松・その3
「花村優羽くん、っているでしょう」
桜香の口からその名を聞いたのは、バイト先である喫茶店で会うようになって幾度目かのこと。ちょうど話題が互いの恋愛事情――もちろん、梨生奈にとっては個人的にタブーな部分もいくつかあるのだが――になった時だった。
「好きな人がいるんだ」と前置きしてから、まるでこちらの様子をうかがうかのような目つきで、彼女はそう言った。
「……花村優羽」
「そう。……いる、よね?」
「えぇ、いるわね。……クラスは違うけど」
動揺を悟られないように、できるだけ淡々とした静かな声を心がけながら、無難な回答を紡ぐ。
幸い桜香はそんな内心にまで考えが及ばなかったようで、梨生奈の至極簡潔な返答に対して「そうなんだ」とだけ反応した。長い睫毛が伏せられ、黒い瞳に影が落ちる。
「その人が、桜香の好きな人?」
何となく桜香に元気がないような気がして、梨生奈は恐る恐るといったように尋ねた。桜香は小さくうなずくと、言いあぐねるように幾度か口を開閉させる。それから一分ほど黙った後、「……あのね」と言いにくそうに答えた。
「いきなりこんなこと言ったら、梨生奈ちゃんは戸惑っちゃうかもしれないけれど」
「うん」
「あたしね、その人の……」
セックスフレンド、なの。
清楚なお嬢様然とした彼女の口から出た、本来場違いなはずの卑猥な単語に、梨生奈は思わず彼女の顔をまじまじと見つめた。
「……へ?」
◆◆◆
花村優羽とは、過去に少しの間だけ身体の関係を持っていたことがあった。端的に言えば、セフレ……いわゆるセックスフレンドみたいなものだ。
あの頃から梨生奈は、玲に対する片想いにずいぶんと苦しんでいた。どうやったら興味を持ってもらえるかとか、少しでも彼の視界に入るにはどうしたらいいんだろうとか、そういうことばかり考えていて、その他のことが何も手に付かない状態だった。恋煩いというものが本当にあるなら、おそらくこの時に抱いていた気持ちのことだろう。まぁ、今も大して変わらないが……。
白状してしまえば、彼を想いながら自らを慰めたこともあった。
でも当然ながら、それだけでは足りない。自分の手ではない、確かなものが欲しかった。彼の温もりに、この手で触れたかった。彼の綺麗な手で、この身に触れてほしかった。
そんな時に声を掛けてきたのが、玲の友人で他のクラスに属する男子生徒――花村優羽だった。玲に焦がれる自分の姿を見て何を思ったのか知らないが、あちらから「セックスしないか」と誘ってきたのだ。
当然、最初は断った。玲以外の男に抱かれるだなんて、想像するだけで吐き気を催すようなものだったから。
だけど……。
あれはいつのことだったろう。校舎裏かどこかで二人きりになった時、あまりに哀しげな、縋るような優羽の瞳に、胸を掴まれてしまって。
彼の本心と思しき言葉が、震える唇から紡がれた。
『好きな人が、いるんだ』
お前だって、同じだろう? 俺と同じ寂しさとか、やりきれない想いを、その胸に秘めているんだろう?
えぇ、そうよ。その通りだわ。
心の中だけで呟きながら、胸に触れる大きな手を、両手で包み込むようにして取る。本当に血が通っているのか一瞬疑ってしまうほどに、それはひどく冷たかった。
もう限界だった。片思いの切なさにも、心に吹く隙間風の冷たさにも、届けたいのに届けられない想いを抱え続ける苦しさにも……これ以上一人で耐えるのは、辛かった。
そう。梨生奈と優羽の利害は、その時ちょうど一致したのだ。
そのまま衝動のように降ってきた柔らかな唇に、身体を絡め取りあちこち這い回ってくるしっかりとした手に、抗うことはできなかった。
二人はまるで寂しさを埋めるかのように、無我夢中で互いを貪った。
――それ以来、優羽と梨生奈は定期的に会い、身体を重ね続けた。
放課後の空き教室とか、校舎裏とか、学校内の人目に付きにくい場所で、梨生奈は幾度も優羽に抱かれた。梨生奈は玲を、優羽は想い人だという別の誰かを、それぞれ心に描きながら。
優羽は自分以外にも様々な女子を抱いているともっぱらの噂だったけれど、それも全て寂しさや切なさを癒すため。一人で痛みに耐えられない、どうしようもなく弱い心を持っているから。
優羽がそのことを自分の口から語ることはなかったけれど、きっとそうなのだろうと梨生奈は納得していた。
確かに梨生奈は、優羽を仲間だと思っていた。同じように片想いに苦しみ、どうしたらいいのか分からなくてもがき苦しんでいるのだと。
そう、思っていたはずなのに。
それが徐々に変わり始めてきたのは、一体何故だったか。
明確な出来事があったわけではない。けれど逢瀬を重ねるたび、梨生奈は自分の中で徐々に優羽の存在が大きくなっていくのを感じていた。
梨生奈の中に戸惑いが生まれた。そして……怖くなった。
会うたびに、身体を重ねることで互いを慰め合うたびに、だんだん花村優羽という男に惹かれていく自分が。玲に対して長い間抱いてきたはずの想いが、彼の存在によって真っ黒に塗りつぶされていくことが。
玲への恋心が、いずれなかったことにされるのではないかと思うと、恐ろしくてたまらなくなった。
要は、不器用だったのだ。
身体の関係だけだと、身体の温もりと恋心はまた別物なのだと、割り切りながら関係を続けていくことが、梨生奈にはどうしてもできなかった。優羽に対する情に、だんだん
このままでは、忘れ去られてしまう。長年培ってきたはずの、秋月玲に対する甘く激しい恋心が……新しい存在によって、別の色へと塗りつぶされていってしまう。跡形もなく、崩れ去ってしまう。
もしそうなってしまったら、自分は一体どうすればいいのだろうか? 玲に対するこの大きな想いこそが、自分にとって全てだったというのに。
しかも優羽には、他に好きな人がいるのだ。
もしそちらへ一歩でも踏み込んでしまえば、今以上に叶わぬ恋に苦しまなければならなくなってしまうだろう。
優羽の好きな人が、誰なのかは知らない。それでも彼の心が決してこちらに向くことはないと、梨生奈には分かっていた。
そうでなければ、あんなふうに――その熱を求め貪るかのように、荒々しく自分を抱くはずがない。本当に大切に想っている人だからこそ、触れるのはためらわれる……花村優羽とは、きっとそういう人間だ。
こんな気持ちは、きっと紛い物。一刻も早く彼から離れて、心から抹消してしまわなければならない。
そう思った梨生奈は、ある日優羽に対して唐突にこう告げた。
「もう、終わりにしましょう」
こうやって会って、身体を重ねるような……不毛な真似は。
優羽は柔らかな表情で「どうして」とだけ言った。
勘のいい彼のことだ、こちらの心情などとうに察しているのだろう。そう思うと、あまりの羞恥に耐えられなくなりそうだった。
「ただ単に欲望を吐き出すためだけだったら……別に、わたしじゃなくてもいいでしょう」
「お前は、それでいいの?」
俺がいなくなっても、その寂しさに一人で耐えられるの?
唇を噛み、うつむく。
だって、こうでもしなければ……別の感情に、心を支配されてしまうもの。こうするしか、ないのだもの。
「いい、わ」
顔を上げ、決意を込めた瞳で彼を見据える。
優羽は両手を上げ、肩をすくめるような仕草をしたあと、存外あっさりと答えた。
「わかったよ」
お前とは、これでさよならだ。――梨生奈。
落ち着いたトーンで呼ばれた名に、心がズキリと痛む。込み上げるものにわざと知らない振りをして、梨生奈は優羽へと背を向けた。
立ち去る梨生奈を、優羽は追ってこなかった。大方、こちらの気持ちを
その優しさはありがたく……同時に、痛かった。
こうして、梨生奈と優羽の短い関係は途絶えたのだった。
◆◆◆
別れを告げて以来、梨生奈は徹底的に優羽を避け続けていた。それは、半ば意地のようなものだったかもしれない。
優羽を拒絶してからある程度の月日が経つと、梨生奈の中にはすでに玲への想いが戻ってきていた。その存在を、さらに強めた状態で。
その後結局本人へ気持ちを打ち明け、結果見事に玉砕することになるわけだが……。
目の前に座っている、自分と正反対の境遇にあるお嬢様然とした少女の口から、まさか再び花村優羽の名を聞くことになるとは思いもしなかった。しかも、その関係がセックスフレンドだとは。
優羽が某高校の生徒だけでなく、幅広い場所の女性と関係を持っているらしいことは、なんとなく知っていた。けれどまさか、こんな身近にその対象者がいたとは。
ポカンとだらしなく口を開いたまま桜香を凝視する梨生奈に対し、当の彼女はいっそ異常と言っていいほどまでに落ち着き払っていた。
「優羽くんは、あたしのことをその人に見立てて抱いている。それをわかっているけれど……あたしは、それを受け入れているんだよ」
「桜香っ」
渇いた唇から零れた、悲鳴のように短く発された名は、まるでその主を咎めるかのような響きを伴う。静かに口を紡ぐ桜香を、強気に睨んだ。穏やかすぎるほどの笑みに、胸が痛む。
酷なこととはわかっていながらも、どうしても物申さずにはいられなかった。過去の自分がかつて辿り、途中で立ち止まって引き返してきたはずの道を、ためらいなく進んでいこうとしている……そんな、哀れな彼女に。
「セックスフレンドの意味、分かってるの? あちらの気が向いた時にだけ呼び出されて、好きなように身体を弄ばれる。所詮、花村にとってあなたは都合のいい女でしかないのよ」
「それでも、いいよ」
予想に反し、返ってきた台詞はひどくシンプルだった。お嬢様然とした淑やかな微笑みとともに、桜香は続ける。
「あたしはね、梨生奈ちゃん。優羽くんが自分を通して違う人を見ていることくらいわかってるし、それでも構わないと思っているの」
紡がれるのは激昂に任せた暴言でもなければ、諦めたような肯定でもない。ただ、至極当たり前のことを語っているみたいな、そんな言葉。
「あたしを抱くことで……あたしとのセックスで、一時でも彼が幸せな気持ちになってくれるなら」
あまりに純粋で、まっすぐな想い。
利用されているのであろうことも、自分の想いが叶わないことも、全て知っているのに……それでも彼の苦しみが癒されるというのなら、自分はすべてを捧げてもいいのだと。
彼の幸せのためならば、自分はどうなろうと構わないのだと。
自分はかつて抱き始めた、叶わぬ想いから逃げた。けれど桜香はそこから決して目を背けることなく、まっすぐにぶつかっている。
全てを、受け入れている。
その無垢な感情は、決して報われるものではないというのに。
「どうして……」
目の前のきらめく黒い瞳から逃れるように、視線を下に落とす。膝の上で握りしめた両手に、ぽとりと透明な滴が落ちた。
「り、梨生奈ちゃん?」
戸惑うような桜香の声にも、今はうまく答えられそうにない。
梨生奈はそのまま唇を噛み、ただポロポロと涙を流し続けた。
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