【種の発芽条件】④ 『春美/青い世界へ』



 その声に春美が振り返ると、そこに【笑い男】が立っていた。

 見るからに異様な男だった。

 頭部全体をすっぽりと覆う黒革のマスクは、目元だけが切り抜かれ、その奥にはハッとするような真っ青な瞳がのぞいていた。

 身長は百九十センチというところだろうか、鍛え上げたがっしりした体つきをしており、その肉体をエナメルのようなレザースーツがピッチリと包み込んでいる。


   ♥


(こいつ、カンペキにイカレてるぜ?)

 ケンは自分の中の春美にそっとささやいた。


(たぶんね、それよりケン、そろそろ交代してよ)

(えー、もうかよ? さっきコウタイしたばっかだぜ)

(いいから早く!)

(ちぇっ)


 ケンの人格が引っ込み、代わりに春美の精神が浮かび上がった。

 春美は笑い男から目を離さずに、少し体を動かして、自分の精神が肉体になじむのを待った。


   ♥


「待ってください、もう少しで決着がつきます、つけますから」

 春美のすぐ隣で、リキが巨大な体を、哀れなほど小さくして弁解していた。その全身はすでに血まみれ、顔面は蒼白だった。


「待てないね。それに決着はキミの死という結果になってしまう。キミはよくやってくれた。少し休んでいるといい」


 笑い男がそういうと、リキは傷口の手をおさえ、その場にどっかりと座り込んだ。それから声もなくシクシクと子供のように泣き出してしまった。


「泣くことはないよ、リキ。俺は怒ってない。安心しろ」

 さらにそう言われると、リキはしゃくりあげながらウンウンとうなずいた。


「さて……」

 笑い男はゆっくりと春美に近づいてきた。

 そして正面三メートルほどのところで立ち止まった。

 それは春美の持つ間合いギリギリの位置だった。


「あなたは……ハルミさんだね? 中のもう一人はなんていう名前なんだい?」

 笑い男はそう言った。どうやら春美の中のもう一人の人格、ケンの事も知っているらしい。


 こういう相手は厄介だ。

 たぶんあたしのことも細かく調べあげているに違いない。


   ♥


「ケン、よ」

 春美はとりあえず正直に答えた。


「あなたの能力って、なによ?」


 春美はいきなりそう聞いた。

 能力がわかれば、戦いも有利に運べるだろうからだ。

 だが笑い男はマスクの奥でクックッと笑い声を漏らしただけだった。


「言うわけないだろう? だが聞いたところでキミでは俺を倒せないよ」

「やってみなくちゃ分かんないでしょ?」


「分かるさ。だって君の能力はだもの」


 春美のこめかみの血管がぷくりと膨れた。

 笑い男の物腰、話し方、その存在全てに怒りを感じた。


 それでなくとも春美は短気だった。

 なかでも馬鹿にしたような口をきかれることには我慢がならなかった。


   ♥


「さっきの戦いを見てなかった?」

「見てたさ。だからそう言ってるんだ。君は鹿じゃないか?」


 笑い男はそういいながら首の筋肉をゆっくりと動かした。

 笑い男はあきらかに春美を挑発していた。

 彼女の怒りに火を注ぐように、彼女が言ってほしくない言葉を一つ一つ慎重に選んで並べていった。


 春美は右足を滑らせるようにして一歩前に、にじり出た。

 笑い男は一歩も引かず、春美のことを見下ろすように睨み付けている。


 春美はさらに一歩近づいた。

 それでも笑い男は動かない。


 だがこれで笑い男は完全に自分の間合いに入った。


   ♥


「あんた、すごくむかつくわ」

 春美はわずかに腰を落とすと、笑い男に向って駆け出した。

 すばやく二歩分の距離を詰め、三歩目で飛び上がって右足の蹴りを放つ。


 当然一撃目はよけてくるだろう。そう思っていた。

 だからその一撃がまともに笑い男の頭を捕らえたときは、彼女自身が一番驚いた。笑い男は春美の蹴りをまともにくらい、のけぞるようにして倒れ、そのままリノリウムの床を滑っていった。


「こんなもんじゃないんでしょ!」

 春美は着地すると、すぐに笑い男を追って走った。


 笑い男はずるずるとすべり、壁に頭をぶつけたところで止まった。


 笑い男が顔を上げたときには、春美はすでに真上にいた。

 春美は拳を振り上げ、寝そべった姿勢の笑い男の腹に渾身のパンチを叩き込んだ。


   ♥


「ぐぉっ」

 笑い男の体がはじかれたようにくの字に曲がった。

 それからぐったりと床に伸び、ぴくりとも動かなくなった。


 春美はすばやくその体から降りると、間合いをとり、拳を固めて構えた。


(手ごたえはあった……)


 だが春美は不安だった。

 完璧に急所をとらえた自信はある。

 だがそれでもなにか変な感じがした。

 違和感だけしか残らなかった。


「いやいや、まったく話にならないね……」

 笑い男の両足がゆっくりと持ち上がり、それを振り下ろす反動を利用して一気に立ち上がった。体操選手のような、優雅な身のこなしだった。


「……


   ♥


 笑い男の次の言葉は、春美の目と鼻の先で聞こえた。


(しまった!)

 そう思うヒマすらなかった。いつのまにか間合いを詰められていた。

 動体視力には自信があったが、その彼女の目をもってしても笑い男が動く姿をとらえきれなかった。

 その素早さはまるでテレポーテーションのようだった。


(なんてやつ……)

 そう思ったときには、春美は空中を飛んでいた。

 衝撃の痛みまでが遅れて襲ってくる。


 攻撃されたのはお腹、ガードも間に合わなかった。


 と、今度は急に体が天井に向かって飛び上がった。

 今度は背中を蹴られたのだ。またしても笑い男が動く姿は見えなかった。


(どうなってんのよ?)

 天井がみるみる近づいてくる。と、目の前の空中に笑い男の姿が出現した。春美にはどこから移動してきたのか全く分からなかった。


   ♥


「まったく話にならないね」

 笑い男がそう言った。


 そう言っただけなのに、今度は体が床に向かって急激に落ちはじめた。


 それから頬に痛みが走った。

 殴られたということだろうか?


 だがそれすらも全くとらえられなかった。


(ケン……)

(ワカッてるよ、あれをタメしてみんだろ?)



   ♥


 春美はもう一つだけ、最後の奥の手を隠してあった。


 それは


 これまではどちらか一人が表に出て交代で戦ってきた。

 だが一人ずつが表に出て戦っていても、それは一人分の力にしかならない。


 だが二人が同時に表に出ることができればその戦闘力は二倍になる。

 すくなくとも理論上はそうなるはずだった。


   ♥


(でもよ、。ダイジョーブかよ?)

(今のあたしは、忘れないで)

(そうだったな、まぁドッチでもいいけどよ)


 これまでそんな戦い方を試したことはなかった。そう言う相手に巡り合わなかったこと、そうする必要がなかったのも事実だが、それ以上に自分の精神がどうなってしまうかわからなかったからだ。

 それでも今やらなければ、本当にここで死ぬかもしれなかった。


(あたしの覚悟はできてる)

(オレもだ。いくぜハルミ!)


 ケンの言葉と同時に、ケンの精神、能力の全てが春美の中に噴き出してきた。


 眼前に床が迫ってくる。

 だがその光景が全て真っ青に輝きだし、春美の世界全てを呑みこんでいった。

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