【種の発芽条件】⑯ 『笑男/最後の手段』
笑い男は虎視眈々と罠を巡らせていた。
ズラリと【神の手】を展開し、京一に最後の勝負だと印象付けた。
互いにノーガード、攻撃のスピードだけが勝敗を分ける。
京一はそう判断したはずだ。
だが笑い男の狙いは別にあった。
笑い男は背後から伸ばした数本の【槍】を床に突き刺し、リノリウムの床下を這わせ、罠を張った。この状況下では、地面からの攻撃は予測しない、いや、出来ないはずだ。
♦
(勝利を確信した時こそ、足元を掬われるものです)
笑い男/フォールは神【シン】の言葉でその作戦に気づいた。
勝利を確信して慢心するのは、自分ではなく京一の事だ。
そこに気付けというメッセージだと即座に理解した。
もっとも本来であれば、こうした姑息な手は使いたくなかった。
正々堂々と対峙し、京一の中の【レイ】を引っ張り出し、それを正面から打ち破るつもりだった。圧倒的な『神の力』でねじ伏せるつもりだった。
だが今の京一の力の前ではそうせざるを得なかった。
それだけは認めなければならない。
確かに京一は特別だった。
『ファーザー』が作り上げた異質な怪物だった。
それでも昔のように恐怖を感じることはなかった。
屈辱を味わうことになったがそれだけのことでもある。
♦
(まぁ認めよう。確かに今のお前に【レイ】は必要ないようだ……)
その京一が真正面から飛び込んでくる。
迎え撃つように、フォールもまた神の手に攻撃を命じた。
残された五十本近い【槍】が、上下左右から京一を包み込むように、その先端を殺到させる。もちろん全ては罠に誘い込むためだ。
そして京一が残像を霞ませて、さらに加速した。
フォールにとっては想定外のスピードだった。
だが問題はなかった。
京一は真正面から勝負に出ている。
その足元に罠が張り巡らされているとも知らずに……
♦
(……さぁ来い……ここでお前は死ぬんだ……)
フォールは思わず口元をほころばせた。
また時間がスローモーションで流れ出している。
アドレナリンが脳と言わず全身に満ちている気がする。
ゆっくりと流れる時間の中を、京一が迫ってくる。
拳を振り上げ、迫りくる槍にチラリと意識を向け、それから拳のスピードをさらに加速させる。
だが罠に気づいている様子はない。
それどころか勝利を確信しているように見える。
その瞳孔がネコのように縦に開かれているのは気のせいだろうか?
わずかな違和感はあったが、この局面では重要ではない。
(……最後は冷静さと狡猾さが勝利を分けるんだよ……)
♦
そして……
京一がエリアに踏み込んだ。
同時にフォールは一気に床下のトラップ【槍】を突き上げた。
その数は十本あまり。
死角は完全にゼロ。
かわせる隙間はどこにもない。
これで京一の全身が串刺しになる。
(俺の勝ちだ!)
フォールは勝利を確信した。
その瞬間、京一の姿が消えた。
同時にゆっくりと流れていたはずの時間が凍りついた。
(馬鹿な……)
京一の姿は完璧に消えていた。
気配すら全く感じられない。
そして長い長い一瞬が、ゆっくりと流れていった。
♦
「 死 ぬ な よ ! フ ォ ー ル 」
間延びした京一の声が聞こえ……
突然背中に衝撃が走った。
首がガクリとのけぞり、大砲で飛ばされたように、自分の体が空中へと一気に打ち上げられた。
肺の中の空気が一気に吐き出され、同時に痛みが、想像を絶する痛みが、体中を走り抜けて脳髄に次々と突き刺さった。
(背後に……まわった……とでも?)
あまりの痛みに、うまくものが考えられなかった。
(この俺が攻撃されたのか?)
背骨がバキリと鈍い音を立て、それを追うように次々とあばら骨にヒビが入った。そのあまりの激痛に、神経のほうが耐えられなくなった。
蝋燭の炎が消えるように、フォールの中からその痛みがフッと消えた。
(……俺が、この俺が、死ぬというのか?)
それから何も聞こえなくなった。
鼻腔から血の匂いが消え、口の中は痺れ、全身の感覚が切り離されるように消えていった。残っているのは視覚だけだが、それすらもゆっくりと、ベールがかかろうとしていた。
(この俺が、死ぬ?)
フォールの精神はゆっくりと【絶望】という底なし沼に沈んでいった。
死の恐怖さえも、【絶望】に沈もうとしていた。
(神よ……わたしはここまで、なのですか? ……)
(わたしは、ここまでの、これだけの存在だったというのですか?)
フォールの胸の内に湧き上がったのは混乱と戸惑いだった。
だがそれも一瞬のことだった。
♦
パッとフォールの胸に怒りが灯った。
精神の奥深いところから、それ以上に深い精神の暗黒の底から、真っ黒い炎にも似た殺意が噴き出してきた。それは巨大な炎となり、フォールの感じた絶望の全てを燃やし尽くした。
(認めない……俺は、俺の死を認めない!)
(俺はぜったい死なないんだ)
(誰にも俺を殺させない。俺は誰にも殺されない)
(俺を殺していいのは俺だけだ)
(親だろうと神だろうと運命だろうと、俺を殺すことは許さない)
それこそがフォールの魂の奥底に眠っているものだった。
(それを邪魔するものは、親であろうと、神であろうと、皆殺しにしてやる、誰にも俺を殺させやしない)
この強烈な殺意こそが、フォールをフォールという存在にしているものであり、フォールの本質だった。
(まだ、だ。まだ、だ。まだまだ、だ!)
♦
フォールは目を開いた。
そして無理やり全ての感覚を取り戻した。
その中には全身を覆い尽くす激痛も含まれていた。正気では耐えられないほどの、まさに痛みの極限だった。それでもフォールはその痛みを受け入れた。
「ぜっ……たい……に……ころして……やる」
打ち上げられたフォールの体は天井に激しく激突した。
そして天井のかけらとともに、ぐったりと、人形のように落下をはじめた。
もはや体は動かなかった。
だがそんなことはどうでもいいことだった。
神の手さえ動けばいい。
神の手を使って京一を殺せばいいだけなのだ。
その殺意に応えるように、フォールの胸から一本の腕が生えだした。
それは最後に神からもらった一本だった。
精神を集中し、拳を握り締めてみる。
それは殺意をこめただけで力強く動いた。
♦
(ははっ、ついてるぜ、俺は)
フォールは血を吐きながら笑った。
もはやまともに口も動かず、あえぐような笑い声だった。
フォールは逆さまに落ちながら、眼球だけを動かして京一を見下ろした。
京一は拳を振り上げた姿勢のまま、ピクリとも動いていなかった。
今は体中の筋肉から血を流し、彫像のようにに立ち尽くしている。
どうやら京一もまた限界を超えたようだった。
今は立ったまま気絶しているらしい。
(悪いが、そのまま死んでもらう)
フォールは殺意を込め、胸から生え出した【神の手】を京一に伸ばした。
白く光る神の手が、まっすぐ京一に向かって伸びていき、胸の中心に吸い込まれた。血は流れない。それは実体がないように、するりと京一の体の中に入っていった。
それでもその瞬間だけ、ピクリと京一が動いた。
ただその動きは反射的なものであり、京一は気絶したままだった。
♦
(俺の勝ちだ、京一。おまえだけは殺しておかなきゃならない)
フォールから伸びた神の手が、京一の胸の中で心臓をつかんだ。
フォールは手の平いっぱいに京一の心臓の生暖かい感触と、弱々しい脈動を感じ取った。
フォールはまた少し笑った。
勝利が嬉しかったのだ。
京一を殺せることが何よりも嬉しかったのだ。
フォールは京一の心臓を握り締めた。
ぶよぶよとした感触が伝わる。
再び京一の体がびくびくと動き、鼻から血がトロリと流れ出した。
口からは苦悶のうめき声が低く流れ出した。
その顔がみるみる青ざめてゆく。
(ようやく終わりだ)
フォールは最後の力と気力を振り絞って、神の手に力をこめた。
それだけで自分にも激痛が走り、気を失いそうになる。
それでも痛みを杖になんとかとどまった。
なんとかとどまり、神の手に殺意を送り込む。
神の手はそれに応えるようにジリジリと心臓を握りつぶしていく。
ゆっくりと京一の鼓動が小さく、遠くなる。
その手を緩めることなく握り続けると、やがてその鼓動が停止した。
そして笑い男はとうとう勝利を確信した。
確信して、今度は心の中で安堵の笑みを浮かべた。
♦
おそらく、このまま自分は床に落ちて、しばらく気を失うだろう。
だが、目が覚めたときには、自分だけは立ち上がるだろう。
しかし京一は立ち上がれない。
京一が二度と立ち上がることはない。
♦
(悪いな、京一……【レイ】との再会は残念だったが仕方ない……それでも今のお前は……)
突然フォールの体の落下が止まった。
今は頭を下にした状態。
激突するはずの床は目の前だった。
どういうわけだか体がユラユラと揺れている。
何かが足首を掴み、落下が止まっているようだった。
(どうしたんだ? 何が起こっている?)
♦
「すっごく、楽しかったわ」
それは【春美】の声だった。
【ケン】と呼ばれる人格の声ではない。
二人が混じりあった【ハルミ】でもない。
その声に続いて、フォールの体がじりじりと持ち上げられた。
「あんたたち二人とも最高だったわ。だからあたしが、あんたたちに第二ラウンドを用意してあげる」
その声が終わると同時に、フォールの頭が床に叩きつけられた。
(油断したか……)
その思考すら終わらぬうちにフォールの意識は暗黒に包まれた。
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