サイコガーデン

関川 二尋

ファーストプロローグ

【夢の庭】


 京一は時々自分を見失った。

 自分という人間が分からなくなる時があった。


 京一が自覚している自分は、おとなしくて、人に気を使ってばかりの人間だった。臆病というわけではないが、争い事は好まなかった。

 人を傷つけるよりは、自分が傷つく方がマシ、そんな風にいつも思ってきたし、いつもそういう行動を取ってきた。


 それは十九歳になった今もまったく変わらない。

 それが自分の知っている、自覚している、京一という人間だった。


 可もなく不可もなく、どこにでもいるようなありきたりな人間。

 良くも悪くも優しさだけが取り柄の、ごく普通の人間。


 それが自分だと思っていた。


   ❦


 だが


 京一には小さな頃から繰り返し見る同じ夢があった。


 どこか知らない町、その町の中心部にあるまるで見覚えのないデパート。

 そこで見知らぬ男たちから逃げている。


 夢の情景はいつも同じ。エスカレーターを逆に登り、居合わせた家族連れを押しのけ、やがて洋服売り場に出る。その階だけには誰もいない。ただマネキン人形だけがあちこちに立っている。

 その洋服売り場を走り抜け、真っ赤なタイル張りの中央階段を駆け上がる。一段飛びに二階分を駆け上がると、両開きの金属扉が行く手をふさぐ。京一が体重をかけてその扉を引くと、突然外の空気が流れ込み、眼前には青空が広がる。


 そこはデパートの屋上だ。


 京一はあたりを見回す。屋上いっぱいに庭が広がっている。床には鮮やかな緑色の人工芝が敷かれ、鉢植えには色とりどりの造花が季節を問わずに咲き乱れている。


 バラ、ユリ、ひまわり、パンジー、チューリップ、いろんな花が毒々しい色彩でを咲かせている。


 そこで突然京一の逃走は終わる。


 男たちが屋上に到達し、京一は逃げ場がないことを知る。


   ❦


 本来の自分ならばそこであきらめるはずだ。


 人を傷つけるのは気がすすまない。それならばまだおとなしく殴られるほうが気が楽だ。殴られたところで死にはしないし、殴るほうも少しばかり暴力を使えば気が済むだろう。だから黙って、あまり痛くないように殴られてやる。


 本当の自分ならそうしているはずだ。


 だが夢の中の自分はそうしない。

 来たるべき戦いに血が沸き立ち、戦いだけが残された状況に笑顔を浮かべる。

 体には力があふれ、自分が絶対に負けないという自信と確信に心を震わせる。


   ❦


 ああ……最高の感覚だ

 戦いが始まる緊張感

 血の甘い匂い!

 最高だ

 暴力の興奮にゾクゾクする

 早くはじめよう

 さっさとはじめよう

 早くかかってこい

 早く早く早くこい!

 グズグズするな!

 早くしろ!


   ❦

 

 まるで自分らしくない好戦的な自分。

 それが自分の姿だとは、同一人物だとは思えない。

 それは自分の姿をした誰かを見ているような感覚だ。


   ❦


 そこで目が覚める。


 いつも同じ。

 始まりも終わりも全て同じ。


 戦いの結末がどうなるのかは分からない。


 ただ絶対に負けないということだけは、なぜか確信がある。


   ❦


 京一はその日も同じ夢を見た。


 見知らぬデパートでの逃走劇。

 迫りくる男たち、洋服売り場を走り抜け、階段を上り、造花の咲き乱れる屋上にたどりつく。

 そして戦いを決意する瞬間。


 最初から最後まで全てが同じ。

 何度も繰り返されるいかれた映画のフィルム。


   ❦


 


   ❦


 夢に続きがあったのだ。

 ほんの少しだけ……


   ❦


「……ぅぅぅわぁぁぁ!」

 京一は叫びながら目覚めた。


 体中にびっしょりと汗をかいていた。それだけではない。体中の筋肉が痛んだ。

 日ごろからそれなりに鍛えてはいるのだが、それでも異常なほどの痛みだった。体中の筋肉が細い針金で束ねられているようにきりきりと痛み、心臓が胸の中いっぱいに跳ね上がるように今もドキドキと脈打っている。


   ❦


 京一は布団を握り締めていた指を、はがすようにゆっくりと開く。

 まだ動悸が収まらない。


 この感覚はなんなんだろう?

 心を落ち着けながら、ゆっくりと夢の続きを思い出す。


   ❦


 この時初めて、

 全部で四人。

 誰もがまるで見覚えのない顔だった。


 背の高い【針金のような男】

 やたらと筋肉質な【ゴムマリのような男】

 その二人から一歩下がってやたらと【恐ろしい目をした女】

 さらにその背後にはどういうわけか【父親】


 そして夢の中の京一は、他の三人にはまるで目もくれず、一瞬にして父親に詰めよって拳を振り上げた。なにか叫び声を上げながら。


   ❦


 夢で見たのはそこまでだった。


 この夢は何を暗示しているのだろう?

 なぜ父に刃向かっていくのだろう?


 父に逆らう理由があるはずがない。

 いつも温厚で優しい父だ。

 父にしても自分を追い詰める理由があるはずがない。

 

 つまりこれはただの夢。


(それだけのことだ。ただの夢だ)


 京一はそう思い込もうとしてみた。


 だが自分の魂の奥底が戦いを嗅ぎつけ、興奮して震えていた。


 これは夢なんかじゃない。

 なにか戦いが迫っている。


   ❦


 早く始めよう

 戦いを早くはじめよう

 血みどろになって

 生と死のワイヤーの上で踊ろうぜ

 死の間際まで連れて行ってくれ

 早く

 早く

 グズグズするなよ

 早くしろよ

 デッドラインはすぐそこだ!


   ❦


 歓喜と興奮の叫びが喉元にあふれてくる。


 本当の自分は戦いなど望んでいないはずだ。

 こんなのはまるで自分らしくない。

 これは自分の本心なんかではない。

 俺はそんな人間じゃない。

 そんな人間じゃないはずだ。


   ❦


 目覚めた京一は自分の思いを抱きかかえるように、布団の中にうずくまった……

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