【種の発芽条件】⑥ 『春美/VS笑い男』

 春美/ケンは青の世界にいた。

 視界が全て青く染まっていた。


 まるで深い海の底にいるような感じ。自分の体のまわりが高圧の水で包まれているような感覚。だがまとわりついているのは水ではなく、時間の流れだった。


 悪夢の中に時々現れる、あの恐ろしくゆったりとした時の流れが、春美/ケンを取り巻いていた。


   ♥


(あたしは……ケン)春美は思った。

(オレは……)ケンが同時に思った。


 自分の体の感覚を確かめる。

 まだ一つだけ違和感がある。

 それが【ラン】の存在だ。春美は芳春から【春美】という名前をもらうまで、ランという名前だった。ケンが知っているのはそのランだけだ。今も春美のことをランだと思っている。

 だが【ラン】はその名前を消してしまい、その存在すら消してしまっていた。


(なんかシックリこねぇな)

(あんたがランにこだわってるからよ、あたしはハルミ。いい加減覚えてよ)

(でもおまえ、ランだろ?)

(だから違うって。あたしの名前は春美、美しい春でハルミ)

(わかってネェのはオマエだよ。ナマエをカエタだけさ。ナカミはランのままさ、オレにはワカる。オマエはサイショからランだよ)


(ワケわかんない)

 春美はそれ以上の説明を拒絶するように、そう告げた。


   ♥


(ワレながらメンドウなヤツだな……そもそもヨシハルがだな、)

(芳春がなによ?)

(ヨシハルっていうか、……)

 そう言いかけたケンがため息をついたのが分かる。

 面倒なのはケンのもっとも嫌がる事だった。


(……もーいいや! イマはセツメイするのもメンドウだ! オレのホウでアワセテやる、いくぜ【】!)


 ケンの言葉と共に、人格がピタリと重なるのが分かった。

 さっきまでのズレや違和感はもうない。


 完全に一人の人格【ハルミ】として融合した感覚がある。


 拳を握り締めてみる。力があふれ出てくる感覚があった。

 筋肉繊維の一本一本の動きが鮮明に感じとれた。

 体中をめぐる神経の電気信号がクリアに感じられた。


 それはまるで生まれ変わったような、新鮮で力強い感覚だった。


   ♥


(これならゴカクに、戦えそうね)


 粘りつく時間の中、それでも床がぐんぐん迫ってくる……ハルミはストンと床に四つん這いになり、突き飛ばされたスピードもダメージも吸収した。

 それはネコ科の獣のような、しなやかで柔らかな動きだった。そのままの動きで素早く後方に飛びのき、笑い男と間合いをとった。


「ほぅ。少しは楽しませてもらえそうだな」


 笑い男は先ほどまでハルミのいた床に右拳をめり込ませていた。それを引き上げながら、ゆっくりと立ち上がった。


 ハルミもまた油断なく、四つん這いからゆっくりと立ち上がる。


   ♥


「少し? たっぷり楽しませてあげるわよ」


 ハルミは少し腰を落とし、それから一気に飛んだ。

 左右の拳をギリギリと引き絞り、高速のラッシュを笑い男に放つ。


 そのラッシュはリキに向けて放ったものとは、スピード、パワー、手数、に圧倒的な差があった。リキに向けられたラッシュが台風であるなら、笑い男に放たれたラッシュはハリケーンだった。

 マスクの奥の青い目が一瞬動揺するのをハルミは見逃さなかった。


「ほら笑いなっ!」

 ハルミのラッシュがいくつもの残像の尾を引きながら、笑い男に襲いかかった。最初の一撃はまともに笑い男の顔に当たった。だが残りはぎりぎりの距離で次々とよけられた。


「笑いなよっ!」

 ハルミはさらにフェイントをおりまぜながら、変幻自在の攻撃を繰り出す。ストレート、フック、アッパー、左右の拳が縦横無尽の軌道を描き、笑い男の顔を目がけて殺到する。


   ♥


「くく」

 笑い男はその攻撃を巧みにかわしてみせた。全てのフェイントを読み切り、フェイントの隙間に紛れ込ませた必殺の一撃を、熟練した舞踏家のように片手でいなしてみせた。


「笑え! 笑え、って!」

 ハルミの手数がさらに倍増し、スビートと攻撃のギアが上がる。するとまた笑い男の顔面にパンチが当たりだした。当たらなかった拳も、かすっただけで切り傷となり、衝撃の余波を置いてくる。


「ふふ」

 笑い男はまた含み笑いをマスクの下でもらした。それでもその青い目はひたりとハルミを見据えている。そして笑い男もまた攻撃のギアをあげ、ハルミの攻撃の先を読み、わずかな隙を見つけては反撃の拳を撃ちだした。


「ほら笑いなよ! もっと笑え、って!」

「はは。いいね、なかなか楽しませてくれるじゃないか」


 二人の拳が無数の残像となり、拳同士がかすれあうたびに空気の渦が二人の腕を傷つける。

 笑い男のマスクにハルミの拳がめり込み、ハルミの頬を笑い男の拳がしたたかに打ちつける。そのスピードも手数もとどまるところを知らず、二人は一歩も引かぬまま、さらにギアをあげて拳を交えてゆく。


   ♥


 と――

 ハルミは一瞬、笑い男の腹に隙ができたのを見つけた。

 それはこれまで交わした拳の嵐の中、ぽっかりとあいた穴だった。


(そこっ!)

 素早く腰を落とし、地面を抉り取るように高速のアッパーを繰り出した。笑い男が一瞬遅れて両手でガードしたが、ハルミは一気にこぶしを振りぬいた。


 笑い男の巨体がわずかに宙に浮いた。

 するとハルミはネコのようにその場でくるりと回転し、その回転力と体重を右足に集中し、さらにその腹に蹴りを叩き込んだ。


 笑い男が体を『く』の字に体を曲げたところで、さらにハルミは飛び上がり、笑い男の頭を押さえつけながら、左足のひざ蹴りを笑い男の口元に叩きこんだ。


   ♥


「ふふ。やるねぇ、思ったより」

 笑い男はハルミの膝がめり込んだ口元から声を漏らした。


 そして素早くハルミの手を払いのけ、後ろ向きに飛んだ。

 高速で複雑なステップを取り、その姿を残像で霞ませながら間合いの距離を稼ぐ。


 だが姿


「クッ……」

 笑い男が漏らしたのは笑い声でなく、呻きにも似た声だった。


「――――」

 そうつぶやいたハルミは笑い男の目の前にいた。


 その言葉が笑い男の耳に届くより早く、ハルミの渾身のアッパーカットが笑い男の顎をまともに捕らえた。それは回避不能のスピードと技だった。


 笑い男の体が再び宙に浮いた。


   ♥


「たいしたものだ……何の訓練もなしに……」


 笑い男は落下しながらそう呟いた。

 落下しながらも、冷ややかにその青い瞳をハルミに向けた。


「……


「ほんと、タフだね、アンタ」

 ハルミは笑い男の落下地点めがけて走った。空中にいる今がチャンスだ。

 まともな受け身が取れない状況なら、ラッシュを叩き込めば、致命傷を与えることもできるはず。


(だがそれだけじゃ足りないわね!)

(カクジツにシトメないと!)


 ハルミは走りながらポケットに手を入れた。

 ポケットの中でバタフライナイフがひんやりとした感触を放っていた。


 ハルミは素早くそれを取り出すと、ジャキジャキと音を立てて刃を開いた。ナイフを逆手に握り、腰を落として最後の間合いを詰める。


   ♥


 狙うは一点、笑い男の首だ。

 ハルミはナイフを持った右手一本でラッシュを繰り出した。


「……はは」

 再び笑い男のマスクから笑い声が聞こえた。


「そうそう! 笑いながら死にな!」

 銀色のきらめきが無数の線となって、笑い男のマスクに殺到する。


「ははっ! あはハハはハハ!」

 笑い男の声が狂ったような笑い声が響いた。


 次の瞬間だった。


 

 

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