【刈入れの季節】⑬ 『春美/過去の残像』

 春美はケンのにいた。

 ケンが見るものを見て、ケンが聞くものを聞いていた。

 もちろんケンの体の動きや痛みも全て共有していた。

 だがその全てが薄い膜一枚をへだてて、決定的に現実から離れている。


   ♥


(あいつ、けっこう手ごわいからね)

 春美が言うと、すぐにケンが答えた。

(なにイってんだよ、オレたちがマケたことあるか?)


(まぁ、ないけどね)

(だろ? いつもドーリ、チマツリにしてやるよ)


   ♥


 ケンはスッと腰を落とし、次の一瞬で拳を振り上げ、リキに襲いかかった。

 スピードは春美と互角、だが全身から放たれる圧力がけた違いに増している。

 リキはそこに何を見たのか、瞬間的に顔の前をがっちりと両腕でガードした。


「それ、ガードのツモリか?」

 ケンの拳はガードに当たる十センチ前で、さらにスピードを上げた。残像すらも残さず、その拳がズシリとリキのガードに吸い込まれた。同時に、と妙な音が破裂し、ガードしたリキの腕に波紋が広がった。


 ズズッとリキの巨体が後退した。さらに次の瞬間にはリキの腕にいくつもの同心円の切り傷がサッと現れ、鮮血が吹き出した。


   ♥


「まだまだ、こんなもんじゃネエぞ」

 ケンは春美の顔で壮絶な笑みを浮かべた。そして全身をひねり上げるようにして、リキの胴体めがけて右足で渾身のキックを放った。


 リキはガードの姿勢のまま腰を落とし、今度の攻撃も正面から受け止めた。

 だがガードした腕はそのまま胴体にめり込んだ。胴体の中の空気が押し出され、リキの喉から妙な悲鳴が漏れ出す。

 それでもケンの蹴りの衝撃は止まらない。リキのかかとがフワリと宙に浮くと、そのまま巨体が後方に吹き飛んでゆく。


「ぐふっ……」


 リキは吹き飛ばされながらもケンを睨みつけた。

 明らかに想定外。その目には憎しみのほかに戸惑いがあった。


   ♥


 それを見てケンはまた少し笑った。


「オマエも、こんなもんじゃないんだろ?」

 そしてケンは空中を流れるリキの巨体を追って走っていた。


「イソげ、イソげ! シヌぞ!」

 リキの体が落ちてくるその位置にスライディングして飛び込み、あおむけに体をくるりと回転させ、リキの背中を天井に向けて両足で蹴り上げる。


 リキの巨体は逆の『く』の字に曲がり、天井にまともにぶつかった。

 学食全体がビリビリと震動し、天井から埃や蛍光灯や、ボードの破片がぱらぱらと落ちてくる。


 だが、リキだけは落ちてこなかった。


   ♥


 ケンは立ち上がり、両手を腰に当て天井のリキを見上げた。

「コンボがキレちゃったな、ちょっとイガイだったぜ」


 リキは天井に両方の拳をめり込ませ、コウモリのように逆さにぶら下がっていた。

「わたしも意外でした、あなたにチカラ勝負を挑まれるのは想定外でした」


「……ですが、そう来なくては!」

 リキは天井を蹴りつけ、まっすぐケンに向けて落下した。


 引力に蹴りの加速が加わり、二人の差はみるみる縮まった。

 リキはその状態で巨大な拳を振りおろした。

 まともに食らえば命はない。見ただけでそれが分かる攻撃だった。


 だがケンは涼しげにそれを見上げていた。

 そして誰にともなく小さくつぶやいた。


「あんた、とイッショだゼ」


   ♥


 そしてケンもまたリキに向かって飛び上がった。

 リキの巨大な拳が、ケン/春美の、眼前に迫る。

 と、ケンはその拳に柔らかく手を触れ、それを支点にくるりと体をひねり、リキの眼球に向けて槍のように鋭いキックを放った。


「クッ……」

 その一瞬、リキは拳を引き戻し、反射的に目をかばった。


 いや、


 ケンの蹴りはポンとガードに当たっただけだった。

 そしてリキの渾身の一撃は、そのせいで中途半端に止まってしまった。


   ♥


 二人はそれぞれに間合いをあけて地面に降りたった。


「ハンシャシンケーだけはセイギョできないんだぜ、シッテたか?」

 ケンは口元を歪めて微笑した。それは春美の顔ではあったけれども、まるで違う人間の顔のようだった。


「知りませんでした。つい拳を引っ込めてしまいましたね。なるほど、あなたはずいぶんと戦い慣れているようだ」

「イッたろ? おまえはオヤジとイッショだって。でもな、オレとランのオヤジは、おまえよりもまだデカカッタぜ」


「その父親はどうなりましたか?」


   ♥


(そうだった……)

 ケンの内部で、春美は久しぶりにそのことを思い出した。

 あれは中学生の時だったから、もう五年以上前になる……


 父親は陸上自衛隊の隊員だった。2メートル以上の上背があり、100キロを超える体重があり、全身筋肉の固まりのような男だった。


 母親に聞いた話では、学生の頃はアメリカンフットボールをしていたという。運動神経もよく、将来はアメリカでプロになることを期待されていた。だが、試合中に相手にひどい重症を負わせてしまい、なかば追放される形でスポーツの世界から追われてしまったそうだ。

 父親は昔から頭に血がのぼりやすいたちで、手段を選ばず勝利を求めるタイプだった。些細なことで怒り出し、一度怒ると手が付けられなくなった。


 そんな父親が次に選んだのが自衛隊というだった。

 父親はその時代のほとんどを海外で過ごした。いつも一番危険な場所に志願し、そこで長い時間をかけてあらゆる格闘技や、ナイフ、射撃などの戦闘術に触れ、時間の許す限りそれらを習得していった。

 春美がそれを知っているのは、父親の持ち帰る荷物がいつもその手の本とビデオテープだったからだ。


   ♥


 だがその軍隊生活のどこかで、父親が完全に壊れてしまった。

 どこかの戦地に行って、帰ってきたときだった。

 そこで何があったのかはわからない。ただそれ以来、父親は軍隊をやめ、人里離れた森の奥深くにある、湖畔の大きなログハウスに一家を連れて移り住んだ。

 そこで父は絶えず酒を飲み、父のかわりに働いていた母親を絶えず殴りつけるようになった。


   ♥


(……ラン!……セントーチューだ。クダらないことをオモイダすな!)

 突然、過去の記憶にケンの声がまぎれこんできた。


 ケンの目を通して、リキがラッシュを仕掛けてきたのが見えた。

 ふりまわされる巨大な拳、少し触れるだけでも体がぐらりと揺れる。


「ぼんやりしているヒマはないですよ」

 リキは力任せに連続で攻撃を叩きこんでくる。


 よけるのは簡単だ。だが手数が圧倒的。そして手も足もあまりに巨大だった。


(シューチューしろ! 


   ♥


(そうだった、あの頃、あたしは『ラン』って名前だった)


 一度流れ出した記憶は止めようもなく、残りの記憶が断片的に、雪崩れのように春美の脳裏に浮かび上がってきた。


 扉を開けて出てゆこうとする母親の後ろ姿……包丁を持ってそれを追いかける父親の大きな背中……振り返った父親の真っ赤な目……その手に握られた血だらけの包丁……それから大笑いした父親の酔った顔……


『ラン、これからはオマエが酒を買ってくるんだ』


   ♥


(……よせっ! ラン、キがチる……)

(ごめんケン、止まんないんだよ……)

 リキの拳が顎先にかすかに触れ、それだけで脳がグラリと揺れた。


「どうしました? さっきまでの切れがありませんよ」

 リキは大きく息を吸い込み、さらに手数を増やし、ありとあらゆる角度から巨大な拳を振り下ろしてくる。


 リキのその血走った目、膨らんだ筋肉、浮き出た血管、その全てが過去の父親の姿に重なって見えてくる。


  ♥


 はじめて殴られたときの痛み……逃げ込んだ夜の森の不気味さ……疲れ果て、眠ろうとしたとき……いつのまにか背後に現れた父親の姿……


『どこへ行くんだ! 逃がさねぇぞ! ラン!』

 父親の声が追いかけてくる……そして背中を蹴られた……顔の下で、つぶれた草の匂いが漂う……口から流れていた血が赤く光っている……


『許して、お父さん……』

 襟をつかまれ、家に引きずり戻された……目の端で床に落ちていた包丁を見つけた……母の血がついたままの包丁……一瞬だけ父の手を逃れ、素早く包丁を握り締め……そのまま、全身でぶつかるように懐に飛び込む……手ごたえがあった


『それじゃ届かんなぁ、ラン』

 父親はがっちりと刃先を握っていた……そして春美の腹を力任せに殴りつけた……一瞬で意識が飛んだ……


   ♥


 その日から春美は何度も父親を殺そうと試みた……そのたびに返り討ちにあい殺されかけた……素手で、ナイフで、ボウガンで、父親を殺そうとした……だが父親にはまるで歯が立たなかった。


 自分の部屋に籠城し、格闘技の本を夢中でめくった……父親が寝ているすきにテレビを運び込み、なんども父親の持ち帰ったビデオテープを見た……だがいつでも父親は彼女の上を行き、反撃はいつも容赦なかった……


 春美はそういう環境の中で成長した。


 ゆっくりと父親との実力は縮まっていったが、いつ殺されるかわからない恐怖が、常に日常に潜んでいた。


 春美の精神は、本人も気付かない間に、ゆっくりと崩壊していった。


   ♥


 そしてその日も、春美は殺されかけていた……殴られて意識をなかば失い……湖に投げ込まれた……体が沈んでいく……遠ざかっていく水面と太陽の光……容赦なく肺に流れ込んでくる大量の水……


(悔しいな。結局あいつに殺されちゃうんだ、あたし)

 死を覚悟したその時だった。


 水面に一人の男の子が現れた。

 美しい顔をした男の子だった。

 歳は同じくらい。

 鏡のようになった水面から、沈んでゆく春美のことを覗き込んでいた。


「オレのナマエはケン。タスケがヒツヨウか?」

「もうあたしは耐えられない。お願い助けて」


 ケンが右手を差し出し、春美がその手に自分の手を伸ばした。



   ♥


 そして運命の日は訪れた。


 いつも通りの襲撃、容赦ない父親の反撃。

 春美は流れた血をぬぐい、壁にもたれかかり、反撃の機会をうかがっていた。


 そこに音もなくケンが現れた。

 ケンは素早く侵入し、机の上にあった狩猟ナイフを掴み、風のように駆けた。

 繰り出された父親の攻撃をかわし、壁を使って天井に飛び上がり、さらに天井を蹴って父親の背後にスルリと降り立った。

 あの父親が振り向く時間すらなかった。

 ケンはクルリとナイフをまわし、そのままストンと背中に突き立てた。


 父親がゆっくりとケンを振り返った。


「おまえは、だれだ?」

 そのつぶやきと共に口の端から血がトロリと流れた。


「オレのナマエは【ケン】だ」

「ハッ……お前も壊れていたのか……」


 父親はそれだけ言い残し、ドサリと巨大な体は崩れ落ちた。


   ♥


「やっと……終わった……」

 春美はズルズルと床にへたりこんだ。


「ああ。オレたちはこれで自由だ」

 ケンがゆっくりとこっちを向いた。

 血しぶきが飛んだ美しい顔。


 ――その顔は――


 


 春美は混乱した。

 カッチリと嵌まっていた世界が、一瞬で崩れ落ちた気がした。


   ♥


「あれ。あなたケン、よね?」

「違うよ。あたしの名前はラン」


 ケンだと思っていたその人物はそう答えた。  

 ケンの双子か兄妹か、最初はそんなことを考えた。

 だが彼女が次に発した言葉で、春美はさらに混乱した、


「……?」

「あたし? あたしの名前は……」


 


「あたしは? 誰なの?」

 春美は自分の手に握られたナイフを見つめた。

 もう一度質問をしようとして、そこに誰もいないことに気が付いた。


 部屋にいるのは一人だけ。

 

 春美は血だらけの手のひらを眺め、そして声もなく絶叫した。


   ♥


(いいカゲンにしろ! ラン やめろ!)


 ケンが叫ぶと同時に、リキの拳が眼前に迫っているのが見えた。

 距離はわずか十センチ。


 が、考えるよりも早く体が反応した。

 とっさに後ろに飛び、リキのパンチよりもすばやく後退する。


 が、そこで頭が壁にぶつかった。

(しまった……ごめんケン!)


「油断しましたね、ですがそれもあなたの実力です」

 リキの拳が八方から迫った。

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