第一部【荒れ果てた庭】

【荒れ果てた庭】① 『芳春/歩道橋にて』


 男は歩道橋の中央で手すりにもたれかかりながら、足元を走る車を眺めていた。


 季節は秋。肌寒い空気が男の着ている薄手のコートをゆるやかに揺らせている。背後には夕日が揺らめき、通りすぎる車のフロントガラスをオレンジ色に染め上げていた。

 足元の道路は幅広の四車線で、その両側には広めの歩道があり、百メートルにわたっていちょうの木が植えられている。その葉はすっかり黄色く色づき、落ちた葉が路面をまだらに染めている。


 そのいちょう並木の下を若者たちが歩いていく。髪を金色に染めた若者、ポケットから長いチェーンをぶら下げている学生、踵をつぶした革靴を引きずるように歩く女子高生、ピアスをしたサラリーマンに、毛皮のコートを着た若い女、いろんな人間たちが歩いているのが見える。

 どの顔も楽しそうで、平和そうで、満ち足りている。

 それはごくありふれた光景だ。


   ♠


 男は彼らを眺めながら泣いていた。

 だが男が泣いていたのはこの瞬間だけではない。

 男はいつも泣いていた。男の左眼の下には点々と、涙の形をした刺青が刻まれていた。その色はくすんだ青。

 小さな三滴の涙がいつも目の下に流れていた。


(ここは荒れ果てた庭だ……)


 男は町を眺めるたびにいつもそう思う。

 この荒れ果てた庭にはいつも枯葉が積もり、カサカサと音を立てている。腐って土になることも出来ず、ただ干からびた姿を保ちつづける枯葉たち。その枯葉たちが風に吹かれたように、足元をひらひらと漂い、うつろに歩いてゆく。


   ♠


「やっと見つけたよ、ヨシハル」


 男は自分の名を呼ばれて振り返った。芳(かぐわ)しい春で、ヨシハル。男は自分の名前が大好きだった。

 この枯葉だらけの世界で、自分の名前だけは生き生きとした春を導いてくれる気がする。

 この美しい名前をくれたことだけは、両親に感謝すべきだろう。

 だが感謝をささげるべき相手はもうこの世にいない。


   ♠


「ハルミか、早かったな」

「ねぇ、いつまでこんな町にいんのさ、あたしここ嫌いだよ。地味で、臭くて汚くて、すっごくイライラする」


 話しかけてきた女の名は『春美』。

 本名は違うのだが、彼女が十七歳になったとき、

 それから二年間、彼女は昔の名前を捨て『春美』という名前で生きてきた。


 春美は美しい少女だった。さらさらの長い髪と、くりくりとした大きなひとみ、そしてふっくらとした唇はモデルといっても充分通用する。だがその雰囲気だけは、なにか恐ろしさを感じさせた。じっと見つめすぎるひとみは、彼女の精神世界が壊れていることを如実に物語っていた。


   ♠


「この街に『ファーザー』がいるんだ」

 芳春は歩道橋の手すりに肘を乗せながら答えた。眼下をカラフルなスポーツカーが走り抜けてゆく。


「いるの、この町に?」

 春美はピタリと芳春に目を向けた。


「……ああ、さっき見てきた」

「じゃあ、チャッチャと片付けちゃおうよ!」

「まぁ、あせるなよ、あいつは最後のファーザーなんだ、ちゃんと作戦立てていかないと……」


 芳春が言いかけた言葉を春美は遮った。


「ふざけんなっ! あたしもう気が狂いそうなんだ。こんなしけた町いやなんだよ。ホントイライラする、あーーーーもうっ!」

 春美はかきむしるように髪をくしゃくしゃにした。


「イラつくなって……オマエも分かってるはず、」

「……知らないよ! そんなことどうでもいいんだよ!」


 春美はいきなり芳春の尻を思い切り蹴飛ばした。まったく手加減のない一撃で、芳春は思わずよろけ、手すりにつかまって何とか体を支えた。

 その様子に春美の顔ににんまりと笑顔が広がり、さらに芳春の支えにしていた手を殴りつけて払いのけると、後頭部の髪の毛をつかんで額を鉄の手すりにたたきつけた。


 その間もニコニコと笑う顔は同じまま。

 一連の動きは非常に訓練された滑らかさだった。


   ♠


 金属と骨のぶつかる鈍い音が、鐘のように響いた。


「ってぇーなー……」

 芳春の口の中からバリバリと歯軋りが聞こえ、彼は体をくるりと回転させた。そして春美と同じく、ためらいも手加減もなく、彼女の腹に膝蹴りを叩き込んだ。


「うぅぅ」

 彼女はたまらずに体をくの字に曲げ、それから地面にぺたりと座り込んだ。うつむいた姿勢でお腹を抱え、痛みにじっと耐えている。


「おまえは短気すぎるぞ」

 芳春はそういって、さらに彼女の肩をドカッと蹴飛ばした。


 手加減のない一撃で、彼女は地面に倒れ、さらに弾みで頭を地面に打ち付けた。額の横が切れ、小さな血のしずくがしたたり落ちる。それから彼女はぐったりと地面に横たわった。

 横たわって静かに涙を流した。


   ♠


「ごめんなさい、わ?」

 芳春は彼女を見下ろしながらそう言った。


「……ごめんなさい……」

 彼女が消えそうな声でそういうと、芳春は彼女の元にかがみこみ、さきほどまでとは別人のように彼女をやさしく抱き起こした。体を支えて立たせ、服についたイチョウの葉を払い落とした。


「俺だってこんなところにはいたくないさ、でもな、これが最後のファーザーなんだ、分かるよな?」


 彼女は真剣な様子でじっと芳春を見つめている。


 彼女の瞳にうつる芳春も、彼女に負けないほど美しい容姿をしていた。線は細いがすらりと背が高く、白い肌は女性のようだったが、顔立ちはりりしかった。


   ♠


「アイツが消えれば、俺はようやく自由になれる。ずっと待ってた機会なんだ、だから今回だけはじっくりとなぶり殺しにしてやりたい、分かるよな?」


 彼女はしゃくりあげながらうなずいた。


「うん。分かる」

 そして次々あふれてくる涙にむせながら言った。

「あたしにも、ソレ手伝わせてくれる?」

「ああ、もちろん」


「さっきの、許してくれる?」

「さっきの? ああ、あれか。もう謝ってもらったよ」


 そう言って芳春は彼女のことをギュッと抱きしめた。

「大丈夫、俺はオマエを裏切らない」


 それに応えるように、春美は芳春にしがみついた。

「うん。ヨシハルだけ。あたしにはヨシハルだけ」


   ♠


 それはまるで荒れ狂う嵐の中、揺れる小船にたった二人で取り残されたような、愛と孤独を感じさせる光景だった。


 その様子を見た通行人が自然と足を止めた。

 それから誰ともなく次々と足をとめ、突然現れた美しい光景に目を奪われた。

 彼らはそれがドラマか映画の撮影だと勘違いした。

 激しく抱き合うそのシーンだけで、感動すら覚えていた。


   ♠


 だが集まった野次馬の誰一人

 この二人が本当の嵐の中にいること

 しかもお互いだけしか頼ることが出来ないこと

 これはそんな必死な抱擁だったこと

 

 それを理解することはない……

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