松・その7

 翌日、日曜日。

 梨生奈はとある一軒家の前で、緊張気味に立ち尽くしていた。

「緊張するわねぇ……」

 吐息交じりに、独り言をつぶやく。それから幾度目かの溜息を吐いた梨生奈は、ふと昨日の喫茶店での出来事を思い返した。


『だからね――……明日、優羽くんのところに行ってあげて欲しいんだ』

 全ての真実と本心を自分の口から打ち明けた後、桜香が口にしたのはそんな予想外の言葉だった。

 一瞬何を言われたのか理解できず、すっかり素に戻ってしまった梨生奈に、桜香は何の嫌味も感じさせないような朗らかな笑みを浮かべて続けた。

『あたしにできることは、もうやり尽くしちゃったもの。だけど優羽くんは、まだ迷ってる。そんな彼の決心をちゃんと固めてあげられるのは、雪宮くんでも葵さんでもなくて……梨生奈ちゃんなんじゃないかなって、なんとなくそう思うんだ』

『どうして、わたしが』

『……その方が、きっと梨生奈ちゃん自身のためにもなるから。これを機に、和解した方がいいよ』

 ね? と小さく首を傾げられ、梨生奈は思わずたじろいだ。

 どうして、そんな曖昧でしかないことを、そんなに自信満々に言うことができるのだろう。どうして……普通ならここは、ジェラシーを感じるべき部分のはずなのに。

『嫉妬なんてしないよ、今更』

 梨生奈の心情を見抜いたかのように、桜香は笑みを深める。

『思い悩んで、迷ってるだろう優羽くんのこと……頼めるのは、梨生奈ちゃんだけ』

 あたしは、梨生奈ちゃんを信頼しているから。

『……駄目?』

 ――そんな顔、しないで。

 そんな純真無垢な表情で、そんなこと断言されちゃったら。

『駄目なわけ、ないじゃない』

 任せてと、口が勝手に動いていた。いつの間にか勝手に、桜香を見つめながら応えるように笑みを浮かべていた。

 瞬間、張りつめたような不安そうな表情から途端にホッとしたような表情に変わった桜香を見て、安堵する自分がいた。

 これで、いいんだと。

 これこそが……大切な『友人』の、何よりの望みなのだから。


 目の前に掲げられた表札に彫られた『花村』という名前に、手のひら全体で撫でるように触れる。硬質なそれはひんやりと冷たかったけれど、何故かほんの一瞬だけ温もりのようなものを感じたような気がした。

 ごくり、と無意識に唾を飲み込んだ梨生奈は、五分ほどその場から動かなかったが、やがて意を決したように手を伸ばすと、震える人差し指で表札の横にあるインターフォンを押した。

 しばしの沈黙の後、唐突にガチャリ、とドアが開かれる。

「不用心ね。もし不審者やセールスだったら、どうするつもりなの」

 何の警戒心も持たず現れた、素の表情を浮かべた優羽に、梨生奈は自分でも驚くほどに強気な言葉をぶつけた。我に返ったらしい優羽が、恐る恐るというようにこちらを見る。

 目が合い、しばし見つめ合う。時が止まったかのように思えて、梨生奈は内心緊張を深めた。

 やがて……優羽はようやく梨生奈の存在をしっかり認められたのか、大きく目を見開き、固まった。

「久しぶり、花村」

 明確な動揺を示した優羽に向けて、梨生奈はわざと優雅な笑みを浮かべ、いつ以来になるか分からないほどに久々の挨拶をした。


「――いったい、何の用だ?」

 客間らしき部屋に梨生奈を通した優羽は、未だ抜けきっていないらしい混乱と不審を隠しもせずにそう問うてきた。ソファに腰かけ、礼儀のしるしとして出された珈琲のカップを口にしながら、梨生奈はクスリと小さく笑う。

「何の用だ、なんて……ずいぶん、ひどい言いぐさね」

「いや……だって。どういう風の吹き回しだよ」

 相当動揺しているらしい。掛けられた声は、僅かに上ずっていた。

「お前、関係を切ってからこれまで露骨に俺のこと避けてきたじゃんか」

 確かに、彼の言う通りだ。関係を切ってからというもの、梨生奈はいっそ徹底的なまでに優羽のことを避け続けてきた。だからこそ、今日こうしてやって来るのにも、相当な覚悟が要ったのだ。

 しかしそれにしても、だ。今の自分が優羽を訪ねることは、そんなにも意外だったのだろうか……。

 彼の狼狽した様子があまりに愉快で、梨生奈は再び笑みを零した。

「これから女の子を口説くうえで大事なことだから、覚えとくといいわ、花村。女の子の気持ちっていうのはね、とかく変わりやすいものなのよ」

「答えになってなくね?」

「十分、答えになっているわ」

 つい、優位的な言いぐさになってしまう。こんなこと、セフレだった頃にはありえないことだったかもしれなかった。

 あの頃の自分は、今よりもずっと、玲のことだけをただひたすら一途に想い続けていて……まさか彼以外の人間と身体だけとはいえ関係を持つだなんて、思いもよらなかった。

 結局は梨生奈自身、耐えきれなかったのだけれど……。

「玲に、振られたんだって」

 何の前触れもなく、優羽はいきなりそう口にした。梨生奈の身体が一瞬、明らかに強張る。優羽を一瞬だけチラリと横眼で見るが……数秒と持たず、逸らしてしまった。

 答える声が、自然と掠れる。

「……えぇ」

 ふと、視線が逸らされるのを感じた。優羽もまた、梨生奈の方を直視することができていないのだろう。

「真紘に声を掛けたのは……玲を、諦めきれなかったからか」

「そうよ」

 唐突な問いに、間髪入れず答える。どうしてそんなことを知っているのかとか、聞くまでの余裕はなかった。

「秋月くんは、好きな人がいると言った。……その人が誰なのか、友人である雪宮くんなら知っているんじゃないかと思ったのよ」

 どうしても、衝動を抑えきれなかった。好きな人がいると知ってもなお、諦めきれなくて。この想いが届かないなら……せめて、その人がどんな人かくらいは、知っておきたくて。

 知ってどうするのか、知ったところでどんな行動を起こすというのか。冷静に考えたら、疑問だらけでしかない、ひどく無駄なことなのだけれど。

「秋月くんには、踏ん切りがつくだなんて強がりを言ったけど」

 本当は、諦められるわけなんてなかった。諦めたくない、と言った方が正しいかもしれない。この想いが消えてしまったら……自分の存在意義まで、失ってしまう気がしたから。

 だからこそ……優羽へと傾けられつつあった淡い想いを捨ててまで、玲を想い続けることを選んだのに。

「ねぇ、花村……いくら一縷の望みさえ失ったとしても、それでもどうしても諦めきれないのは、辛いことね」

「そうだな」

 反射のように、優羽は答えた。

「本当に……その通りだよ」

 やけに実感のこもった一言に、こくり、と小さく梨生奈は首を縦に振った。ほとんど量の減っていない珈琲を、一口喉に流し込む。

 そこで梨生奈は、ここに来た本来の目的を思い出した。

 そうだ、こんな湿っぽい話を吐き出すために来たのではない。自分は……友人の望みを果たさなければならないのだ。

 珈琲のカップを机に置き、優羽へ顔を向ける。そして梨生奈は、これまでと何ら繋がりのない話題――いや、実は繋がっているのかもしれないけれど――を持ち出した。

「そういえばね……最近、風早桜香と一緒に過ごす機会が多くなったの」

「桜香と?」

 まさかここで、学校が違うはずの彼女の名が出るとは思わなかったのだろう。優羽は思わずと言ったように目をぱちくりとさせた。その反応が可笑しくて、梨生奈は思わず口に手を当て笑う。

「まぁ、学校が違うと言ってもそんなに遠くないから。ちょっとしたタイミングで知り合って意気投合して、一緒に過ごすようになったのよ」

 どこで会ったとか、どんな話をしているとか、詳細はあえて語らない。そこまで話す義理はないだろう。

「あの子も、花村のセフレなんでしょ。本人から聞いたわ」

 一応元セフレの前でその話を持ちかけられたことが気まずかったのか、優羽はフッと梨生奈から目を逸らした。

 再び小さく笑い、梨生奈は続ける。

「気が向いた時だけ、身体を貸し出す……セフレなんて所詮そんな扱いなのに、あの子は強いし、ひたむきな子だわ」

 いつか喫茶店で話した時の、桜香の決意のこもった表情を思い出す。

「『あたしは、優羽くんが自分を通して違う人を見ていても構わない。それで一時でも、彼が幸せになってくれるなら……』って。あの子は本当に純粋で、まっすぐね」

「……あぁ」

 優羽は曖昧に答えたが、きっと実感しているだろう。彼女の一途で純粋な、自分に対する恋心――いや、そう呼ぶにはあまりに深く優しい、愛にも似た特別な感情を。

 優羽の表情が、ふと切なくなる。

 自分の声が先ほどより心持ち穏やかに、柔らかになるのを感じながら、梨生奈は続けた。

「あなたが最近思い悩んでるみたいだって、桜香に聞いたわ。実は今日来たのは、それを確かめるためでもあったの」

「桜香に、頼まれたのか」

「さぁ、それはどうかしら」

 ニヤリ、と笑いながら茶化すように答える。優羽は少しも腹を立てた様子を見せぬまま、梨生奈を見ていた。

 優しげになった声のまま、梨生奈は問うた。

「……悩んでいるのは、好きな人のこと?」

「まぁ、そんなところだ」

 溜息交じりの肯定を紡いだ後、そのまま堰を切ったように、これまでずっと抑えられていたのだろう様々な感情を乗せた言葉が、優羽の口から溢れ出した。

「俺は、アイツを傷つけた。同時に、大切だったはずの友人のことも……俺は、友情を壊した。それぐらい、取り返しのつかないことをしたんだ」

 とっさに答える言葉を見つけられなかった梨生奈は、しばらく何も答えなかった。しばしの沈黙が、部屋中を包む。

 やがて思いついたのは、たった一つのシンプルな答え。

「友達と喧嘩をしたら、仲直りをするのが常識というものよ」

 それは至極当たり前のことだ。今更何を言っているのかと、馬鹿にされるかもしれない。梨生奈は一瞬、言ったことを後悔する。

 しかし彼女の予想に反し、優羽はゆっくりと頬をほころばせた。まるで名案を思いついたかのように、その表情は明るいものになる。

「ありがとな、梨生奈」

「あら、わたしは別に何もしていないのに」

「言いたくなったんだよ」

 久しぶりに真っ直ぐな笑みを向けられ、梨生奈もつられて微笑む。


 桜香が言ったように、自分はちゃんと優羽を励ますことができただろうか。迷う優羽の背中を押すことができただろうか。自分が来たことで、これまで優羽が抱えていたものは少しでも軽くなっただろうか。

 それは、わからない。

 だけど、それでも……今日ここに来てよかったと、梨生奈は確かに心からそう思った。

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