第27話 このまま、どっかに逃げるか?

 良かった。

 ここが1階で良かった。


 死ぬほど安堵した私を地面に下すと、ジュリアはまた私の手を引いて駆けだした。


「どこに行くんですか?」

 庭園の芝生をまっすぐに横切りながら、私はジュリアの背中に尋ねる。


「森の方に行こうぜ」

 ジュリアがそう答える。その言葉は、開け放った窓から聞こえてくるロゼッタ卿の、「ウィリアムはどこだっ」という絶叫にかぶさった。


「やべ。ウィリアムが追ってくるんなら、馬にしよう」

 ジュリアは私の手を引いたまま芝生を駆け、東の方に走る。確か、厩があったことを私は思い出した。


「戻らないと」

 私は必死に足を動かしながらジュリアに声を掛ける。ジュリアは一瞬、不機嫌そうな顔を私に向けたけれど、結局また前を向いて走り続ける。


 いい加減、呼吸がしんどい。

 そう思う頃には厩に着いた。


 膝の上に手をつき、腰を曲げてぜいぜいと息を吐いていると、ジュリアが一頭の馬を連れて戻ってくる。


「自分で鞍に乗れるか?」

 ジュリアに言われ、私は大きく頷く。


 乗れない、と言おうものならまた持ち上げられそうだ。

 私は鐙に片足をかけると、手綱を持って体を持ち上げる。「よいしょ」。思わず声が出ると、ジュリアに、「色気がない」と笑われた。


「もっと前に詰めて。俺も乗るから」

 ジュリアに言われて、私は迷った末に、サイドサドルの騎乗方法ではなく、鞍にまたがった。


「相変わらず男前だな」

 ジュリアは笑い、身軽に鐙に足を乗せて鞍にまたがった。

 ぎゅっと。

 私の背中にジュリアの胸やお腹がぴったりあたり、私を後ろから抱え込むようにして手綱を握る。


 ジュリアの呼吸まで背中を通じて伝わって来て、私は耳まで熱くして小さく体を縮こませた。


「そらっ」

 ジュリアは馬に声をかけると、長靴ブーツの踵で軽く腹を蹴る。馬は二人を乗せていても、颯爽と走り出した。


「どこに行くんですか?」

 馬の振動に合わせて揺れながら、私はちらりと視線を後ろに向ける。


 向けて、ぎょっとした。

 ものすごく近くにジュリアの顔があったからだ。

 すぐに目を前に向け、赤くなりっぱなしの頬に、「いつも通り、いつも通り」と念じた。


「このまま、どっかに逃げるか?」


 冗談めかしたようにジュリアが言う。

 冗談めかしているけれど。


 口角だけしか上がっていない口や、ぎゅっと中央に寄る眉を見ていたら。


 ……多分。

 本音なんだろうな、とは思った。


「あ」

 ジュリアが声を上げる。「あ」。私も声を上げた。頬に、雨粒が当たる。


 空を見上げた。灰色の雲からは、我慢しきれなかったような雨がぽつりぽつりと落ち始めている。


 通り雨かもしれない。

 北の空は晴れている。見上げたこの空にだけ、暗雲が垂れ込めていた。


「結構、降って来たな」

 ジュリアの困ったような声が後ろから聞こえる。確かに。雨はだんだん勢いを増しそうだ。


「森に入ったところに炭焼き小屋があるんだ。あそこに行こうか」

 ジュリアは手綱を持ったまま、前方に見えるこんもりとした木々の群れを指さす。


「随分、詳しいんですね」

「ルクトニア領主に封じられるまでは、ここに住んでたんだ」


 がさり、と馬が森の下草を踏む音がした。

 一気に森に入り、周囲が暗くなる。

 定期的に振る雨は森の木々のお蔭でしのげたけど、葉に溜まった雨水が時折、ばさり、と大量に落ちてきた。


「まだ、あるかな。あの炭小屋」

 ぼそり、とジュリアが物騒なことを言うものの。


 このまま、馬に乗っていてもいいな、とは思う。


 馬はよくジュリアに慣れているらしい。

 森の中に入り、根が瘤のように張る地面を嫌がらず、リズミカルに駆ける。正直、ジュリアがここまで乗馬が得意だとは思ってもみなかった。


「あった」

 ジュリアが嬉しそうな声を上げる。目を凝らすまでもない。確かに、小さな小屋が見えてきた。


「ここで炭を作ってあの屋敷で使ってたんだ」

 ジュリアは炭小屋に向かって徐々に馬の速度を落としていく。


「そうなんですか」

 私が答えた時、木々の間から光が漏れ、すぐに板を裂くような音がして、首を竦めた。


 雷だ。

 しかも近い。


 ジュリアがぽんぽんと私の頭を軽く2回叩くと、炭小屋の側に馬を止めた。


「小屋に入ってろよ」

 ジュリアは私にそう言うと、馬の手綱を近くの木の枝にかけて繋いでいるようだ。


 私は言われたとおり馬から下りると、先に炭小屋の扉を開ける。

 扉は、盛大に軋み音を上げて内側に向かって開いた。

 開いたというより、一部傾いだ、ともいえる。


 ……大丈夫かな、ここ。


 私はその扉になるべく触らないように、そっと中に入った。


 窓にはガラスが入っておらず、中からのつっかえ棒で雨戸が開いている状態だ。雨が時折吹き込んで床を濡らしているけれど、雨戸を閉じてしまえば室内が真っ暗だ。


 今は使われていないのかもしれない。

 かび臭いにおいが鼻先をかすめた。


 小屋の半分が土間で、半分は一段高い床板が敷かれている。多分、炭小屋として使われていたときは、この一段高いところに炭を置いていたんだろう。


 まぁ。こんな小屋に誰かが潜んでいるとは思えないけど……。


 念のため周囲を確認する。

 床板に膝をついて奥まで見てみたけど、誰も居なかった。


 ぴかり。

 稲光が開けっ放しの窓から差込み、空気を揺るがすような雷音が響き渡る。咄嗟に、耳を押さえ、その場にしゃがみこんだ。


 落ちないとは思う。

 周囲がこれだけ高い木で囲まれている小屋だったら、その木の方に落ちるだろう。


「すごい音だったな」

 ジュリアが私と同じように扉に当たらないように器用に避けながら小屋の中に入って来た。


「雨の勢いもすごい。さっきの医師も言ってたけど、山間の村は大丈夫かな」

 肩口の雨を払いながら、ジュリアは心配そうにそう言った。なかなか良い領主様だ。


「まだ、雷の音は続いていますね」

 耳を澄ましながらジュリアに言う。


「しばらくここにいて、雨が小降りになったら屋敷に戻りましょう」

 板敷きに座り、ジュリアを見上げる。

 ジュリアは憮然と無言で私を見下ろした。


「嫌だ」

 いやいやいや。子供かよ。


「ずっと帰らないわけにはいかないでしょう」

 呆れてそう言うと、どっか、と私の隣に座った。

 無造作に足を組み、細かく貧乏ゆすりまで始める。


「帰りたくない」

 ……でしょうね。ええ、そうでしょうよ。


 私はしばらく口を閉じ、ジュリアの横顔を眺める。


 本当に、整った顔だなぁ、とぼんやりと思う。目元のあたりなんて、あのおじい様に、ものすごく似ている。


 そして、ふと思う。

 あの、肖像画の誰かとは、とってもお似合いではないのか、と。


 そう考えて。

 胸がよじれるように痛んだ。

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