風・その1

 どれだけ自分が努力しても、無駄なことくらい知っていた。

 たとえ天地がひっくり返ろうとも、彼が自分に振り向いてくれる日など、ありはしない。彼は一生、自分を――風早桜香という人間のことを、一人の女として見てはくれない。

 自分は、所詮彼にとって『身代わり』でしかない。他にもたくさんいる、セックスフレンドのうちの一人にすぎない。

 分かっているくせに、自分はどうあがいても彼から――花村優羽という人間から、離れることができないのだ。

 こんなの不毛だって、意味なんてないって、わざわざ他人から言われなくても知っていることだというのに。

 自室に置かれた、一人で寝るには広すぎるほどの大きなダブルベッド。きしり、と耳障りなスプリングの音と共に腰掛ければ、優羽はごく自然な手つきで、桜香をその上にそっと押し倒す。使用人の手によってピシッと整えられたシーツは冷たいけれど、すぐにその意味をなさなくなることを、桜香は既に把握していた。

 服の下に潜り込んでくる、大きな手。その長い指一本一本に、『あの人』に向けられた優しさと慈しみが込められているのが分かって、いつも泣きたい気持ちになる。

 首筋に落とされた口づけがくすぐったくて、桜香は思わず身を捩った。桜香、と耳元で囁く低い声に、キュッと胸が締め付けられる。

 この行為の終わりごろ、彼の余裕がなくなる頃には、その唇から漏れる名前は違うものへと――自分のものではない名前へと変わる。そのことに、優羽は気が付いているのだろうか。

 快楽をもたらすはずの行為は、いつも桜香を切なくさせる。本当に愛の込められたセックスならば、もっと充足感に満たされるのだろうか。

 ――いや、愛はあるのだ。溢れんばかりの、抱えきれないほどの愛は、いつも伝わってくる。

 ただしそれは、自分に向けられたものではない……。

 満たされないのだ、と彼は言う。本当に欲しいものが、どうしても手に入らないのだ、と。

 セックスの後に見せる寂しそうな横顔は、きっとその象徴で。

 だからせめて、その心の空白を一時でも満たしてあげたいと思う。手に入らないという彼の想い人の姿を、自分に重ねているのだとしても構わない。

 自分の幸せは、優羽の幸せの延長線上に存在する。そう、桜香は信じて疑わない。

 一時でも彼が幸せだと思ってくれるなら、自分も同じように幸せになれる。半ば盲目的な考えだとは思っても、そう考えていなければ――この関係に正当性を見出さなければ、ただ苦しいだけ。

 だから……分かっていながら桜香は、自分以外の幾人ものひとに触れた手で触れられることを許す。幾度も自分以外の名を呼んでは愛を囁き続けてきたのであろう唇に、自らの名を呼ばれることを許す。

 自分以外の誰かを一途に想う、彼の気持ちを汲み取り、その寂しさと切なさを決して拒否することなく、むしろ一時でも癒そうとする。一生自分に向くことのないであろう、彼の気持ちにそっと寄り添おうとする。

 それだけが、自分が彼に対してできる唯一のことだと信じて。


    ◆◆◆


 本来、桜香の通う学校は女子高であるため、身近な男といったらそれこそ家族と教師くらいしかいない。しかも規律の重んじられた、由緒正しきお嬢様学校だ。おおっぴらに自由な恋愛などしようものなら、おかしな評判が立ってしまうに決まっている。

 そんな彼女が、近くにある共学の高校の生徒である優羽と出会ったのは、ほんの偶然だった。


 ――ドンッ。

「きゃっ……」

「あぁ、ごめん。大丈夫?」

 放課後、いつものように「ごきげんよう」などとクラスメイト達と声を掛け合いながら帰路についていた桜香にぶつかってきたのは、少し長めの茶髪が特徴の、見るからに軽薄そうな他校の男子生徒。

 向こうが走ってきたため勢いがつき、衝撃に耐え切れず尻餅をついてしまった桜香の前に、その人はごく自然な仕草で大きな手を差し出してきた。

「あ、あの……」

「自分で立てる?」

 それとも、俺みたいなのに触れられるのは心外?

 戸惑う桜香にそう尋ねかけてくる彼には、その辺りの不良のような怖さはなかった。女子校育ちのため男慣れしていない桜香の心情を悟ったのか、こちらを安心させるかのようににっこりと、下衆さの欠片もない温かな笑みを向けてくる。

 なんだか彼が信用に足る人間のような気がして、桜香はおずおずとその手を取った。すぐに手ごと引き上げられ、そっと立ち上がらせてくれる。着崩した制服や派手目の顔立ちとは対照的に、彼の手つきや仕草はまるで理想と言っても差し支えないほどに紳士的だった。

 改めて向かい合うと、桜香の顔を真正面から見た彼は、少し驚いたように目を見張った。それから一瞬だけ、茶色い瞳を切なそうに揺らす。

 瞬きでもしていたら確実に見逃していたであろうその表情の変化が、桜香の印象に強く残った。

「……あの、申し訳ありませんでした。それと……ありがとうございます」

 軽くスカートを掃い、裾をつまんで恭しく礼をする。異様な光景かもしれないが、桜香にとってはこれが日常の挨拶だ。

 それでは、と軽く会釈した後、そのまま彼の前を立ち去ろうとしたところ、不意に真剣な声色で呼び止められた。

「待って」

 振り返れば、先ほどのように少し切なげな表情を浮かべた彼の姿。心臓を鷲掴みにされたかのような気持ちになって、桜香は思わず動きを止めた。

「なん、でしょうか」

「初対面の人に……しかも由緒正しきお嬢様学校に通うようなご身分の人に、こんなことを言うのもなんなんだけど、さ」

「はい」

「……よかったら、連絡先を交換したいんだけど」

 普通に考えれば、それはナンパにも似た不躾な言葉だ。本来ならば『生憎ですけれど……』などと取り繕うようなことを言って、断らなければならない誘いのはず。

 けれど桜香には、できそうになかった。

 そう言う彼がどこか縋るような、真剣な瞳で桜香を見ていたから。

 ――多分、その時点で桜香はあっけなく打ち抜かれていたのだ。その、あまりに真っ直ぐで真剣なまなざしに。

 頭で判断する前に、桜香はまるでそれが至極当たり前のことであるかのように、自然にコクリとうなずいていた。


 それが、花村優羽との出会い。

 そしてその瞬間から、桜香の決して叶わぬ恋が始まった。


 それ以来連絡を交わし、一緒にお茶を飲んだりして……自然と、身体を許すような関係になっていた。気付いた時には、優羽の腕に抱かれる自分を、誇りにさえ思うようになっていた。

 それが傍から見れば、ひどく歪んだ形になっているということには、十分すぎるくらい気付いていたけれど――……。

 桜香の両親は海外にいて、広い屋敷には普段桜香本人と住み込みのお手伝いさんが何人かいるだけだ。それをいいことに、桜香の自室で頻繁に逢瀬を重ねていた。

 二人が会っているのを目撃したのであろう同級生や、軽薄そうな見た目の男を頻繁に連れ込む令嬢を快く思っていないのであろう使用人たちからは、幾度も「騙されている」とか「早く縁を切ったほうがいい」とか、「いずれ後悔する」などと再三の忠告を受けた。

 そのたびに、くだらない、と思う。

 そんなの、言われなくたってとうに分かっていることなのに。

「後悔なんて、最初からしないわ」

 それが指し示される『幸福』などでないことくらい、分かっている。

 だけどそれでも、手放さなかったのは自分の方。優羽に従っているのは他でもない、自分の意志。


 優羽が自分を見てくれていないことを、桜香は早くから理解していた。

 風早桜香自身ではなく、風早桜香を通した誰かを見ているのだと。その面影を愛し、その腕に抱いているのだと。

『――……』

 行為の終盤、昂ぶってきた時に優羽がうわ言のように口にするのは、耳慣れない誰かの名前。桜香ではない、誰か別の人の名前。

「――……」

 ほら、今日もあなたは、あたしじゃない誰かの名を紡ぐ。あたしじゃない誰かのことを思いながら、その代わりとしてあたしを抱く。

 それは言葉にならないまま、熱い吐息となって消えていく。

 そして同時に、身体の中の何かがパァン、と弾けて――……快楽の波に、二人同時に溺れていくのだ。


    ◆◆◆


『もしもし、昨日はありがとう。大丈夫だった?』

 自室の広いベッドに腰掛けながら、お風呂から上がった桜香は、タオルで髪を拭きながら携帯電話を耳に当てる。受話器の向こうからは、どこか心配そうな愛しい声が聞こえていた。

 激しい行為の翌日は、いつもこうやって電話を掛けてきてくれる。体調を心配してくれるのは、とても嬉しい。名前の通り、とても優しい人だ。

「平気だよ。こっちこそ、気遣ってくれてありがとう」

 努めて明るい声で答える。

 彼女の受け答えに心苦しさを感じたのか、優羽は一瞬、言葉を詰まらせた。少し間が空いたのち、一転してひどく弱々しい声が耳に届く。

『ごめんね……』

 好きになれなくて、ごめんね。

 桜香は思わず息を呑んだ。今まで暗に好きな人がいるらしいことは聞いていたし、予感だってもちろんしていたけれど、そういったことを直接告げられるのは初めてだったから。

「大丈夫だよ」

 風がその頬を撫でるように、桜香はそっと呟く。ハッとしたような優羽の吐息が、僅かに漏れ聞こえた。

「優羽くんが他の人を好きなのは知ってる。その人が振り向いてくれないから寂しくて、あたしや他の女の子を慰めにしているんだよね。そうでもしなきゃ、優羽くんは苦しくて仕方ないんだよね」

 掠れた相槌が、時折耳をくすぐる。何も言わなかったけれど、自分が全てを察していたことに、優羽は気付いていたのだろうか。

「あたしは、それでもいいと思ってるの。それで優羽くんの苦しみが、少しでもまぎれるなら。少しでも、優羽くんが笑顔になってくれるなら、それで」

『……ありがとう』

 心から安堵したような声に、桜香はクスッ、と小さく笑った。普段は包み込んでくれるみたいに優しくて、紳士的ないい人なのに、こんな子供っぽくて弱々しい所があるから、彼を放っておくことだけはどうしても出来ない。

 そうするべき人間が、たとえ自分ではないとしても……それでも、少しでも自分がいて安心だって思ってくれたら、自分が彼にとってのちょっとした心の拠り所であってくれたら、それだけでいい。

「今日は、他の人のところへ行ってるの?」

『いや……どこにも行ってない。家にいる』

「あたし、今日も付き合おうか?」

『疲れたから、今日はもう寝る。二日も桜香を拘束するわけにはいかないし……それに今日は、一人になりたいんだ』

 そう言うだろうと、本当は予想していた。だってあなたは前からずっと、誰に対してもそういう心配りができる人だから。

 だけどちょっとだけ、意図的に意地悪を言ってみる。

「寂しがり屋の優羽くんにしては、珍しいね」

『……なかなか、言うようになったじゃん』

 苦笑気味の言葉に、ふふ、と余裕の笑みが零れる。

「……じゃあ、もう切るね。お休み、優羽くん。いい夢を」

『ありがとう。お休み、桜香』

 電話を切った後も、しばらくの間は耳に受話器を当てたままにしていた。忘れたくても忘れられない、特徴的なあの声が、まだ遠くから耳をくすぐっている気がする。

「おやすみなさい、優羽くん」

 やがて受話器から耳を離した桜香は、とうの昔に待ち受けへと戻っていた携帯電話の画面に、そっと一つキスを落とした。

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