが、床は油にまみれてすべり、ふらつく体は思うように動かず、立ち上がることもちろん、座ることもままならなかった。
♥
(うーん……やっぱ、よけたのは偶然だったかな?)
春美は京一の様子を見て、そう思わずにいられなかった。身のこなしがいいわけでもないし、戦闘慣れしているようにも見えない。
(でも確かに完璧にかわされたのよねぇ)
床を見ると、サラダ油は自分の足元までジワリと広がっていた。目の前の京一も、油に手足をとられ、無様にもがいている。
出来ればもうコイツには触りたくない。触るなら靴のつま先、蹴りだけにしておきたい。でも床がかなり滑るみたいだから、軸足が踏ん張れなさそうだ。
(やっぱ、トドメはアレしかないかなぁ……)
春美はそう思いながら、クシャっと自分の髪を掴んだ。
でも秘密兵器をいきなり出すのはカッコ悪い気もする。
そもそも今回は使う気もなかったワケだし。
♥
(はぁ、迷うなぁ……てか、もう帰りたくなってきたなぁ……ん?)
そう考えたとき、彼女はパンツの膝が破れているのに気がついた。それだけではない。ざっくりと裂けてめくれた生地の隙間から、毒々しい色の青アザが浮かび上がっているのが見えた。
(なにこれ?)
たぶん金属の棚にぶつけて、引っ掛けたのだ。すると突然膝から痛みが登ってきた。ついでに涙まであふれてきてしまった。
「痛ったぁぁっっ!」
思わず言葉まで漏れてしまった……と、不意に京一と目があった。なんだか不思議そうな表情で見上げている。
なんなの、その目は?
だがそれを聞くのも、もう面倒だった。
こんな戦いはさっさと終了だ!
♥
(わるいけど、京一、あんた、死刑に変更だわ)
彼女は肩に掛けていたエナメルのバッグを少しずらした。
彼女のバッグの中には、いつもメリケンサックが入れてあった。先を尖らせたスパイクはついていないが、しっかりと厚みと重量のあるタイプ。パワーさえあればコンクリートブロックも楽々壊せるプロ仕様。
まぁこの際、最低でも骨折は覚悟してもらおう。
まともに当たればたぶん死ぬだろうけど、元はといえばよけたコイツが悪いのだ。
♥
「もう絶対許さねぇ。いい? ゼンブあんたが悪いんだからね」
そう言って、春美はバッグの中に素早く手を入れた。指先はカバンの中ですぐにメリケンサックを探り当てる。それはホルスターから拳銃を抜くのと一緒。訓練されたなめらかな一連の動作だった。
が、その途中、いきなり体が宙にふわりと浮いた。
(え? なんで?)
両足がまとめて、なぎ払うように蹴飛ばされていた。
それはもちろん京一の仕業だった。
♥
(……ふっざけんなっ!……)
それでも彼女の動揺は
ゾクゾクした。
久しぶりに、本当に久しぶりに、戦っている実感が湧いた。
彼女は興奮のままに、その目をスッと細めた。
(アタシをなめんなっ!)
空中に浮かびあがった体勢に逆らわず、カバンからそのままメリケンサックを取り出した。さらに空中。そのまま素早く、細い指を穴に通してゆく……
あとはこのまま落ちる勢いを利用し、とどめの一撃を加えれば戦いは終わる。
この動きだけはさすがに相手も想定外のはず。普通なら人はバランスを崩されると、反射的に身を守る動きを優先するものだからだ。
だが春美の場合は違う。いつ、いかなる状況でも攻撃の体勢を整えることができた。そう自分を訓練してきた。事実、春美の強さはそこにあった。身を守るという考えや行動が、反射神経のレベルで消されているのだ。
♥
「しばらく……」
が、今度はそのメリケンサックがフッと消えた。
京一が半身だけ起き上がり、右手を伸ばし、バッグから取り出したばかりのメリケンサックをかすめ取っていた。
さらに――
「……寝ていな、だろ?」
そう言ったのは京一だった。そのセリフこそは、まさにこれから春美が言おうとしていたセリフそのものだった。
(読まれた?)
一瞬そう思ったが、ありえない話だった。
大体バッグの中にメリケンサックを隠しているなどと、誰が想像できるだろう? たぶん反射的に掴み取っただけだ、勘が働いただけだ。
(でも心の中も読まれた……いやいや、それこそありえない!)
(ああ、もうホント、イライラする!)
(もう、考えんのもめんどくさい!)
春美はメリケンサックをあっさりとあきらめ、そのまま拳を固めると素手で京一に殴りかかった。手が痛むだろうけれど、もう気にするのはやめた。
春美の固めた拳は、まっすぐ京一の頬に振り下ろされた。
♥
が……またしてもその攻撃さえもかわされた。
今度はかすりもしなかった。
京一はまっすぐ春美の拳をみつめ、最低限の動きでかわしてみせた。
春美はそのまま床に落下した。落下の勢いを止めようと手をついたのだが、それが油で滑ってしまい、骨盤をしたたかにぶつけてしまった。
お気に入りの服にぐっしょりとサラダ油が染み込み、つぶれたピクルスが洋服にくっついた。
それに追い打ちをかけるように京一の言葉が続いた。
「あんたの攻撃は、読めてるんだ……もうあきらめなよ」
♥
春美はあんまりにもみじめで、泣き出したくなってしまった。
京一はすでに間合いの外へ下がり、油断なく腰を落として構えていた。
なんだかもう戦いが終わってしまった感じがした。
「あんた、女の子相手にこんなひどいことして平気なの?」
「あのさ、先に仕掛けてきたのはそっちだろ?」
「サイテーね、あんた!」
春美は立ち上がった。
同時にヒールのかかとが両方ともポキッと折れた。
ジャケットにはピクルスとアスパラガスがくっついていた。
シャツにはハーブと一緒に変な色がまだらに染み込み、髪にはサラダ油がべっとりとついていた。
パンツは膝でボロボロに破れているし、青あざは出来ているし、メークもぐちゃぐちゃになっていた。
さらに追い打ちをかけるようにサングラスが足元で割れていた。
♥
春美は無言で京一に一歩踏み出した。
もう感情がグチャグチャになってしまった。
春美はギンと京一を睨みつけた。
それもこれも全部コイツのせいだった。
「あたしにこんなことして、ただですむと思わないでよね……」
「逆ギレされても困るよ、だいたいどうして俺を恨むんだよ?」
「うらんでなんかないわ、そうしたいからそうしただけよ!」
春美は京一にグッと顔を近づけ、京一の目の中を覗き込んだ。
最初に会った京一の雰囲気と少し違う気がした。なにか違和感があった。それはほんの少しだが、何かが決定的に違っている感じだった。
春美はこの感覚に見覚えがあった。
芳春に良く似ている感じだったのだ。
♥
「さっさと、どいてよ。アタシ帰るんだからっ!」
そういわれて京一は体を横に向けた。そして狭い通路で彼女のために道をあけた。すれ違う瞬間、二人の体がわずかに触れた。
そこで春美はまた攻撃を仕掛けた。
ちょうど足元にあったカゴから大根を掴み、顔に向けてたたきつけたのだ。
だがその攻撃も、途中であっさりと手首をつかまれてしまった。
「無駄じゃ」
京一はふざけているのか、老人のような口ぶりでそう言った。
「はっ? 何言ってんの? ふざけてんの?」
「い、いや、何でもないんだ」
京一がそう言ったときにはさっきの雰囲気も消えていた。本当に一瞬のことだったが、なにか別人を相手にしたような違和感があった。
「じゃあ、さっさと、どきなさいよ」
♥
「あ、あのさ、ちょっと待てよ」
京一が呼び止めた。
「なによ?」
春美は振り返りざま、今度は右ストレートを顔面に向けて放った。
だが京一は首を傾けただけで、綺麗にそれをかわしてみせた。
やっぱりむかつく。だから恨みの右膝を蹴り上げて股間を狙った。
が、京一は右手一本でその攻撃を正確に止めてしまった。
「おまえ、本当に乱暴だな……」
「うっさいな! いったい、なんだよ?」
「あのさ、コレ弁償していけよ。俺いっつもここで買い物してるんだ。困るんだよ……せめて半分くらい出してくれ」
♥
なにかと思えばそんなことだった。あれだけの戦いをしてきたのに、最後に言いだすのが弁償のことだとは。しかも半分でいいとか!
なんなんだ、この脱力感は?
春美の怒りもすっかりしぼんでしまった。
「分かったわよ、もう!」
春美はバッグの中から札束を取り出した。そして半分くらいの厚みをはかると、驚いた表情の京一に手渡してやった。
「はい。そんだけあれば足りんだろっ!」
京一が札束を見て驚いているので、少しだけ気分がすっきりした。
ハッ! こんな大金を見たことがないに違いない。ざまぁみろだ。が、同時になんだかすごく情けない気分になってしまった。
♥
「なぁおまえ、すごいな。こんなに。あのお釣りはどうしたらいい?」
「うるさい! おまえにくれてやるよ!」
「いいのか? でもこんなに……いや、ちゃんと返すよ。今手持ちがなくてさ、助かるよ、あ、あの、ありがとう……」
「うるさいっ! 礼なんか言うなっ!」
春美は最初の予定通り、従業員用の通用口から歩いて出た。
途中、やたらと体格のいい従業員と鉢合わせしたが、出会いがしらの一発で黙らせ、そのまま外に出た。
♥
(ほら、やっぱりあたしは強いんだ)
夕暮れの冷たい空気が体を取り巻いた。
たぶん芳春にはあとでこっぴどく怒られるだろう。だが今はそれよりも京一の存在が気になっていた。
これだけ戦ったのに、相手を倒せなかった。
こんなことは生まれて初めてだった。
「ぜっったい倒してやるからな!」
春美は誓いを立てると、裏口から表通りに走っていき、通りかかったタクシーをつかまえてそのスーパーを後にした。
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