番外編

ユリウス

ユリウスepisode 1

 浅く薄い眠りは、落ち葉を踏む音と微かな拍車の金属音に、簡単に破られた。


 俺は凭れていた布袋から体を起こし、瞳を開ける。

 闇越しに見えるのは、布だ。

 野営用のテント、というよりは粗末な布を木から吊るしただけの様子に、苦笑が漏れた。


 そうだ。

 モルデン領で敗けて、ここまで逃げて来たんだ、と思い出す。


 はぐれたエドワードの本隊とは、この山を抜けたタレート領の教会で落ち合う手はずになっていた。

 モルデン領からタレート領の間には山が塞がり、この山を抜けなければ入領できない。

 日が落ちる頃を狙って入山したものの、思いのほか木々が深く、夜歩きは危険だと判断して野営に切り替えたのだ。


「殿下」

 布がまくり上げられ、入って来たのはウィリアムだった。王都で宣言して以来、ウィリアムは俺のことを『殿下』と呼ぶようになった。あっさり呼称を変え、また、間違えない。いつまでたっても、俺のことを「ジュリア」と呼び続けたどっかの誰かとはえらい違いだ。


 俺はため息をつき、片手にカンテラを携え、するりと中腰になってテント内に入ってくるウィリアムを見る。

 最小にしぼられたカンテラの光さえ眩しい。

 俺は目を細め、再び布袋に凭れかかった。


「どうした?」

 短くそう尋ねる。口から出た声は、想像以上に不機嫌だった。騎士や貴族のいるところでは、いつもにこやかに、穏やかな声で接しているが、相手がウィリアムなら『いつもの俺』で問題ない。


「見張りの騎士が、異常を伝えてきました。移動したいので準備して下さい」

 ウィリアムは、緊張感のない笑みを口に浮かべて、結構緊迫感のあることを俺に伝える。俺はため息をつき、布袋から上半身を起こした。

 変な体勢で寝ていたからかもしれない。起きた拍子に背中に鈍い凝りを感じて、顔を顰めた。


「この山を抜けたら、教会に泊まれます。風呂や寝台もありますから、それまでの辛抱です」

 気遣わしげにウィリアムにそう言われた。


「あの、『ジュリア』の面影がありませんね。無精ひげまで生えてますよ」

 ウィリアムの申し訳なさそうな顔に、俺は噴き出しそうになる。そりゃ、髭だって生えるし、喉仏だって出る。そもそも、男なんだから。俺は肩をぐるりと大きく回しながら、ウィリアムを見た。


「お前だって人のこと言えないだろ」

 そう言って、にやりと笑ってやった。


「ルクトニア一の色男が」

 ウィリアムは俺の言葉を受けて、おどけたように目を見開いて見せる。

 そんな奴の顎にも随分と伸びた髭が覆い、いつも糊の利いていた紺色の軍服は、見る影もなく泥と埃で汚れていた。


 俺の方が。

 ウィリアムに対して申し訳ない、といつも思っている。


 俺にさえ付いてこなければ、こんな事態に巻き込まれることはなかったのに、と。

 アレクシアは意外にあっさりと俺の指示通りに大司教のところに行ったが、このウィリアムは強情で、かつ、執拗に俺から離れようとはしなかった。

 一度、エドワードと口裏を合わせて、置き去りにしてみたのだけど、どこでどう聞きつけたのか、あっさり俺の元に戻ってきてしまった。犬よりすごい嗅覚だ。


『僕が死ぬのは、貴方の隣だと決めていますから』

 ウィリアムは、しれっとした顔で以前にも口にしたことを、やっぱり俺に言う。


「とにかく、移動の準備を」

 ウィリアムがそう言って腰を上げた時だ。


 野営用のテントが一気に橙色に染まった。

 同時に。

 いくつもの怒号と、風を切るような音に包まれる。


 咄嗟にウィリアムはカンテラを放ると、俺の腕を掴み、強引に引き寄せた。

 上半身をウィリアムの長身に倒れこませたまま、俺は地面に手を突いてなんとか体を支える。その間に、ウィリアムはざっと俺の姿に視線を走らせた。


「剣は持っていますね。鎖帷子は脱いでいますか?」

 短くそう尋ねるので、俺は反射的に頷き、腰に手をあてる。大丈夫だ。佩いている。鎖帷子は暑いから寝る前に脱いだ。

 ウィリアムは自分の右腕に着けていた教会騎士の証である十字の腕章を素早く抜き取ると、俺の右腕に強引にはめ込んだ。


「ウィル……」

 訝しげに口から出たのは、もう十数年も呼んでいない奴の愛称だ。

 だが、返事はない。

 腕を引っ張って立たされた。


 ウィリアムは、片手で俺の手をひきながら、片手で野営用のテントを捲り上げる。

 顔に吹き付けてきたのは、古い油の匂いと、血の匂いだ。

 周囲を取り巻いたのは、悲鳴と怒号と耳障りな金属音。


 そこかしこで。

 すでに、乱闘は始まっていた。


「ここに到着した時のことを覚えていますか?」

 ウィリアムは抜刀し、俺の手を引いたまま野営地を走る。俺たちに気づいた幾人かの、騎士が駆け寄ってきた。どの騎士も軍服の左胸に王家の紋章を付けている。俺はウィリアムに左手を引かれたまま、右手で腰の剣を抜いた。


「はぐれたときの合流場所を教えましたよね?」

 ちらりとウィリアムが俺に視線を向ける。途端に、王家の騎士の一人がウィリアムに向かって剣を振り下ろした。

 ウィリアムはその剣を下から擦り上げて受け流すと、手首を返す要領で王家の騎士の胴を薙ぎ払った。


 それが合図のように、右前方にいた騎士が怒号を上げて剣を突いて来る。

 ウィリアムはぐいと俺の手を下に引く。つんのめるように頭を下げると、ウィリアムは自分も膝を曲げて体を低くし、右側に半身でかわしながら、更に踏み込む。俺は転ばないようにするだけで必死なのに、ウィリアムはフェンシングの『振込み』に似た動きで相手の背中を急襲した。


「覚えていますか?」

 けたたましい悲鳴と、返り血を浴びながらも、ウィリアムは平然と俺に尋ねる。俺は顎を引いて頷いて見せた。


「川の下流に、村へと水を流す関所があります。そこが合流地点です」

 もう一人の王家の騎士が、怒声を上げながらウィリアムに襲い掛かったが、その切っ先がウィリアムの体に触れるより先に、手首ごと切り落とされた。呻きを上げて蹲る騎士を蹴り倒し、ウィリアムは先に進む。


 俺は、ウィリアムに手を引かれながら、首を廻らせた。

 多い。

 王家の騎士が圧倒的に多い。


 この野営地は完全に包囲されていたのだろう。

 俺の供回りとしてついてきている騎士たちの姿が見えない。


「ウィリアム。逃げろ」

 俺は数歩先を、俺の手を引いて逃げるウィリアムに怒鳴った。俺自身が足手まといだ、という自覚はある。おまけに。


 俺はちらり、と俺自身が握る剣を見た。父であるジョージ王のエンブレムが入った剣だ。この剣を見れば、俺がユリウスだということが知れるだろう。


「俺の側にいると、お前が狙われる。逃げろ」

 なんとか手を振りほどこうとするのに、ウィリアムは強情に俺から手を離さない。

 目の前の敵を、呼吸をするような速さで斬り伏せ、どんどんと山の奥に進んでいく。


「ウィリアム!」

 俺は怒鳴るが、一瞬だけ背後の俺を見ただけで、ウィリアムは足を止めることは無い。

 怒号や、俺の名を叫ぶ男たちの声に混じり、耳に響いてきたのは、水音だ。

 激しく岩にぶつかる川の音に、その勢いと水量が想像できる。


「いいですか。この川を下れば、合流地点に着きます」

 ウィリアムは足を止め、俺の手を離した。

 顔の半分を血糊で汚し、ウィリアムは左手で前方を指さす。

 その指の先端は、突然崩れたような岩場を示していた。

 闇に飲まれ、輪郭もおぼろになった岩場だが、ごうごうと地鳴りのように聞こえる水音と、吹き上げる湿った風に、眼下が川になっていることは知れた。

 不意に。

 ぐい、と右手が引っ張られ、驚いて顔を起こすと、ウィリアムが俺の剣をもぎ取って、自分の剣を無造作に地面に放った。


「すでに確認しました。ここを飛び降りれば深みのある淵に落ちます。そこを下れば、合流地点に着きますから」

 ウィリアムはそう言うと、強引に俺の肩を押した。俺は岩場に向かってよろめく。ウィリアムはそんな俺に背を向け、拍車を鳴らした。


「待てっ」

 俺は咄嗟に、ウィリアムの左手を握った。


「お前も一緒に来いっ」

 吹き付けてくる川風のせいだけでなく、徐々に体温が冷えて行く。こいつ、どこに行く気だ。


「僕が騎士たちをひきつけます。その間に、川に飛び込んで、できるだけ遠くに行くんですよ」

 ウィリアムは俺に腕を掴まれたまま、柔和に笑った。


「いいですか。合流地点に誰も来なかったら、一人で山を下りてください。教会に行って、エドワード王子に合流するんです」


「お前も一緒に来いっ」

 俺は再び叫ぶ。野営地の方から「王子がいるはずだっ」「探せっ」と、野太いいくつもの声が聞こえてきて、ウィリアムは険しい目を一瞬そちらに向けた。


「もし、敵に捕まってしまったら、『教会騎士』のフリをするんです。できますよね?」

 ウィリアムは再び俺を見ると、剣を持ったまま、俺の右手の教会騎士の腕章を引き上げ、嵌めなおさせる。


「何をする気だっ」

 自分でも顔が青ざめていくのが判る。ウィリアムに怒鳴ると、彼は肩を竦めた。


「大丈夫。僕は死にませんよ。僕が死ぬのは、貴方の隣だと決めていますからね」

 さぁ。ウィリアムは、ぐい、と俺を岩場の方に押しやった。

「ウィル!」

 ウィリアムの腕を掴もうとしたら、乱暴に振り払われ、珍しく睨まれた。


「アレクシア殿に会うんでしょう!」

 生まれて初めて、怒鳴られた。俺は茫然と、闇の中に立つ、年上の幼馴染を見上げる。


「こんなところで死んでどうするんです! アレクシア殿にもう一度会うんでしょう!」

 ウィリアムは一息にそう吐き出すと、近づいてくる足音に急かされるように俺を岩場の方に突き飛ばした。


「アレクシア殿を抱くんじゃなかったんですか!?」


 言われて、思い出す。

 敗走する前のことだ。

 その地の領主の娘が俺の部屋に夜這いに来たことがあった。

 それなりに綺麗で、それなりに柔らかそうな娘だったから、思わず手を出そうとしたんだけど。


 実際に抱きしめてみたら、アレクシアのようなしなやかな体でも、アレクシアのような絹のような髪でもなく。アレクシアのように綺麗な発音で喋るわけでもなければ、アレクシアのように恥じらいがあるわけでもなかった。

 なんだか、げんなりして、結局手も出さずに、思わずウィリアムを呼んだ。ウィリアムは苦笑して、その娘を俺の部屋から連れ出してくれたのだけど。


「アレクシア殿に会いたいんでしょう!」

 一喝され、俺は腹を決めた。前かがみに、転ぶように岩場の方に駆けだす。


「合流地点で!」

 俺は首を捩じって、ウィリアムに叫ぶ。ウィリアムは首を傾げるようにして、陽気に笑った。


「合流地点で」

 ウィリアムはそう言うと、くるりと俺に背を向ける。

 すらりと上げた右手には、闇夜でも妖しく輝く剣を掲げていた。


「我こそは、賢王ジョージが遺児、ユリウスである!」

 ウィリアムの声が、朗と山に木霊する。「ユリウスだっ」「ユリウスはあそこだっ」。それに応じるのは、気が急いたようないくつもの荒っぽい声だった。


「手柄が欲しいかっ、命が惜しいかっ! ユリウスの首、その手に掴んでみるかっ」

 ウィリアムは怒鳴りながら、来た道を戻り始めた。

 俺は奴の背から、必死で視線をもぎ取った。


 くるりと岩場に顔を向ける。腹を響かせるような水音を立てる岩場に近づき、覗き込んだ。


 眼窩には闇が広がる。

 月さえ隠れたこの夜では、淵の姿も、ましてや高ささえ見当がつかない。

 ただ、空気を震わせる水音と、絶えず吹き付ける水滴に、背筋が強張った。

 だけど。


 俺はひとつ大きく息を吸い、跳躍した。

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