第34話 お前は俺のものだから、印しをつけておくんだ

「お前の父上がおっしゃったんだろう?」

 ユリウスの言葉を、どこか、ぼんやりと聞いていた。


「……なんの、ことですか?」

「逃げたものには必ず追われる、って。だから一歩もひいてはいけない。問題はその場でその都度片付けるほうが効率的だ、って」


 ああ、そのことか。

 曖昧に頷いてユリウスの綺麗な顔を見上げた。


 青い瞳や、金色の髪。


「俺がもしここでこの問題から逃げ出したとしても」


 響きのいいテノールの声。


「きっと俺は、やっぱりこの問題に追われる。追われて、また解決しようとしても、問題は更に混乱して、手に負えなくなっていると思う」


 背だって伸びた。

 出会ったときは、私と同じぐらいだったのに。


「だったら、今しかない。今、俺はやるべきことをやらなきゃいけない」


 王都で奮闘していたからだろう。

 白い肌も、日に焼けている。

 女らしさなんて、もうどこにもない。


「アレクシア」


 不意に名前を呼ばれ、私は目を瞬かせた。


「なんですか?」


 ユリウスを見上げ、私は涙を必死に堪えていた。

 泣くな私。

 絶対に泣くな。


 今後、この人に会えなくても。


 絶対に、泣くな。

 この人は、この人のなすべきことを見つけたのだ。


 もう。

 あの、バラの生垣から飛び出してきた、可憐なジュリアではないのだ。


「待っててくれ」


 ユリウスは私の両肩を掴み、顔を覗きこんでくる。

 端正な顔。

 もう、見られないかもしれない顔。


「何を?」


 私は尋ねる。

 まずい。語尾が涙声になりそうだ。


「王を討ったら、必ず迎えに行くから」


「……迎え?」

 私は闇越しに、ユリウスの顔を見る。

 ユリウスは真っ直ぐに私を見ていて、視線をそらさなかった。


「国内が安定したら、結婚しよう。それまで待っててくれ」


 そんなこと。

 私は表情を凍りつかせたまま、心の中で噴出した。


 嗤った。叫びだした。


 そんなこと、できるわけがない。


「一緒にルクトニアに帰ろう」


 貴方は王になるのだ。

 心の中で、指を突き立てて私はユリウスに怒鳴っていた。


 ロゼッタ卿も言ってたじゃない。

 私は貴方に相応しくないのよ。

 貴方は一国の王になるのよ。


 外国の血を引く亡命貴族の娘なんて、妻に出来るわけがない。

 平定に携わった、どこかの金持ちの貴族の中から妻を選ぶのよ。そうじゃなきゃ、平定できても安定しない。


「アレクシア。聞いてるのか?」

 訝しそうにユリウスに言われ、首を縦に振った。


「あんまり迎えが遅いと私、どこかの誰かに鞍替えしますけど」

 精一杯私は笑顔を作ってそう言った。


「んだよ。高飛車な女だな」

 

 意地悪く笑うその顔は。

 見慣れたいつものユリウスの顔だった。


「死んで、二度と会えないかもしれないんだぞ。他の言い方ないのかよ」


 どちらにしろ、もう二度と会うつもりはなかった。


 ただ、ウィリアムの言葉が不意に蘇る。

『人間、何かに執着しないと生きていけないからね』


 私は、ユリウスと一緒に暮らす未来に執着したかったのかもしれない。


 そうじゃないと。

 生きていけない。


 だから。

 ユリウスの語る、甘い未来の嘘に乗ることにした。


「私だって、適齢期、ってものがあるんです」

 口角を上げ、胸をそらせる。


 一生懸命、勝気に見える顔と態度を作って見せた。


「遠くにいる王子様より、近くのお手ごろ男子で手を打つかもしれませんよ」

 ユリウスはしばらく私を見つめていたものの、肩を抱いたまま自分の方に引き寄せた。


 突然のことに、蹈鞴たたらを踏んで彼のほうにしなだれかかると、ユリウスは私の肩から手を外した。「ちょっとっ」。抗議の声を上げた時には、彼の左手が私の腰に回されていた。


 彼の右手が私の顎に触れ、上を向かされたかと思うと、首筋にキスをされる。


 ちょ、ちょっと待った!


「ユリウスっ」

 どん、と彼の胸を突き放すと、彼はあっさり私から体を離した。


「また、つけたでしょ!」

 真っ赤になって抗議すると、ユリウスは鼻で嗤った。


「お前は俺のものだからな。ちゃんと印をつけとくんだ」


 平然と。

 そんな傲慢なことを言われ、唖然と口を開いた。


 ユリウスはそんな私の鼻先に人差し指をつきたてる。


「お前に近づこうとする男には、それを見せてやれ。私は別の男の物です、とちゃんと言え」


 最悪だな、この男。


「だから、その印が消えるまでに戻ってくる」


 私は目を瞬かせて彼を見上げた。


「その時は、一緒にルクトニアに帰ろう」

 ユリウスは軍服のポケットから一通の封筒を取り出した。


「俺が懇意にしている大司教への紹介状だ。お前をどこかの貴族の子弟の家庭教師として紹介してやってくれと書いてある。彼の指示に従え」

 ユリウスはそう言うと、立ち尽くしたままの私の手にその手紙を握らせた。


「ルクトニアのことに関しては、バートラムに全面的に任せることにした。あそこも俺のせいで戦火に飲まれるかもしれないから、守りを硬くしろ、と言っている。お前も近づくな」


 そう言って、ユリウスは私を見たまま、一歩脚を引いた。


 扉の方に、一歩、近づいた。


 行ってしまう。

 ぎゅっと、胸が締め付けられた。


 もう、会えない。

 急に沸き立った不安に、思わず彼の名を呼ぶ。


「ユリウス……」

 手を伸ばし、掴もうとした。未練がましく、彼に触れようとした。


 もう、会えないから。

 もう、会わないから。


 だから。

 もう一度だけ、彼に触れようとした。


 だけど。

 その手を、彼はするりと避け、優雅に笑う。


「心配するな。大丈夫だ、俺は死なない」


 私も力なく笑い、頷いた。

 宙に伸び、何もつかめなかった私の腕は、ゆるゆると降りて行く。


「それにさ」

 ユリウスの声に、首を傾げてみせる。


「これ以上、この部屋にいたら、お前を襲いそうなんだよ。あそこに寝台見えるし。ってか、まだ時間があるんだったら……」


「……最低……」

 ばっさりと会話を切って捨てた。


 時間があったらなんだというのだ。この期に及んでもそんなことを言うか。

 思わずそう呟くと、じろりと睨まれた。


「お前な。将来の夫が危険な場所に行くかもしれないんだから、ちょっとぐらいなんか色っぽいことでもしてやろうと思わないか」


「思わないし、思いつかないので、しません」

「なんかあるだろ。想像してみろ」


「いや、さっぱり」

「帰ってきたら覚えてろよ。2・3日寝かせないからな」

 ユリウスは私にそう宣言をすると、もう振り向かずに部屋を出て行った。


「……ばっかじゃないの」


 私は閉じた扉にそう言う。


 もう、最後なのに。

 もう、会えないのに。

 最後の会話があれ?


 私は噴出す。

 噴出して。


 声を上げて泣いた。

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