タウンゼント子爵
タウンゼント子爵episode 1
「ユリウス王が退位なさるらしい」
結婚式の招待リストをチェックをしていた私は、手を止めて父を見た。
「まだ即位して2年ほどではありませんか?」
私は驚いて尋ねる。父も樫製のソファに上半身を預けたまま、むぅ、と口をへの字に歪ませた。
「今後、エドワード殿下が、王として統治なさるのだそうだ。ユリウス王自体は、妹君が治めておられたルクトニア領領主に封じられるらしい」
「まだお若いのに。二〇代前半でしょう?」
私は手元の名簿一覧を持ったまま、眉を潜めた。
「どこか体調でもお悪いのでしょうか」
父は首を横に振り、「王都のことはわからん」と前置きしつつも、続けた。
「ルクトニアに戻ると同時に、妻も娶られるらしい。可哀想に。妃になりそこねたな、その娘」
父は何処か意地悪な笑みを浮かべた。私もお愛想程度に肩を竦めるが。
そんなことを承知で嫁にいくのだろう。父の考えは、下種とも野暮ともいうものだ。
「どんな娘なのでしょうね」
私は自分の婚約者を思い浮かべながら、ふと呟いた。
父の話を考え合わせると、ユリウス王と私たちは同じころに結婚しそうだ。
「なんでも、黒髪の綺麗な女性らしい」
そう言われ、思い出したのは、一年前に見合いをした、ハンナ・ヨハンセンという女性のことだった。
◇◇◇◇◇◇
「どうかしましたか?」
私はティーカップを持ち上げる手を止め、向かいに座る彼女を見た。
「いえ、あの……」
明らかに居心地が悪そうに肩をすくませ、彼女は上目づかいに一度私を見る。
『外見は異国の血をとても濃く引いているけれど、とても良い女性なのよ』
この見合い話をもちかけてきたサザーランド伯爵夫人は、母にそう言ったという。
確かに。
今、目の前にいる彼女は、フォードランド人というよりも、カールスルーエ人と言った方が通りがよさそうだ。
『顔の造作がデコボコしている』と、母は顔を顰めていたけれど、すっきりとした鼻筋や、二重の瞳には惹かれるものがある。
『体も筋張って』と、姉は陰口をたたいたが、ただ無闇に風船のように膨らんだ体の女性より、彼女のようにめりはりのついた引き締まった体の方が、私には好みだった。
『服の趣味も悪いわ。あれじゃあ、喪服よ』。妹は苦笑して言うが、派手な色の洋服を着て使用人に眉をひそめられるよりは、地味な色合いでも自分に似合った服を着てもらっている方が良い。
何より。
あの、黒絹のような光沢を放つ、長い髪に魅了された。
「てっきり、お断りされるものだとおもっていたので」
ハンナ・ヨハンセンと名乗る女性は、綺麗な発音で私にそう言った。
「私は断るつもりはありませんよ」
私は笑い、ティーカップを口に運んだ。近づけると、ベルガモットの良い香りが鼻腔をくすぐる。水色といい芳香といい、申し分ない。
「そう、ですか」
ハンナは困ったように眉をハノ字に下げ、紙のように薄い陶磁器のカップを見降ろす。
「ですが、ご家族の皆様はそうではないのでは?」
ハンナは急に顔を上げ、自分の思いつきが最善の策であったかのように、にっこりとほほ笑む。そんな仕草はとても愛らしい。
いつでも慎ましく、お淑やかに。
そう言われて育つ淑女たちとは違い、彼女の表情は猫の目のようにくるくると変わる。
「確かに、母や姉妹は反対のようですね」
私は静かにカップをソーサーに戻した。
「それはそうでしょう」
ハンナが満足そうに頷くのを見て、私は笑いだす。
「この見合い話が流れた方が、貴女は嬉しそうだ」
途端にハンナは首を横に振った。「そうではありません」。慌てたようにそう言うと、肩を縮こませた。
「十九回も見合いをし、そのどれもが上手くいきませんでしたので。つい、今回もダメなのでは、と」
「おや。すべて貴女がお断りされたのですか?」
「……一度だけ私の方から。あとの十八回は、先方よりご丁寧なお断りを頂戴しました」
「それはそれは」
私は藤製の椅子の背もたれに体を預け、彼女に首を傾げて見せた。
「見る眼の無い男ばかりに出会われて、随分と傷つかれましたね」
彼女は大きく目を瞬かせる。
「ですが、私にとっては幸運だ。そんなくだらない男たちのお蔭で、こんな素晴らしい女性と巡り合えたんですから。これはもう、運命でしょう」
そう言うと、彼女は困惑したように瞳を左右に揺らし、それから視線をそらせて庭を見た。
快晴の、五月だ。
この時期は雨も少なく、からっとした陽気にはまだ初夏のような熱がないせいで、一番過ごしやすい。
室内よりは、庭の方が気持ちいいだろう、と彼女を誘ってテラスでお茶を飲むことにしたのだ。
「バラが、お好きですか?」
何を見ているのだろう、とハンナの視線を追い、私は尋ねた。
彼女は弾かれたように、驚いたように私を見返す。
「いえ。そういうわけでは」
そういって、うつむいた。
なんだろう。
私は小路の両脇に、生垣として植えているバラの樹々を見る。
つぼみはまだ固く、葉の色も淡い。特に目を引くものはないような気がした。
その時。
ふわり、と庭を大風が渡った。
「あ」
彼女は慌てて頭に手をやる。風に玩ばれ、彼女の髪が肩先で遊んだ。
「綺麗な黒髪ですね」
私は眼を細めて彼女にそう伝える。
すると。
彼女は、これ以上にないくらい、目を見開いて私を見つめた。
こちらが戸惑う程長くハンナは私を見ていて、私は首を傾げた。
「不躾な事を言ってしまいましたか? 私は褒めたつもりだったのです」
「いいえ。とんでもありません。私こそ……」
彼女は慌てて顔の前で手を横に振る。突然動いたせいか、彼女の肘がテーブルにあたり、がちゃり、と茶器が音を立てる。
「ああ。失礼をしました」
ハンナが詫び、「大丈夫ですよ」と私が声を掛けた時だ。
がさり、と。
葉同士がこすりあわさる音がした。
なんだろう。
そう思うよりも先に、ハンナは立ち上がっていた。
藤製のイスを蹴倒すほどの勢いで立ち上がり、バラの生垣を見ている。
そこから顔を出したのは。
最近、妹が飼い始めた仔犬だった。
仔犬はずぼり、と淡い緑色の葉の間から顔を出し、嬉しげに左右に顔を揺すったかと思うと、じたばたと身をよじりながら生垣から抜け出した。
かつ、あろうことか全速力でハンナに向かって駆け寄っていく。
「ショーン!」
慌てて私は立ち上がり、仔犬の名前を呼んで制止しようとしたが、まだ躾がなっていないらしい。矢のような勢いで、ハンナの紺色のスカートに飛びついた。
「これは、申し訳ない」
私はハンナに近寄り、仔犬に手を伸ばすが、「いいえ。なんでもありません」。ハンナはそう言って、スカートにまとわりつく仔犬を抱き上げた。
驚いたことに。
「なんて可愛い仔犬」
そう言う彼女は、泣いていた。
仔犬を胸の前で抱きしめ、頬ずりをし、優しく見つめているのだけれど。
その瞳からは、大粒の涙が次から次へと流れ落ちていた。
「……うちの犬が、申し訳ありません」
私は上着のポケットからハンカチを取り出し、彼女にそっと差し出す。
そうされて初めて彼女は、自分が泣いていることに気づいたようだ。
仔犬は短い尾を盛大に振り、彼女の顎を伝う涙を舐めとろうとしている。
「これは失礼を……」
ハンナは仔犬を地面に降ろすと、躊躇った末に私のハンカチを手にして涙を拭った。
「すいません。昔、あのバラの生垣からこの仔犬のように飛び出してきた人がいて……」
ハンナは泣きながら笑った。「また、そんなこと、あるわけないのに」。小さな小さな声で、そう呟いた。
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