【刈入れの季節】⑧ 『芳春/バイの蛹化』
芳春は目覚めていた。
気絶していたのはおそらく五分というところだろう。
今はファーザーから離れ、新しく現れた『ハリガネ男』に連れ去られているところだ。もっとも芳春に連れ去られているという自覚はない。
むしろうまくファーザーから逃れられたと思っていた。ファーザーを相手にするよりは、この男のほうがよっぽどやりやすい。
♠
(まずはこいつ『キル』からだな……)
芳春は気絶したフリを続け、目を閉じたまま、アキノリ/キルの気配を探った。
視覚以外の神経を総動員して現在の状況を探る。
キルが座るのは自分の隣、後部座席の右側だ。足を大きく広げ、窓にひじをつき、窓の外に顔を向けている。眠っているわけではないようだが、ずいぶんと呑気に構えているようだ。恐らく、芳春が依然として気絶したままだ、と思っているせいだろう。
運転席にはやたらとガッシリとした体格の男が一人。その男は腕をわずかに動かしているだけで、さっきから一言も口をきかない。
助手席には誰も乗っていないようだ。
二人ぐらいなら『バイ』の力で何とかなりそうだった。
♠
(――バイ――)
芳春は心の中でバイを呼んでみた。
しかし返事はなかった。
となると、やはり呼び出さねばならないだろう。しかしこの状況で携帯電話を操作し『神々の黄昏』のメロディーを流すというのは、さすがにいい考えではなさそうだった。
(……仕方ないな、試してみるか……)
芳春は深く神経を集中させた。
ゆっくりと頭の中でワグナーの曲を思い出し、その細部までも再生してみる。心を落ち着け、曲の細部を思い出し、ゆっくりとそのメロディーを頭に刻んでゆく。その旋律がゆっくりと心に染み込んでくる……
♠
芳春にとって、自分の意志の力だけで【サイコガーデン】に潜入するのは、さらに『バイ』の元を訪れるという事は初めてのことだった。
もちろんうまくいく保証はない。だがコレをうまく使いこなせるようになれば、もっと戦いが有利に進められるはずだった。
♠
やがて車の震動が遠くに消えていき、まわりの雑音が消えていった。
瞼の裏の暗闇はさらに暗くなり、そのなかでワグナーの曲だけが高らかに鳴り響いていた。そのメロディーは容赦なく過去の痛みを照らし出し……
――ドクン――
急に心臓が高鳴った。
真っ白い点が暗闇の中にポツンと現れ、それからみるみる膨らんで爆発するように輝いた。まるで視神経の全てをフラッシュで焼かれたような感じだった。
が、その白い光は徐々に輝きを失っていき……
次の瞬間、芳春はサイコガーデンの庭に立っていた。
♠
「うまくいった……ようだな」
荒れ果てた庭、蔦のはびこる大理石の噴水、目の前にはペンキが剥がれ、窓が割れた白い洋館の残骸。あまりにもなじみ深いこの場所。
ここはまぎれもなく【サイコガーデン】だった。
芳春は少し首を振ってさっきまでの現実を振り落とすと、正面にそびえる廃墟に向かって歩き出した。
傾いた扉をこじ開けてホールに入り、右手にあるドアから、地下への階段を降りていく。ひんやりとした墓場のような空気を嗅ぎながら、真っ黒な通路を奥へ向かって歩いていく。
もはや慣れた道だが、いつまでも慣れない道でもある。
今でも言い知れぬ恐怖と不安が心の奥に湧き上がり、吐きそうになる。
♠
揺れる裸電球の光に照らされて地下通路を歩いていくと、やがて巨大な鉄の扉の前にたどり着き、芳春はいつものようにポケットから鍵を取り出した。
(ん? そういえば……バイの声が聞こえないな……)
それにいつもよりもずいぶんと静かな感じがした。
いつも扉の向うから漂ってきていた、圧倒的といえる殺気が感じられない。
こんなことは初めてだった。
扉の下の隙間からは不気味な沈黙だけが、冷気のようにそっと流れ出している。
♠
「バイ、そこにいるんだろ?」
呼びかけながら、芳春は扉に鍵を差し込んだ。
と、そこでふと思い出すことがあった。あのハリガネ男のことだ。
本当は【アキノリ】という名前らしいが、二人目の人格【キル】に精神を乗っ取られたという。
ひょっとしたら、バイもまたキルと同じことを考えているかもしれない。扉の向こうに身を潜め、自分が入ると同時に殺すつもりだとしたら……
(まぁ、バイならやりかねないか)
だがそうだったとしても、このドアを開けないわけにはいかない。
「――どうせ戦いは避けられないからな」
♠
芳春は慎重に扉を開けた。
いつもならバイがその巨大な体を折り曲げ、獣の足で近づいてくる。
だがしばらく待ってみても、バイが現れる様子はなかった。
扉の向こうはさらに暗く、目が暗闇に慣れるまで入り口でじっと待った。
それでもバイが襲ってくる気配はなかった。
隠れている感じもしないし、殺気があるわけでもない。
だがいないわけではないようだった。
たしかにバイが存在するという気配だけは感じる。
こんなことは、これまで一度もなかった。
(これは……どういうことだ?)
♠
芳春は一歩踏み出した。
靴の底にぐにゃりとした感覚があった。
なにかベトベトとした、ゼリー状のものが床一面に広がっていた。
芳春はさらに一歩奥へと入った。
考えてみればこの部屋の奥に入るのは初めてのことだ。
内部は天井が高く、三階建てくらいの高さはありそうだ。
牢獄と言うよりは廃墟となった教会を思わせた。
さらに一歩足を踏み出す。
そして見た。
♠
「なんだ……これは?」
芳春は思わず足を止め、目の前に浮かんでいるそれを見上げた。
それは無数の細い糸で編まれた巨大な【繭】のようなものだった。
浮かんでいるように見えたが、実際は繭から伸びた糸が床や天井、壁にびっしりと張りついて、中央の巨大な卵のようなものを空中に固定している。
その物体も固定する糸も真っ黒だったが、たしかにそれは繭のようだった。
(この中に……バイがいるのか?)
繭の中央では真っ赤な光が、ドクンドクンと鼓動するようにぼんやりと明滅を繰り返している。
芳春は繭にそっと触れてみた。それは暖かかった。
そして繭を作り出す糸の一本一本が、血管のように緩やかに鼓動していた。
芳春はその粘りつく糸をそっとかき分け、繭の中をのぞいてみた。
そこに【バイ】が浮んでいた。
だがずいぶんと感じが違う。
足を抱え込むように体を丸め、その全体をコウモリの翼ですっぽりと覆っている。体の各部分、手や足があちこちで溶け合うようにくっつき、一つの大きな『さなぎ』のようになっていた。
♠
「バイ……何をしているんだ?」
芳春はそっと呼んでみた。
と、いきなりギロリとバイが目を開き、真っ赤な双眸で芳春を見つめた。
そして芳春の姿を認めると、裂けた口に牙を剥きだしてニヤリと笑った。
「芳春。来たか……悪いが、今は力を貸せない……」
「おまえ、何をしているんだ?」
「俺はもっと強くなる……生まれ変わるんだ……」
「どうしてだ? なんでそんなこと?」
「もう負けるのはうんざりだからさ。お前は違うのか?」
「それはそうだが……」
「俺はもう頭にきた。今後、一切手加減はしない。お前は悔しくないのか? 役立たずみたいに、あんな風に小突き回されて」
♠
その言葉に芳春の美しい顔が醜く歪んだ。
理由のない怒りが、急に溢れてきた。
たしかにここのところ、芳春は負けてばかりいた。
ファーザーになめられ、ハリガネ男にまでなめられている。
それも全て自分の力のなさのせいだった。
そして今はもう一人の自分【バイ】にまで馬鹿にされているのだ。
♠
いつからだ?
いつからこんなことになってる?
いつから死を恐れるようになった?
いつからバイを恐れるようになった?
ファーザーだ、あいつと話してからだ。
殺すか、殺されるか。
二つだった選択肢に余計なものが追加されたのはいつからだ?
♠
「バイ、だったらさっさと強くなれよ」
「ああ、覚悟しておけ、芳春。ゴタゴタが片付いたら、お前の人格も奪ってやる」
「そうかい。なら、俺はおまえの人格も能力もそっくり手に入れてやるよ」
芳春はバイにくるりと背を向けた。
芳春は部屋を出ると、扉に鍵をかけた。
その全身から再び憎悪があふれ出した。
しばらく忘れていた純粋な憎悪。
――そもそも最初から、選択肢なんてなかったじゃないか――
それに気づくと芳春の心は奇妙に澄み渡った。
負ければ死ぬだけ、殺されるだけ。
たったそれだけの話だ。
「ファーザー、もう遊びは終わりだ……お前だけは許さない」
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