【種の発芽条件】⑩ 『春美/結末と役目』
ハルミの指先から放たれたナイフは、引きのばされた時間の中を、すべるように飛んでいった。
「ゼッタイ、負けないっ!」
ハルミが叫び、さらに笑い男に殴りかかった。だがハルミの四肢は、いまだ笑い男の【白い手】にがっちりとつかまれ、完全に身動きを封じられていた。それでもハルミは渾身の力をこめ、呪縛を断ち切ろうともがいた。
「無駄だ。俺の『能力』には誰も勝てない」
笑い男はそう言って再び笑い声を上げた。
♥
(……そんなの、分かってるわよ)
笑い男の白い手がはずれないのは分かっていた。だがこれもハルミの計算の内だった。全てが、笑い男の注意をナイフからそらすための作戦だった。
笑い男がマスクの向こうで笑っている。
獲物を痛めつける愉悦に浸っている。
そのマスクの斜め上のあたりから、ナイフの刃先が静かに接近してゆく。
ハルミはそれを視界の端にとらえるだけで、瞳は動かさない。
笑い男はまだ接近するナイフに気がついていない。
その軌道は彼の位置からは完全な死角となっている。
もちろん偶然ではない。
ハルミの、ケンの闘争本能が作り上げた完璧な作戦だった。
そしてナイフの先端がマスクに到達した。
♥
(獲った!)
瞬間、ハルミとケンの思考が混ざり合った。
ナイフは粘りつく時間の中をじりじりと進み、その先端が笑い男のレザーのマスクに触れた。
ピタリと額の中央の位置。
音もなく、滑り込むように、ナイフの切っ先がレザーの表面に吸い込まれ、ゆっくりと切り裂いてゆく。刃先はさらにズブズブと侵入し、マスクの奥の皮膚に到達し、血のしずくが赤い玉となって漂いだした。
それは恐ろしく鮮やかな、真っ赤な水滴だった。
「……な……にっ……!?」
笑い男はその時になって初めてナイフに気がついた。
その青い瞳の中に、銀色に光るナイフが反射しているのが見えた。
ナイフはスルリと音もなく、さらに笑い男の額の中に吸い込まれていく。
血が、さっきよりも大量の血液が、丸い滴となって点々と空気中に漂いだした。
♥
「くっ!」
笑い男の目にまぎれもないパニックの色が浮かんだ。
だがそれはほんの一瞬だけだった。
笑い男の目の中に現れたパニックは次の瞬間には消え失せ、その目が静かに閉じられた。
(……許せないね……)
ハルミの頭の中に直接笑い男の声が聞こえた。
口も動かしていないのに、その声がはっきりと頭の中に聞こえてきた。
(……もう絶対許せないね……)
次の瞬間、ピタリとナイフの動きが止まった。
それを止めたのは、笑い男の額から伸びだした無数の小さな手だった。
真っ白くて細い、小さな『もやし』のような手が、額の上にいくつも生え出し、ナイフを掴んでいた。それは刃のあちこちを、煙のような白い血を流しながら直接掴み、完全にナイフのスピードと侵入を殺した。
♥
「……どうやら、俺はキミをみくびっていたようだ」
笑い男は目を閉じたまま声に出した。
額からの伸びだした小さな手がスーッと伸びて、額からナイフを抜き取った。
「キミのような人間が、【施設】の外で作られるなどとは予想外だった。そこに俺の油断があったようだ」
笑い男の背中から新たに、白く光る手が生え出した。
その手は額の小さな手からこぼれたナイフを受け取ると、その切っ先をハルミの顔にぴたりと向けた。
「楽に死ねると思うなよ」
そういうと同時に、笑い男の背中からさらに多くの白い手が、いっせいに伸びて広がった。二十本はあるだろうか、それぞれが鎌首をもたげた蛇のようにゆらゆらと揺れている。
「俺の顔に傷をつけやがって」
さらに白い手のそれぞれが、ナイフの刃先のように形を変えた。
『白い手』自体はどこか空気のようで、液体のようでもあったが、その刃先だけは金属のような硬さと鋭さを見せて銀色に輝いていた。
♥
「お前の顔を切り刻んでやる」
笑い男の目が再びゆっくりと開かれ、その瞳から圧倒的な殺気が溢れ出した。
二十本の白いナイフが鋭い先端をぴたりとハルミに向け、あらゆる角度からハルミを取り囲んだ。
状況は絶望的だった。
「――覚悟しろ――」
♥
ここまで、だったか……
春美はあっさりとそう思っただけだった。
だがまぁこれで負けたなら仕方ない。
やれるだけのことはやったのだ。
負けるのは好きじゃないが、これはもうそういうレベルの話ではない。
「覚悟ならとっくに……っ!」
ハルミの言葉と思考が不意に途切れた。
♥
(こんなときに、なにしてんのよ!)
急にハルミの中で【ケン】の圧力が高まった。
これまでも、ケンが表に出ようともがいているときに、この圧力を感じたことはあった。だがそれは簡単に押し戻せた。これまでずっとそうだった。
だがこの瞬間だけは、あまりにも圧力が強すぎた。
ハルミの意識はまるで逆らうことができずに、あっというまにケンに意識をのっとられてしまった。
(なにするのよ、ケン)
ハルミの精神は一瞬であらゆる感覚を寸断され、脳の奥深くに閉じ込められた。それはケンと交代するときに隠れていた自閉空間だった。
その空間は暖かく、懐かしく、とても安心できる空間だ。
だがここは今いるべき場所ではなかった。
戦いはまだ終わってない。エンディングが残っていた。
バッドエンドではあったけれど。
♥
(ハルミ……おまえにツライオモイをさせるワケにはいかない)
ハルミの中に、静かにケンの想いが染み込んできた。
(ちょっと待ってよ、ケン。そんなことしないで、あたしたちはいつも一緒でしょ)
(こんどばかりはベツだ、オレはおマエをマモルためにソンザイしてるんだ)
(かっこつけるなんてやめてよ!)
(そうじゃないよ。それがオレのヤクメなんだよ)
ハルミは自閉空間から逃れようと精神を暴れさせた。
だがその壁はあまりにも柔らかく、まるで手ごたえがなかった。
♥
(ケンはあたしの代わりに死を受け入れるつもりだ……)
ケンのことだ。なんだって分かる。分かってしまうのだ。
ハルミはもがいた。
これではケンがあまりにもかわいそうだった。
つらい思いを全部背負わせて、身代わりにさせて。
心の痛みだけでなく、体の痛みまで全て引き受けさせて。
ケンはいつだって自分を守ってくれていた。
口も態度も悪いけど、いつも見守ってくれていた。
ピンチの時にはいつだって助けに来てくれた。
ずっとそれを知っていた。
そんな大事な【ケン】を守ってやれないなんて。
♥
(あたしは、ムリョクだ……)
ハルミは自分が泣いているのに気付いた。
何もできない自分が情けなく、なによりケンの優しさが胸に染みた。
そんなハルミの思いが通じたのか、ケンの暖かな感情がハルミの全身に染み込んできた。
(ごめんな、ケッキョクおまえをマモってやれなかった)
(――やめてよ、ケン! 死なないで――)
「さァ、ケリをつけようぜ、ワライオトコ!」
ケンが雄たけびをあげる。
♥
その言葉を最後に、ハルミの意識はゆっくりと暖かな泥の中に沈んでいった。
それはケンの仕業だった。
ケンは最後にあらゆる痛みから春美を遠ざけたのだ。
それでも彼女は最後に一つだけ願った。
誰にでもなく、ただただ願った。
『誰でもいい……ケンを死なせないで……ケンを助けて!』
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