ユリウスepisode 2

 一瞬。

 体は闇に浮き、それから急降下を始める。体は落ちていくのに、内臓は逆に浮き上がるようで、妙な感覚に目を硬く瞑った。


 数秒後。

 水に着水する、というより、何か板のようなものにぶつかったような衝撃を感じ、すぐに全身が水に飲まれた。

 息ができない、ということよりも、目を開けても暗闇に目が見えない、ということで恐慌をきたしそうだ。強烈な右からの流れに体をもまれながら、必死に手を掻いて体を上げようとするけれど、足首を掴まれたような重みで、浮上できない。

 ごぼり、と小さく息を吐き、水の中で目を凝らす。

 すぐに、長靴のせいだと気づいた。水を含み、桶のように足にぶらさがるせいで、底へ底へと引っ張られる。

 俺は脚同士をすり合わせるようにして長靴を脱ぐと、両手を掻いて必死に体を上昇させる。

 体は急流のせいで斜めに流れながらも、なんとか顔が川面から出た。

 肺が空気を求めるように、一気に気道に空気を送り、ひゅうう、と無様な音が鳴る。

 すぐに空気だけではなく、飛沫まで入ってむせ返る。流れに飲まれながらも、立ち泳ぎの要領でなんとか岸を目指すが、果てしなく遠い。水を吸った服が重い。おまけに、寒い。

 時折、川の岩にぶつかり、口からうめき声が漏れた。


 一瞬。

 ほんの一瞬。

 もう、駄目かもしれないと思った。


 必死に川の中で暴れ、もがきながら、それでも沈んでいく自分の体に抗ってなお。

 このまま、死ぬのかもしれないと思った。

 がぼり、と川の水を飲み、頭が水の中に沈む。

 ふと。

 鼓膜に蘇ったのは、さっきのウィリアムの言葉だった。


『アレクシア殿を抱くんじゃなかったんですか!?』

 そういえば、あの夜這いをかけてきた、領主の娘。

 綺麗か不細工かといえば、綺麗な部類だった。

 王都で宣言をして以降、ずっとむっさい男やじじぃにばっかりに囲まれて、欲求不満とえいば、欲求不満だった。アレクシアのことは別にして、領主の娘がいいんなら、手を出しても問題ないんじゃないかと思ったのは確かだ。

 それなのに。

 実際に腕に抱いてみたら、アレクシアと違う部分ばかりが目に入って、気付けば萎えている自分がいた。


「……くっそ」

 俺はなんとか顔を水から出した。呟くと、自然に口の中の水が吐き出され、肺に空気が満たされる。


「だいたい、あいつ、なんだよっ」

 無性に、腹が立ってきた。好きだのなんだの言ってるのは、良く考えたら自分ばかりじゃないか。良く考えたら、あいつ、俺のことをどう思ってるのか、口に出して言ったことはあったか?


「許せん……っ」

 呟くと、肩に力が戻って来る。気付けば、必死で岸に向かって泳いでいた。


◇◇◇◇◇◇◇


「殿下!」

 合流地点の花崗岩の側で震えていたら、ウィリアムの声が聞こえてきた。

 俺は顔を上げる。顔を上げたと言うより、震えた拍子に顎が上がった、という感じだ。

 朝陽が差し込み始めた森の中から、ウィリアムが足を引きずりながら駆け出してくる。

 夜が明けたと言うのに、顔も洗っていないらしい。髭面の顔は、血糊で汚れ、さらにそこに土埃がついて、折角の男前が台無しだ。おまけに、片足には添え木がされていて、折れるか切れるかしたようだ。右肩は剣で斬られたのか、紺色の軍服の上から裂いただけの布をぐるぐる巻きにしている。


「ご無事で何より」

 ウィリアムは俺の側に跪き、森のほうに向かって声を張った。「殿下はここだ!」。すぐにエドワードの供回りの騎士たちが飛び出してきた。

「殿下にタオルを! 誰か焚火!」

 がたがたと膝を抱えて震えている俺に、ウィリアムが大判のタオルを肩口に掛けてくれる。ただ、一枚の布がこんなに温かいとは思わなかった。


「……ウィリアム」

 わしわしと俺の頭を拭き上げるウィリアムに、俺は声をかける。


「どうしました? 温かいお茶を今、用意しますよ」

 騎士たちが次々にウィリアムにタオルを渡し、それを贅沢に使いながらウィリアムは首を傾げた。あれだけの騎士を相手にしながら、この程度の傷で済むんだから大したものだ。心配して損した。こいつ、本当に殺しても死なないのかもしれない。舌打ちし、俺はウィリアムに言う。


「俺は、ただちにヘンリー王を討ち、国内を平定する」

「それは……」

 タオルを動かす手を止め、ウィリアムは目を瞬かせた。


「立派なお考えですね」

「それでもって、アレクシアを早急に呼び寄せて、俺のものにする」


「……突然どうしたんです」

「あの、夜這い女。それなりに可愛かったよな」


「ええ、まぁ」

「それなのに、俺、手が出なかったんだよ」


「……ですねぇ」

「アレクシアのせいだ」


「……はぁ」

「あいつが俺をこんな体にしやがって」


「ですかねぇ」

「責任をとってもらう」

 俺が力強くそう言うと、ウィリアムは噴出した。


「そんなことを川の中で考えてたんですか?」

 俺は黙る。強いて言うなら、そんなことしか考えてなかった。


「アレクシア殿は大変だ」

 そう言って、わしわしと俺の頭を再び拭き始めたウィリアムに、俺は怒鳴りつけた。


「俺のほうが大変だろ!? 大体、あいつ、頭も顔もいいのに、気が利かねぇ!」

「そうですか?」


「普通、死ぬかもしれないって分かってたら、ちょっとは色っぽいことにならないか!?」

「人によるんじゃないですかねぇ」


「あいつは鈍いんだよっ」

「いや、結構鋭いし、気を利かせてると思いますよ」


「そんなことないっ! もう、最短距離で国内を平定するっ」

 俺の決意表明に、ウィリアムは愉快そうに笑った。


「国家の一大事が、こんな風に決まるとは」


「うるせぇ! 全部、アレクシアのせいだ!」

 今頃、アレクシア殿はくしゃみをしているでしょうね。ウィリアムはそう言って笑った。


 この数ヶ月後。

 エドワードとユリウスの軍は、ヘンリー王の軍を撃破。

 国政を握ることとなる。

 最速の布陣も、後世に『烈火のような戦術』と呼ばれる軍隊の行動様式も。

 その背後にあるのは、ただひとえに、ユリウスの個人的な感情のせいだということを、ウィリアムだけが知っている。

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