【刈入れの季節】⑮ 『春美/リキ戦終了』

 リキの巨大な拳が目の前に迫った。

 背後は壁にふさがれており、逃げ道はない。


 リキの硬く握りしめられた拳が、空気の渦を巻きながらケン/春美の視界いっぱいに広がっていく。


   ♥


(しまった……これって、死ぬ? 死んじゃう?)

 その一瞬、ケンの中で春美は自分の死をイメージした。


(マダマダだ!)

 ケンはその拳を前に、目をすがめ、不敵な笑みをのぞかせた。


 ケンは迫りくる拳を正面から見つめ、後ろポケットにすっと指先を伸ばし、二本の指先で銀色のバタフライナイフを掴んだ。それをスッと引き上げながら、素早く留め金をはずし、ジャキッと音を立てながら刃を展開させると、目にもとまらぬスピードでサッと空中を薙いだ。


 遅れること一瞬……刃先の光跡を追いかけるように、三日月形に血が吹き上がった。


   ♥


 だがそれくらいで、勢いがついたリキの拳が止まることはなかった。

 リキは斬られたことに気付いてもいなかった。

 ドゴン、と鈍い音がしてリキの拳が壁にめり込んだ。

 その拳と紙一重の位置に、首を傾け妖艶に微笑むケン/春美の顔があった。


「ハッ、ギリギリだったゼ」

 と、その顔にリキの手首から吹き上がった血がシャワーのように降りかかった。


「オシかったな、アンタ」

 ケンは細長い舌を出すと、口の周りに飛び散ったリキの血を舐めとった。それは春美の妖艶な表情であり、ケンの狂気に満ちた表情だった。


   ♥


「……あのさ、シケツしないとシヌぜ? ドーミャクまでイッタからさ」


 その時になってはじめて、リキは自分の手首が斬られたことを知った。

「ぐぉぉぉぉっ」

 言葉にならない悲鳴をあげ、リキは自分の手首をがっちりとおさえた。


「い、いつの間に……」

 そのままよろよろと後退し、がっくりと膝をついた。そのまま止血することに集中する。だが溢れ出す血は止まらなかった。握りしめた指の間からポタポタと真っ赤な血が流れ出してくる。


「き、きさま……!」


 それを聞いてケンは爆笑した。体をくの字に折り曲げ、息をするのもつらそうに、目に涙をためて笑った。


「そこはヒキョー、だろ? バクショウだな! はははははは」


   ♥


「ひぃー、いやぁ、あんたサイコーだ! でもさ、ちょっと、ショーリをカクシンしてただろ?」

 ケンはそういいながら再びバタフライナイフをジャキジャキとふりまわした。銀色に光る刃がケンの手の中でくるくると鋭い光を放つ。


 リキはその様子を憎しみに満ちた瞳で見上げ、歯を食いしばって屈辱に耐えた。その顔面には早くも脂汗が浮き出した。


「でもさ、アマイよ、タタカイっていうのはこういうものなんだゼ」

 ケンはそう言いながら、リキのコメカミめがけて蹴りを放つ。

 リキはそれを簡単にかわした。


「おっと……あんまりうごかないほうがいいぜ。ホラ、チぃデてるし」

 ケンはさらにつかつかとリキに近づき、また無造作に顔を蹴飛ばそうとした。

 リキは首を傾けてその攻撃をよけたが、続いて繰り出されたキックはまともに手首に当たった。


「グッ……きさま……」


「……ほら、ドーミャク、スパッとキッタからさ、ちゃんとおさえてないとフキダシちゃうぜ……ほら、ほら!」


 ケンはリキの顔面めがけて無造作にキックを繰り出す。

 リキはそのほとんどを避けていたが、何発かはまともに顔に当たった。


 ケンは容赦なくスピードを上げ、さらに無数のキックを放つ。

「ほら! ヨケろよ! コンドはテ! カオもワスレんな! ほら、よけろ!」

 リキの顔面がゆっくりと紫色に変わっていき、腫れあがってゆく。


「なぁ? ハンゲキしねぇの? あ! そのテじゃデキねえか!」

 ケンはおどけた様子でそういうと、また爆笑した。


   ♥


「グッ……よくも……わたしにこんなマネを」

 リキは立ち上がろうとしたが、手首を抑えていなければならず、さらにケンの蹴りは容赦なく膝を狙っていた。少し手の力が抜けただけで血が噴き出してくるこの状況では、立ち上がることすらまともにできなかった。


「……ナイフを使うなんて……武器を使うなんて……」

 リキはうめくようにそう言った。

 その頬にまともにケンのつま先がめり込んだ。リキは頭を振って何とか意識を離すまいと抵抗した。

 

 と、その顎の先をケンの左手ががっちりとつかんだ。

「いいか、オレはカツためだったらナンでもする。とはちがうんだよ。あいつはオンナだからヤサシすぎるのさ」


 ケンはそう言いながら開いたほうの右手で、バタフライナイフをジャキジャキといわせながら再び刃を開いた。

 それをがっちりと握りしめ、リキにハッキリ見えるように大きく振りかぶる。


   ♥


「サテ、これでオワリ。アンタはシヌんだ」

 そしてなんのためらいもなく、あっさりとリキの脳天めがけてナイフを振り下ろした……


「くそっ!」

 リキが握り締めていた左手を離し、ギリギリのところでケンの手首を掴んだ。同時に右手からは再び血が噴き出した。


「くそ、くそっ! キサマ、ぶっ殺してやる……」

 その言葉はリキの口から出てきた。

 目が憤怒に燃え、全身の筋肉が怒りで膨れ上がった。


「ランボウなセリフだなぁ、オイ。ホンショウをあらわしたか?」

 そう言いながら、掴まれた右手の指を器用に動かし、指先にナイフを移動させると、手首をスナップさせて自分の左手に向けてナイフを投げた。

 ナイフは一瞬だけ空中を飛び、すぐにケンの左手に収まった。


「オマエ、ナイフはニガテだろ?」

 ケンはナイフをくるりと回転させ、おもむろにリキの太ももにサクッと突き刺した。さらに足でグリップを踏みつけ、深々とナイフを差し込んだ。


「おおおっっ! キサマ! キサマ、よくも!」

 再びリキの口から苦痛の悲鳴が上がった。


「よくも、よくも、よくも!」

 リキは血が溢れ出しているにもかかわらず、切られた右手でケンの胸倉を掴んだ。


   ♥


「よくも……よくも、よくも、やりやがったな!」

 リキは太ももにナイフを突き刺したまま立ち上がった。そして血が噴き出るのも構わず右手でケンの体を持ち上げた。

 ぶらさげられたケンは無表情にその様子を見下ろしている。


「なぁ、?」

 ケンはそう言ってニンマリと笑った。


「うるさい、うるさい、うるさい!……キサマは殺す!」

 リキの顔が恥辱に染まり、力まかせにケンの体を投げ飛ばした。


 ケンは髪をなびかせながら、空中を真横に飛んでゆく。と、リキがそれを追いかけ、空中にいるケンにラッシュをしかけた。


「殺す、殺す、殺すっ!」


   ♥


(なによ、こいつ……まだ動けんの?)

 春美はうんざりしたようにいった。


(まったく、ばけもんだな……でもさ、タノシイなぁ、ラン!)

 そう言ってケンはクックッと笑った。


 ケンは空中にいたため、うまく体を動かせなかった。それでも身をよじり、攻撃を受け流し、肘や膝を使ってリキの攻撃を巧みに受け流した。

 リキは盛大に血を振りまきながら、怒りの本能の命ずるままに拳を振り上げ、必殺の一撃をケンに叩き込んでゆく。だがどの攻撃ものらりくらりとかわされるばかりでまるで当たらない。


「殺す、殺す、殺してやるっ、絶対に殺してやる!」

 リキはすさまじい形相を浮かべ、流れ出る血もかまわず、さらにめちゃくちゃに殴りかかる。そのたびにおびただしい血が床、壁、天井に盛大に振りまかれ、二人の全身を真っ赤に染め上げてゆく。


「そりゃ、ムリだって。カクがチガウぜ」

 やがてケンの体は引力に引かれて落ちはじめ、踵が地面に触れると、すばやく後方に飛び、さらに両手を立ててとんぼ返りをうった。


   ♥


「でも、まぁ、すげえコウゲキだったゼ……」

 ケンが体勢を整え、リキを見た時……


 リキがさらに迫っていた!

 拳を振り上げ、体中の血管を膨れ上がらせ、これが最後とばかりに高速のラッシュを叩きこむ。


 だが一度間合いを取ってしまえば、ケンのほうがスピードがあった。


 ケンは複雑なステップを踏みながら、全ての攻撃をかわし、リキの間合いの外へとするりと逃げた。


「いいねぇ、。オレはスキだぜ」


「うるさいっ! 先に死ぬのはお前だ!」

 リキの顔はすでに真っ青だった。手首から落ちていた血も勢いをなくし、今は指先からポタポタとしたたるだけだ。もはや流れ出る血も残っていない。

 それでもケンに殴りかかろうと、血まみれの拳を振り上げた。


 その時だった……


   ♥


 荒れ狂っていた混乱と狂気の空気の中を、凛とした冷気のような声が通り抜けた。


 今までスピーカーから流れていたその声はケンの背後から聞こえてきた。


 リキのふりあげた拳がだらりと脇にたれた。


 ケンはゆっくりと振り返った。


 


 考えるまでもなく、それが【笑い男】だった。


                    第二部【刈り入れの季節】 終わり

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