【種の発芽条件】⑬ 『京一/迷いと覚悟』

 たしかな手応えがあった。

 笑い男はうつ伏せに倒れたまま、ピクリとも動かない。


 彼の背中から生え出した白い手が、枝が枯れていくように一本また一本と、ぐったりと倒れていく。

 やった……そう感じたのは、しかし一瞬だけだった。


 トロリと口から血を流した笑い男の姿に、強烈な罪悪感と恐怖がこみあげた。


? ?)


   ♣


(京一、何をしておる! 奴はまだ死んでおらん! 早くとどめを刺せ!)

 脳内にサキの声が響いた。

 

(京一! これは好機じゃ! ワシの予測外の好機じゃ! 今なら死の運命を変えられるかもしれん!)

 いつも落ち着いているサキらしくない、切迫した声だった。


(ムリだよ……これ以上はできない。生きてるんなら、なおさらだ)

 京一の頭は罪の意識にしびれ、まともにモノが考えられなくなっていた。


(ダメじゃ! 急ぐんじゃ! 奴はそんなに甘くないぞ!)

(でも……動かないんだぜ? ダメージだって相当なはずだよ、殺すまでしなくたって、勝負はついたんだし……)

(そんなことを考えてる場合じゃないんじゃ! 今、とどめを刺さないとお前が殺されてしまうんじゃ!)


 そして京一はサキの背後に、カゼ、ドン、ドクの圧力をヒシヒシと感じた。みんなが感じている不安と恐怖、そして妙な焦り。

 みんなの『期待』のような感情が思考になって流れてくる。


 ドンの拳でとどめを刺せば、もう笑い男が立ち上がることはない。そうすれば京一は死なず、自分たちもまた死なない、京一を守るにはこれしか方法がない。みんなが同じことを考え、京一が行動を起こすのを期待していた。


(それでも……殺すなんてことできない)

 京一の中でそれだけは揺るがなかった。

 無抵抗となった相手にとどめを刺す、それだけは超えられない一線だった。


   ♣


 と、笑い男の体がびくりと震えた。

 それから両手を地面について、上体を起こした。真っ黒なレザーのつなぎがキシキシと音を立てているのが、やけにはっきりと聞こえる。背中を京一に向けているが、京一は思わず一歩引き下がった。


「一瞬とはいえ……気絶していたようだな」

 笑い男は膝を引き寄せ、ゆっくりと立ち上がった。それから二度、三度首を傾け、肩の関節を回した。


「トドメを刺せなかった、お前のことだ、そうなんだろう?」

 そう言って、京一にゆっくりと向き直った。背中を丸め、両腕をだらりと下げた姿勢だ。そのマスクとツナギには血がべったりとついていた。


「まったく、お前は変わらないな。ガキの時のままだよ」

「よかったよ。おまえ、生きてたんだな!」

 

 マスクの奥からバリバリと歯ぎしりの音が聞こえてきた。

 笑い男の両目が憤怒に燃えていた。


   ♣


「どこまでも、俺をコケにしやがって。おまえだけは許せない。いつもいつも俺を見下しやがって」

「誤解だよ、俺は見下したりなんかしてない!」


「だったら黙って殺されればよかったんだよ。なんで俺と闘ってるんだ? ? それが思い上がってる、と言うんだ」

「おまえ、やっぱりオカシイよ、そんな理屈」


「オカシイ? 


 それから笑い男は意外な行動をとった。

 右手をマスクの顎につけ、皮膚とマスクの間に指を滑らせていった。

 そしてゆっくりとした動作でマスクを剥がしにかかった。



   ♣


 マスクの隙間から、ちらりと顎の先がのぞいた。がっしりとしていたが、肌は奇妙なほど青白い。続いて現れた唇は口紅を塗ったような鮮やかなピンク色だった。


 さらにマスクがめくられてゆく。


 筋のとおった、がっしりとした鼻が現れ、さらに狂気に澄んだ真っ青な瞳が現れた。さらにマスクは持ち上げられる。額が現れ、その上にファサリとウェーブのかかった金髪が揺れた。


 そして京一は息を飲んだ。

 笑い男の異様な顔から目が離せなかった。


 笑い男の顔は美しかっただろう、それは理解できた。

 、だ。


 笑い男の顔には無数の切り傷があった。

 半端な量ではない。まるでマスクメロンの網の目のように、その顔全部をすきまなく覆うように、真っ赤な切り傷が刻み付けられていた。


   ♣


(あれは誰かが故意にやったものだ……)


 それがはっきりとわかった。それをやった人間の狂気というものを考えただけで背筋が凍る思いだった。

 これほどの悪意を人間の体に残すということに、純粋な恐怖を感じた。それを抱えて生きてきた笑い男という存在に、深い哀れみを感じた。



 笑い男がそう言った。

 その事実がもつ衝撃が頭に染み込むまでには時間がかかった。

 両親が虐待していた? そういうことなのか? でもどうして? なんのために? 自分の子供を痛めつける事に、なんの理由があるというのだ?


「幼かった俺は、世界はそういうものだ、と思っていた。これは当たりまえのことなんだろうと。子供というのは親に痛みを与えられる存在なんだと。ただただそう思っていたよ。だがそうじゃなかった。神が俺に教えてくれた。お前は生き延びろと、親を殺して生き延びろと。そして神は俺に能力をくれた。神自身の手を分けてくれたんだ」


   ♣


 笑い男の顔じゅうの傷口から、小さな血の滴がふつふつと浮かび上がってきた。笑い男は袖でゆっくりと血をぬぐった。


「俺は両親を殺した。だが今度はサイコガーデンに連れて行かれてた。やつらは俺の能力に目をつけていたんだ。そして俺は元の痛みの世界に戻されてしまった。だがそこで俺は思い当たった。これもまた試練なのではないかと。神は俺に何かをさせようとしている。これはそのための試練なのだと。だから俺は神のよりよい道具になることを決めた。最強の道具になることにしたのさ。それがこれだ」


 笑い男はぐったりとしていた全ての手を再び持ち上げた。

 それは鎌首をもたげる白い大蛇のように、光輪をかたどるように広がった。


「俺はあの施設で死にかけるたびに腕を増やした。今は全部で百二十八本ある。


 京一は何かを言おうとして、その言葉を持たないことを知った。

 かけるべき言葉が何も見つからなかった。

 この男に届く言葉など何一つ持っていなかった。


   ♣


「俺は試練を生き延びた。もはや俺を傷つけることは、誰にもできなくなっていた。だから俺はサイコガーデンを破壊し、そして逃げ出したのさ」


 笑い男は目を細めて笑った。

 同時に一本の腕が、槍のように京一に伸びた。


(危ない! キョウイチ様!)

 京一の全身から瞬間的に風が発生し、ギリギリのところでその一撃をかわした。


 攻撃はその一度だけ。だがスピードも破壊力も増していたのが分かった。


「今のが新しく生まれたもう一本さ。スピードも攻撃力も増していただろ? 俺はそうやって力を得てきたのさ。つまり、お前にはもう絶対負けない」


 今度は左右から同時に攻撃が繰り出された。

 京一はサキの能力でその隙間を感知し、最小限の動きでかわしてみせた……はずだった。だが計ったように右と左の頬に一筋の血の線が引かれた。


   ♣


「お前は俺を殺すチャンスを逃がした。お前にとって一生に一度のチャンスだった。お前は後々まで、このときのことを後悔することになるだろう……」


 京一は今になって笑い男の言葉に恐怖を感じた。

 自分がどういう存在を相手にしていたのかを、まるで理解していなかったことに気付いた。同時にサキたちが、あれほど必死になっていた理由を理解した。


(今さらだな……ごめんよ、みんな)

(まぁ仕方ないさ。それに、考えてみれば実にオマエさんらしいよ)


「もう、次はないぞ……」


 笑い男はズラリと神の手を持ち上げた。

 その白い手は笑い男の背後からさらに伸びていき、床に這い、天井に伸び、蜘蛛の巣のように空間を埋め尽くしてゆく。

 さらにその白い手は形状を変化させ、先端が【槍】のようにとがった。

 今やその切っ先は、あらゆる角度から京一を狙っていた。


   ♣


(このままじゃ、囲まれるぞい!)

 サキが慌てて叫ぶ。


(ここは、先制攻撃しかありません!)

 カゼの声が頭に響く。

(とにかくアイツを止めましょう!)


 同時に小型のハリケーンのような風が、京一の全身を包み込んだ。


 考えているヒマなどない。それが分かった。

 考えるほど、時間をかけるほど、状況は悪化してゆくだけだ。


 京一は笑い男に向けて駆けだした。


 その瞬間に頭上から一本の槍が落ちてきた。ギリギリのところでそれをかわす。かわしながらさらにスピードを上げると、さらに槍がいくつも落ちてきた。


 京一は走れる限り素早く、巧みに攻撃をよけながら、笑い男に近づいてゆく。それを迎え撃つように、鋭く伸びた槍が床、天井、そしてあらゆる角度から次々に襲いかかる。

 それはまさに弾幕の中に飛び込むようなものだった。


(まだ囲まれていません! 間に合います!)

 カゼの声が響き、急に周囲の動きが緩慢になった。現在空間を支配しているおびただしい槍の軌道、その現在の動きと未来の動きが感じられる。カゼの持つ感覚が発動していた。


 カゼの言う通り、まだ囲まれているわけではない、それが分かる。

 僅かなタイミングのずれが死角となり、攻撃をかわすたびに笑い男へのルートが開かれるのが分かる。


 だがそれは直線ではない。右に左に進路を変え、正面から背後に回り、また側面に移動しながら、攻撃の隙を縫って少しずつ、しかし目にもとまらぬ高速で距離を詰めてゆく。


   ♣


(もう少し、もう少しです!)

 粘りつく時間の中を、重くなった足を懸命に動かし、八方から襲い来る槍をすんでのところでかわし続け、京一は笑い男に迫った。


 そして……

 あと一歩の距離に近づいたとき、

 とうとう槍の一本が、目の前に出現した。


 その攻撃を抜ければ、無防備の笑い男の正面に立てる。

 京一はその槍を目の前に咆哮した。

「ラスト一本だ!」


 それに答えるように笑い男も咆哮した。

「このまま串刺しにしてやる!」


(キョウイチ様、最後の一本はかわせません!)

(だったら、こうするまでだ。頼むぞ! 


   ♣


 京一は目の前に迫った槍をむんずとつかんだ。その腕は実体がないように見えたが、確かに掴んだ手ごたえがあった。


(うん。まかせろ!)

 そのまま力を込めていくと、ドンの力が青白い炎となって流れ込んできた。


(よし、このまま行くぞ!)

(おおぉぉぉ!)


 京一はその怪力で、槍を握り締め、その進路を逸らすと同時に、腕を後ろに力いっぱい振りぬいた。

 

 ブチリ、と鈍い音がした。

 


 とたんに笑い男の絶叫が部屋を満たした。


…………!」

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