サードプロローグ
【忘却の庭】
笑い男は【サイコガーデン】にいた。
そこはとても美しいところだった。
足元の芝生は柔らかく、芝生を囲む庭には色とりどりの花が咲き乱れていた。
笑い男はそこで花の名前を覚えた。
チューリップ、バラ、カーネーション、パンジー、ひまわり、そのほかにも、いろいろな花が一年を通して鮮やかに咲き乱れていた。
♦
笑い男はこの庭で歩くことを覚えた。
覚えたのはそれだけではない。この屋敷では『勉強』というものがあり、言葉の話し方も教えてくれた。
ここには他にも子供がたくさんいたけれど、笑い男はいつも一人だった。
それは彼の外見が恐ろしいせいだった。
その理由は自分でも分かっていた。
だが笑い男はそんなことは気にしなかった。いつも大理石の女神のいる噴水に一人たたずみ、たとえ暴力からは逃れられないとしても、それでも平穏な生活を送れることを喜んでいた。
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笑い男は神の世界にいた。
【実験】と称した暴力は次第に激しさを増し、笑い男は自分の殻の中に逃げ込んだ。そこは痛みもなく、ただ白い光があふれているだけの、完全無欠の神の世界だった。
笑い男はその中に膝を抱えてうずくまりながら、自分がどうして生まれてきたのだろう? と考えた。
神はどうして残酷な世界に自分を遣わせたのだろうと考えた。
生きている理由が笑い男には考えつかなかった。
いっそ死んだほうが楽だと何度考えたか知れなかった。
だが死が近づくたびに、笑い男の体は周りの人間を傷つけた。
そうしてまでも生き延びることを選択しつづけてきた。
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ある日、笑い男にその答えがもたらされた。
笑い男を取り巻いていた白い光が霧に変わり、その霧が渦巻いてひとつの形を作り上げたのだ。
それは真っ白な翼をもった美しい生き物の姿をしていた。
それこそ笑い男が長年求めてきた神の姿そのものだった。
笑い男はついに自分の中に神の魂が宿ったことを知った。
♦
笑い男は森の中にいた。
笑い男はついに屋敷を逃げ出してきたのだった。
多くの血が流されたが、それは仕方のないことだと思った。
笑い男に殺戮の意思はなかったし、なにより逃げ出すことは自分の中の神の意志だったから。
笑い男は森の中で耳を澄ませた。
彼は森の生命が奏でる歌や声を聞くことができた。
笑い男は鳥やねずみ、蛇、たちをよびよせ、自分の逃亡に力を貸してくれるように頼んだ。
動物たちは笑い男のことを見ても怖がらず、内面だけを見てくれたので、たちまち仲間になってくれた。
笑い男は彼らに水のみ場を教えてもらい、食べられる木の実を教えてもらい、彼らとともに一ヶ月をかけて広大な森を抜けた。
森を抜けるとアスファルトの道路があり、その向こうに灰色の街が見えた。
笑い男ははじめて自由になった。
そのあまりのうれしさに笑い男は涙を流して笑った。
♦
笑い男は地下鉄の廃坑の中にいた。
施設を抜け出し、K県にたどり着いてから五年が過ぎようとしていた。
今は一四歳になっていた。
笑い男には大勢の仲間がいた。
地下で暮らすあらゆる動物たち、ネズミ、蛇、コウモリ、そして地下をねぐらにした浮浪者たちが仲間だった。
彼らはみな目が弱かった。
見えても暗闇を見通せるほど目が良くなかった。
だから誰も笑い男の素顔を見ても恐れることはなかった。
笑い男は彼らに囲まれて、生きていくための勉強と実験を続けた。
♦
月のない夜には地下から抜け出して地上へ出ていった。
その時は用心のために、黒革のマスクをかぶった。
笑い男は夜の町を隠れて歩きながら、図書館に忍び込み、心ゆくまで読書を楽しんだ。本の中には生きていくために必要なありとあらゆる断片が書き込まれており、無数の本を読むことでその断片をつなぎ合わせていった。
笑い男は大量の本の中からさまざまな知識を獲得し、自分の血肉とした。
生き方はみじめだったが、精神はいつも自由だった。
笑い男はマンホールからわずかにのぞく青空を見あげ、明るい世界を渇望するようになった。
♦
笑い男は高層ビルの最上階にいた。
巨大な窓ガラスの前に立ち、広大な青空の下に広がる町を見下ろしていた。
やはり黒革のマスクをつけてはいたが、ここは安全な場所だった。
そのビル自体が笑い男の所有物だったからだ。
最初はわずかな資金を元手に、株の売買を始めた。
笑い男には物事の流れというものを見とおす力があった。
だから株でお金をもうけるのはいちばん簡単な方法だった。
一度大金を捕まえてしまえば、後はそれを転がしていくだけで雪だるま式にお金が増えていった。
そうして笑い男は三年余りで合法的に巨万の富を築き上げた。
いまや笑い男はあらゆるものを手に入れていた。
柔らかなベッド、着心地のいい服、おいしい食べ物、太陽光のあふれる明るい部屋、なによりも心と体の充分な休息と平安。
だがそれでも笑い男が満たされることはなかった。
自分が何か一番大事なことをやり残している気がしてしょうがなかった。
キョウイチ/レイ
ただ一度、恐怖を感じたあの瞬間がぬぐえずにいた。
♦
気がつくと、笑い男は一九歳になっていた。
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