第一部【荒れ果てた庭】
【荒れ果てた庭】① 『芳春/歩道橋にて』
男は歩道橋の中央で手すりにもたれかかりながら、足元を走る車を眺めていた。
季節は秋。肌寒い空気が男の着ている薄手のコートをゆるやかに揺らせている。背後には夕日が揺らめき、通りすぎる車のフロントガラスをオレンジ色に染め上げていた。
足元の道路は幅広の四車線で、その両側には広めの歩道があり、百メートルにわたっていちょうの木が植えられている。その葉はすっかり黄色く色づき、落ちた葉が路面をまだらに染めている。
そのいちょう並木の下を若者たちが歩いていく。髪を金色に染めた若者、ポケットから長いチェーンをぶら下げている学生、踵をつぶした革靴を引きずるように歩く女子高生、ピアスをしたサラリーマンに、毛皮のコートを着た若い女、いろんな人間たちが歩いているのが見える。
どの顔も楽しそうで、平和そうで、満ち足りている。
それはごくありふれた光景だ。
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男は彼らを眺めながら泣いていた。
だが男が泣いていたのはこの瞬間だけではない。
男はいつも泣いていた。男の左眼の下には点々と、涙の形をした刺青が刻まれていた。その色はくすんだ青。
小さな三滴の涙がいつも目の下に流れていた。
(ここは荒れ果てた庭だ……)
男は町を眺めるたびにいつもそう思う。
この荒れ果てた庭にはいつも枯葉が積もり、カサカサと音を立てている。腐って土になることも出来ず、ただ干からびた姿を保ちつづける枯葉たち。その枯葉たちが風に吹かれたように、足元をひらひらと漂い、うつろに歩いてゆく。
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「やっと見つけたよ、ヨシハル」
男は自分の名を呼ばれて振り返った。芳(かぐわ)しい春で、ヨシハル。男は自分の名前が大好きだった。
この枯葉だらけの世界で、自分の名前だけは生き生きとした春を導いてくれる気がする。
この美しい名前をくれたことだけは、両親に感謝すべきだろう。
だが感謝をささげるべき相手はもうこの世にいない。
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「ハルミか、早かったな」
「ねぇ、いつまでこんな町にいんのさ、あたしここ嫌いだよ。地味で、臭くて汚くて、すっごくイライラする」
話しかけてきた女の名は『春美』。
本名は違うのだが、彼女が十七歳になったとき、芳春がその名前を彼女にプレゼントしたのだ。
それから二年間、彼女は昔の名前を捨て『春美』という名前で生きてきた。
春美は美しい少女だった。さらさらの長い髪と、くりくりとした大きなひとみ、そしてふっくらとした唇はモデルといっても充分通用する。だがその雰囲気だけは、なにか恐ろしさを感じさせた。じっと見つめすぎるひとみは、彼女の精神世界が壊れていることを如実に物語っていた。
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「この街に『ファーザー』がいるんだ」
芳春は歩道橋の手すりに肘を乗せながら答えた。眼下をカラフルなスポーツカーが走り抜けてゆく。
「いるの、この町に?」
春美はピタリと芳春に目を向けた。
「……ああ、さっき見てきた」
「じゃあ、チャッチャと片付けちゃおうよ!」
「まぁ、あせるなよ、あいつは最後のファーザーなんだ、ちゃんと作戦立てていかないと……」
芳春が言いかけた言葉を春美は遮った。
「ふざけんなっ! あたしもう気が狂いそうなんだ。こんなしけた町いやなんだよ。ホントイライラする、あーーーーもうっ!」
春美はかきむしるように髪をくしゃくしゃにした。
「イラつくなって……オマエも分かってるはず、」
「……知らないよ! そんなことどうでもいいんだよ!」
春美はいきなり芳春の尻を思い切り蹴飛ばした。まったく手加減のない一撃で、芳春は思わずよろけ、手すりにつかまって何とか体を支えた。
その様子に春美の顔ににんまりと笑顔が広がり、さらに芳春の支えにしていた手を殴りつけて払いのけると、後頭部の髪の毛をつかんで額を鉄の手すりにたたきつけた。
その間もニコニコと笑う顔は同じまま。
一連の動きは非常に訓練された滑らかさだった。
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金属と骨のぶつかる鈍い音が、鐘のように響いた。
「ってぇーなー……」
芳春の口の中からバリバリと歯軋りが聞こえ、彼は体をくるりと回転させた。そして春美と同じく、ためらいも手加減もなく、彼女の腹に膝蹴りを叩き込んだ。
「うぅぅ」
彼女はたまらずに体をくの字に曲げ、それから地面にぺたりと座り込んだ。うつむいた姿勢でお腹を抱え、痛みにじっと耐えている。
「おまえは短気すぎるぞ」
芳春はそういって、さらに彼女の肩をドカッと蹴飛ばした。
手加減のない一撃で、彼女は地面に倒れ、さらに弾みで頭を地面に打ち付けた。額の横が切れ、小さな血のしずくがしたたり落ちる。それから彼女はぐったりと地面に横たわった。
横たわって静かに涙を流した。
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「ごめんなさい、わ?」
芳春は彼女を見下ろしながらそう言った。
「……ごめんなさい……」
彼女が消えそうな声でそういうと、芳春は彼女の元にかがみこみ、さきほどまでとは別人のように彼女をやさしく抱き起こした。体を支えて立たせ、服についたイチョウの葉を払い落とした。
「俺だってこんなところにはいたくないさ、でもな、これが最後のファーザーなんだ、分かるよな?」
彼女は真剣な様子でじっと芳春を見つめている。
彼女の瞳にうつる芳春も、彼女に負けないほど美しい容姿をしていた。線は細いがすらりと背が高く、白い肌は女性のようだったが、顔立ちはりりしかった。
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「アイツが消えれば、俺はようやく自由になれる。ずっと待ってた機会なんだ、だから今回だけはじっくりとなぶり殺しにしてやりたい、分かるよな?」
彼女はしゃくりあげながらうなずいた。
「うん。分かる」
そして次々あふれてくる涙にむせながら言った。
「あたしにも、ソレ手伝わせてくれる?」
「ああ、もちろん」
「さっきの、許してくれる?」
「さっきの? ああ、あれか。もう謝ってもらったよ」
そう言って芳春は彼女のことをギュッと抱きしめた。
「大丈夫、俺はオマエを裏切らない」
それに応えるように、春美は芳春にしがみついた。
「うん。ヨシハルだけ。あたしにはヨシハルだけ」
♠
それはまるで荒れ狂う嵐の中、揺れる小船にたった二人で取り残されたような、愛と孤独を感じさせる光景だった。
その様子を見た通行人が自然と足を止めた。
それから誰ともなく次々と足をとめ、突然現れた美しい光景に目を奪われた。
彼らはそれがドラマか映画の撮影だと勘違いした。
激しく抱き合うそのシーンだけで、感動すら覚えていた。
♠
だが集まった野次馬の誰一人
この二人が本当の嵐の中にいること
しかもお互いだけしか頼ることが出来ないこと
これはそんな必死な抱擁だったこと
それを理解することはない……
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