【種の発芽条件】⑧ 『春美/最後の切札』
青く染まった視界の中。
アッパーカットをまともに受けた笑い男が宙に浮かび、それからゆっくりと落ちてくる。秒針がゆっくりと時を刻んでいる感覚、相手は身動きの取れない空中、回避不能のシチュエーション。
ハルミにとっては最大の勝負所だった。
だが……そんな状況だというのに【笑い男】は笑った。
♥
ハルミはキッと唇を結び、素早く距離をつめた。
ナイフを握り締めた拳が、幾多の残像を引きながら、笑い男の首に迫る。
油断はしない。殺意をギリギリとたわめ、一気に解き放つ。
そしてナイフの切っ先が、笑い男の首に触れようとしたその一瞬……
笑い男の体が真っ白い閃光を放った。
その白い閃光はただの光ではなかった。
その光は『質量』をもっていた。
『何かに触れた』ような確かな感触があった。
ハルミのナイフがその輝きの中に溶け込み、同時にパリンと音を立てて割れた。
それはありえない光景だった。
まるで理解が及ばない光景だった。
♥
(なに、このヒカリ? なんなの?)
その白い閃光は笑い男の真っ黒な全身を包み込んでいた。その表面は意思を持っているように波打ち、燃え盛る炎のように轟々と笑い男の全身を包み込んでいた。
「最初に言ったはずだ。俺には絶対、勝てない」
さらに笑い男の背中から、一対の白い光が溢れ出し、次の瞬間には巨大な翼に形を変えた。軽く一度羽ばたくと、笑い男の落下が止まった。
それからさらにもう一度翼を羽ばたかせ、すっと垂直に浮かびあがり、そのまま空中で止まった。
確かに飛んでいた。
正確には宙に浮んでいた。
それだけに、ソレは、理解できない光景だった。
♥
(ホントにカミサマなの?)
まるで信仰心などないのに、ハルミの両目に自然と涙が浮かんだ。
白い光に包まれた笑い男の姿は、それほどまでに神々しいものだった。
ハルミが初めて見る、涙が溢れ出してしまうほど美しい存在だった。
ハルミの手から折れたナイフがこぼれ、床に当たって澄んだ音を立てた。
「俺の中には【神】が宿っている」
笑い男は巨大な翼を再びはためかせ、それからゆっくりと地面に舞い降りた。ふわりとその翼が輝きを失い、空中に溶けて消えた。
ハルミは思わずよろよろと下がった。
一歩、二歩、三歩。そこで足が止まってしまった。
「神は現実の存在なんだ」
ハルミは呆然とその姿を眺めることしかできなかった。
自分の中の戦意がフッと揺らめき、消えようとしているのが分かった。
♥
――ヨソミすんなよ、ハルミ――
ゆらりとケンの思考が流れてくる。
――カミ? いいじゃねぇか。オモしれぇじゃねぇか――
ケンの思考は冷たく興奮していた。
――ビビるな。ただの『テキ』さ、タノしめよ、ハルミ!――
――さぁ、いこうぜ! オレとオマエでカミをブチノメシテやろうぜ!――
ケンはそれだけつぶやくと、また消えてしまった。
その言葉にハルミは呪縛から解き放たれた。
そう今は戦っているのだ。
殺すか殺されるか、そういう戦いをしているのだ。
「そうね、アイテがダレだろうと、たとえ神だろうと、カンケイないよね」
ハルミは獰猛な笑みを浮かべ、再び笑い男に向けて走り出した。
♥
間合いはわずか三歩。一歩、二歩と高速で移動し、三歩目はパターンを変えて前転をし、同時に床の折れたナイフを掴みながら、笑い男の懐に飛び込んだ。
笑い男の顔に、一瞬だが動揺があった。
それはわずかだが、反射的に後退したのをハルミは見逃さなかった。
(今度こそっ!)
ハルミは再び折れたナイフでラッシュをかけた。
視界はまだ青く、周囲の動きはゆっくりと粘りつくように流れている。その引き延ばされた時間の中を、無数の銀色の糸を引きながら、ハルミの無数の拳が追尾ミサイルのようにまっすぐに伸びてゆく。
「無駄だよ」
ハルミの腕が止まった。
正確には止められた。
だがそれを止めたのは笑い男の手ではなかった。
♥
笑い男の手は、両手にだらりと下げられたままだったのだ。
ハルミの攻撃を止めたのは、真っ白に光る【白い手】だった。
その手は笑い男の右肩のあたりから、本物の手とは別に伸びだしていた。
残像を霞ませた春美の無数の攻撃の中から、正確に一本の腕を、その手首だけをつかみ出していた。
「……何度も言わせるなよ。俺には神の力があるんだ」
白い手がギリギリとハルミの手をねじり上げると、ナイフが零れ落ちた。
「それでも、あんたはただの敵だよ!」
ハルミは笑い男の足元をめがけて、素早く右足のけりを放った。
と、再びその攻撃が止められた。
またもや白い光の手、いわば【第二の白い手】だった。
今度は左の肩のあたりから伸びだしていた。
♥
「……その目でコレを見ても、まだ信じられないか?」
「少なくとも、あんたの妙な手は二本ともふさがった」
ハルミは左足を振り上げると、体勢を崩しながらも渾身の力をこめてキックを放った。攻撃が当たれば笑い男の側頭部を砕くはずだった。
パシリ、と、ふたたびその攻撃が止められた。
ハルミはその時になって、初めて自分が負ける可能性を考えた。
笑い男の白い手は二本だけではなかったのだ。
【第三の白い手】が、右肩のすぐ下から生え出していた。
おそらく、あの白い光は自由自在に形を変えるらしい。
さっきの翼もそう、今や三本に増えた白い手もそう。
(ヤバいかな、これ。あたし、負けちゃう?)
それでもハルミは最後の攻撃を仕掛けた。
右手と両足は完全に押さえられていたが、最後の左手が残っている。
体勢は充分ではなかったが、ハルミは最後の力を振り絞って攻撃を仕掛けた。粘りつく時間の中を、拳をかすませて、その一撃一撃に必殺の力をこめ、渾身のラッシュを殺到させる。
♥
「無駄だよ。全て無駄だ。人間は神には勝てない」
笑い男の左肩からさらに【第四の白い手】が現れた。
が、今度はハルミのどの拳も掴み取れなかった。
ハルミは掴まれる前に拳を引いていた。
「それホント? 誰が言ったの?」
ハルミが意地悪そうに、試すように笑った。
笑いながらも猛然とラッシュを再開する。
すると笑い男の体全体から、無数の腕が広がり、残像も含めて全てのこぶしを掴みにかかった。
やがて、パシリ、と音がして最後の左拳がつかまれた。
その拳は笑い男の顎先にわずかに触れたところで止まっていた。
♥
「これで分かったろ? 神の力の前ではすべてが無意味になる」
笑い男は勝ち誇ってそう言った。
ハルミは両手足を完全に掴まれ、ただその笑い顔をにらみつけるだけだった。
が、そのハルミの口元がニンマリと横に広がった。
「なにがおかしいんだ?」
そのニタリとした笑顔は笑い男の
もちろんそれもハルミの作戦のうちだった。
「神ならわかるんじゃない?」
試すように笑い男を睨みつけると、笑い男も冷徹な目で睨み返してくる。
その一瞬に勝機があった。
握りしめていたハルミの左こぶしには折れたナイフの刃先が握られていた。それは巧妙な位置で、笑い男からは死角になっていた。
彼女はそれを気取らせることなく、ゆっくりと拳を開き、起用に指先だけを動かし、人差し指と中指の間にナイフの刃をはさんだ。
そしてなんの言葉もモーションもなく、指先の力だけで折れたナイフの刃先を放った。
♥
「分かるさ、お前は敗北で気が変になってるのさ」
笑い男は勝利を確信して油断していた。
銀色の刃先が、音もなく飛んでゆく。絡みつくような白い神の手の隙間を抜け、死角になった狭いポイントを一直線に、笑い男のその額めがけて、すべるように飛んでいく。
♥
これがハルミの最後の作戦だった。
この一瞬のスキを作るためだけに、最後の無謀なラッシュを仕掛けたのだ。
「じゃ、
ナイフは勝利を乗せて、ゆっくりと、音もなく飛んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます