【刈入れの季節】② 『芳春/現在の状況』
芳春はマツダのスポーツカーに乗り、高速道路を走っていた。大ぶりのサングラスをかけ、革の手袋を嵌めた手をゆるくハンドルにかけている。
向かう先はK県。天気は快晴で道は空いており、スポーツカーは時速百七十キロで他の車を次々と追い抜いていった。
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「すこし飛ばしすぎじゃないかね?」
そう言ったのは助手席に座るファーザーだった。背もたれをいっぱいに倒し、頭の後ろで手を組んでいる。さらに足も組んですっかりリラックスした様子だ。
「大丈夫だよ、後ろもちゃんと見ている」
芳春はぶっきらぼうに答えた。
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あの戦いから三ヶ月が経過していた。
だが芳春はいまだにファーザーといっしょにいた。
あの日のことは今でもよく覚えている。あの日、芳春はファーザーの言葉を聞いて、一瞬にして気絶してしまったのだ。
後で聞かされたのだが、自分には昔から暗示がかけられていたのだという。ある言葉を聞くと瞬間的に気を失うらしい。それは芳春の心に仕掛けられた爆弾のようなものだった。
だが囚われつづけているのはそれだけが理由ではなかった……
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「そうじゃない、こんなスピードで事故にあったら二人とも即死だといってるんだよ」
「怖いのか? あんたが?」
「ああ、死にたくはないね。もう少しスピードを落とすんだ、芳春」
それは命令だった。芳春はしぶしぶアクセルから足を離した。そして充分にスピードが落ちたところで、低速車線に乗り換えた。
「これでいいか?」
「それでいい」
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芳春は奥歯を食いしばった。
一瞬だが、もう一度スピードを上げてガードレールにぶつかってやろうかと考えたのだ。だがやめた。まだチャンスはあるはずだ。今はおとなしく言うことを聞いて、そのチャンスを待つしかない。
芳春はのんびりと車を走らせた。
K県まではあと二百キロ、このペースならあと二時間はかかるだろう。そのあいだこの狭い車内にファーザーと二人きりでいるというのは、なんとも気の進まない話だが、芳春に選択肢はなかった。
芳春はファーザーをちらりと見た。ファーザーもサングラスをかけているのではっきりとは分からないが、眠っているようだった。
「――みょうなことは考えるなよ」
ファーザーがぼそりと言った。
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「分かってるよ」
芳春は今や完全にファーザーに捕らえられていた。
そのことは芳春自身が一番良く分かっていた。
あの戦いが終わった直後、ファーザーは気絶した芳春を自分の隠れ家にひそかに連れ去った。その隠れ家で、ファーザーは芳春が意識を取り戻す前に、さらにある催眠術をかけたのだ。
その時の様子は一部始終ビデオで撮影されており、芳春もそれを見せられた。
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それはろうそくが一つだけ灯る、真っ暗な部屋だった。
大きなイスに目隠しをされ、手足を縛られた芳春自身が座っていた。画面の中の芳春に意識はない。しばらくして画面にファーザーの背中があわられ、芳春の前にしゃがみこむと、柔らかな口調で催眠術をかけだした。
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「芳春、キミはわたしの息子だ、分かるね?」
「……はい……」
「キミは父親のことをとても愛している、そうだね?」
「……はい……」
「もし、わたしが死んだらキミはとても悲しい、そうだね?」
「……はい……」
「たぶん、悲しみのあまり死んでしまうだろう、そうだね?」
「……はい……」
「はっきり口にしてくれ、父さんはキミを愛しているんだ、キミも父さんを同じくらい愛している」
「……はい、愛しています……」
「父さんが悲しむ姿はたえられないだろう?」
「……はい、耐えられません……」
「父さんが死んだらキミも死んでしまう」
「……はい、死んでしまいます……」
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この催眠術は恐ろしい効果をもたらした。
その後、一度だけファーザーの殺害を試みたのだ。
だがファーザーが苦しむ顔を見たとたんに、自分の胸になんともいえない痛みが走り、吐き気がこみ上げ、立っていられなくなって倒れてしまった。
それで今度は脱走を試みた。だがファーザーが自分を呼ぶ声を聞いたとたん、今度は悲しみで体が動かなくなってしまった。
気がつくと、涙を流しながらファーザーの足元に膝まずいていた。
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「――芳春、おまえはもう、わたしから逃げられないんだ――」
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あの時も、そして今この車の中でも、ファーザーは同じ言葉を口にした。
芳春の心はズタズタに切り裂かれ、いいようにいじられて、ぼろぼろになっていたのだ。だから今はファーザーのそばにいるしかなかった。まだあきらめたわけではない。必ずチャンスがくる。
その時を虎視眈々と待ち構えてるほかないのだった。
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K県までは、まだ百五十キロ以上はある。この辺りでそろそろ休憩したほうがよさそうだった。足もだいぶこわばってきた。サービスエリアがあと五キロほど先にあるはずだったから、そこでしばらく体を休めよう。
芳春はちらりとバックミラーに目をやった。少し後ろに黒塗りのベンツが走っているのが見えた。だいぶ巧妙に隠れているが、ここ二時間ばかりずっと跡をつけているのに気付いていた。
ファーザーはそのことにまだ気づいていない。相手が誰かは分からないが、トラブルなら大歓迎だ。逃げるチャンスも生まれるだろう。
芳春はウィンカーを灯すと、サービスエリアに入る車線に車を移動させた。
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