第37話 懐かしい甘い香水の匂い

「今は?」

 二人が同時に口にする。私は困ったように笑った。


 笑って。

 答えなかった。


 王位に就いたと聞いたとき、無謀にも会いに行こうと思った。伯爵家を出ようと荷物をまとめたこともあった。

 あったけれど。

 鏡に映る自分を見て、我に返った。

 会いに行っても、困らせるだけだと気付いた。

 もう、私が知っているユリウスじゃない。先王の遺児として隠れるように生きていたユリウスじゃない。悪王を討ち、王位に就いた正当な王位継承者であるユリウスだ。


 会って、どうするんだ。

 政治に深く関わっているユリウスだ。婚姻関係だって国政に関わる一大事だろう。

『お前は俺のものだ』

 ユリウスはそう言ってくれたが、そんなこと、できるものか。


 結果。

 私は伯爵家を紹介してくれた大司教に手紙を書き、「ユリウスが私のことを尋ねたら、知らない、と言ってください」と伝えた。

 以降。

 ユリウスとは会っていない。


「さぁ。明日の舞踏会の為に寝ますよっ」

 私は勢い良く立ち上がると、寝室の照明に近づく。

「照明を消しますから。目をつぶって」

 そう言って、ガラスの幌を開け、息を吹きかけて消そうとした時。


 あれ、と思った。

「王様がこの近くにお泊りになってる、って誰に聞いたんですか?」

 明日の舞踏会会場の近くの伯爵家別宅に着いたのは、もう夜だった。

 せわしなく夕食をとり、風呂に入らせ、この寝室に二人を押し込めるまでの間、私以外に誰かと話している様子は無かった。


 「寝るんですよ」と声をかけて部屋から離れ、伯爵夫妻と明日の打ち合わせをしている十数分のうちに、誰かこの部屋に来たのだろうか。

「えっとね」

 口を開こうとしたアリスに、シャーロットが「しぃっ」と人差し指を立てて妹を睨む。

 ううん? 今、シャーロットは何を口止めしたんだろう。


「誰か来たんですか? さっき」

 不審者だろうか。私は照明を消す手を止めて二人に向き直る。

「来てない。お休みっ」

「お休みっ」

 二人はそう言うと、布団にもぐりこむ。私はそんな二人をしばらく見ていたけれど、念のため部屋の隅々まで確認をして、迷った末に二人に告げる。

「灯りはつけたままにしておきます。また、お部屋を覗きに来ますね」

 私の言葉に、二人は「はぁい」と元気な声で返事をした。

 ううむ。

 大概、こんなに元気な返事をした時は要注意なんだよね。

「おやすみなさい」 

 私はそう言い、部屋を出る。ばたんと確実に扉を閉め、まっすぐに自室に向かう廊下でふと気付く。


 静か過ぎる。

 伯爵夫婦の寝室前を通り過ぎる時に、照明が消されている事に気付いた。

 まだ、眠るには早い時間だ。いつもは宵っ張りな伯爵夫婦にしては珍しい。

 足を止め、寝室の扉を叩こうかと拳を軽く握る。

 だけどすぐに。

 ……いや。夫婦だし、と思い直す。

 その。ねぇ。夜の生活もあるんだろうし。

 勝手に顔を赤らめて、私は足早に伯爵夫婦の寝室前を通り過ぎ、自分にあてがわれている部屋に向かった。


 頭の後ろで丸めて束ねた髪の櫛を取ると、はらりと黒髪がほどけて肩にかかる。

『きれいな黒髪ですね』

 そう言って褒めてくれた男性の顔を不意に思い出した。一年ほど前に会い、私に求婚してきた子爵だ。

『良い方がいるのよ』

 伯爵夫人にそう言われ、断りきれずに会った子爵だ。

 家族とも連絡を取らず、『ワケあり』だと大司教に紹介された私のことを、伯爵夫人は、『男性に捨てられた可哀想な女性』と思っている節があった。

 是非、幸せな結婚生活を、と意気込んで言われ、さる子爵にお会いした。

 会ったものの。

 てっきり、断られるものだと思っていたら、伯爵夫人に「ぜひ話を勧めてくれ」と言ったらしく、この話を無かったことにするために、往生した。

『その人に抱きしめられたり、髪を撫でられたり、『愛してるよ』って言われたら、肌は綺麗になるし、髪はつやつやになるわよ』

 エマがそう言った通り、ユリウスに撫でられた髪は、他人に褒められるほどになったようだ。


 私は毛先を指で玩びながら、苦笑してドアノブに手をかけて回す。

 頭の中では、明日のことを考え直していた。出発する時間を逆算して、シャーロットを着替えさせる時間やご飯を食べさせる時間を考える。私が付き添えないから、準備は万端にしておかないと。

 早く寝たいのは山々だけど。

 少なくともあと2回は子ども達の部屋を覗きに行かなくては。不審者でも侵入していたら大変だ。


 そう思って扉を開き。

 そして。

 思考が一時停止した。


 てっきり、幻覚だと思った。


 さっき、こどもたちと一緒にユリウスの話をしたから、幻を見たんだと思った。

 幻だったら。

 幻なんだから。

 私は消えるまでの間でも、せめてずっと見ていようと思った。


「ハンナ・ヨハンセンってなんだよ」

 幻は、やけにリアルに私の偽名を言った。ぶっきらぼうなところも、意地悪そうな瞳も、ものすごく似ている。


「アレクシア」

 部屋の簡易な布張り椅子に腰をかけ、不機嫌そうに私を眺めてそう言う彼の声は聞きなれたテノールだ。


「聞いてるのか?」

 立ち上がり、扉の側で立ち尽くす私の側に歩み寄ってくる。

 ふと。

 昔の記憶を呼び覚ますような懐かしい甘い香水の匂いが鼻先を掠めて。

 そこで、思い至る。


「ユリウス?」

 恐る恐る声をかける。

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