松・その2
『彼女』に初めて出会ったのは、確かバイト先の喫茶店でだったと梨生奈は記憶している。
梨生奈が通っている某高校では、基本的にアルバイトは禁止されている。だが梨生奈だけは、あまり潤っているとはいいがたい我が家の家計を助けるために、特別に学校から許可をもらってアルバイトをしていた。
そんな彼女が働いているのは、某高校近くの街角に位置する小さな喫茶店。そこには老若男女問わず、一時の安らぎを求めて来店してくる人間が多くいた。いつも特別賑わっているというわけではないけれど、毎日そこそこの客入りがある。
そんな客の中に、いつしか『彼女』を見かけるようになった。
このあたりで見かけるには珍しい、某女子高の制服に身を包んだ少女。小柄で、サラサラとした黒髪を上の方で二つに縛っている。可愛らしい顔立ちではあるものの、淑やかな物腰からはお嬢様独特の気品が漂ってきていて……一目見た瞬間、すぐに梨生奈は察したものだ。
――あぁ、この子は間違いなく、自分とは正反対の育ちをしている。
彼女のような人間と自分には、きっと接点などないだろう。何せ通う学校すら違うのだ。自分たちの道は、ただの少しも交わることなどないに違いない。これまでがそうであったように……きっと、これからも、ずっと。
そう、思っていた。
まさかそんな彼女と、自分がこれから深い関わりを持っていくことになるなんて……その時の梨生奈は、予想すらしていなかった。
それにしても不思議な光景だ――……いつしかこの店の常連と化していた彼女を見て、梨生奈はいつもそう思う。
何故なら彼女には、ここに来る理由などないはず。こんなところになど来なくても、もともと某女子高には、付属の喫茶店があるのだから。
だとしたら他に思いつく理由としては、単なる気まぐれか。それともこの店の雰囲気が、たまたまあのお嬢様の好みに合致したか。もしくは……この場所で、誰かと待ち合わせをしているか。
けれどそれにしては、彼女は一人きりでいることが多い。
奥の仕切られた二人掛けの席――もはやほとんど彼女の特等席になっている――にちょこんと座った彼女は、机に頬杖を突きながら、何やら考え事でもしているかのようにぼうっとしているのが常だった。
注文するのは、いつも決まって甘い甘いハニーラテ。
席まで運んで行ってやれば、それはもう清楚なお嬢様然とした淑やかな笑みを浮かべながら「ありがとうございます」なんて言ってくる。
そんな彼女のことが、梨生奈はいつしか気になってたまらなくなった。端的に言えば、話してみたい、と思ったのだ。身分違いだとか、身の程をわきまえるべきだとか……そんな至極くだらないはずのことを、考えれば考えるほどに、反比例みたいにその気持ちはむくむくと湧き起っていく。
ある日、いつものように注文されたハニーラテをテーブルまで運んで行った梨生奈は、思い切って彼女に話しかけてみた。
「あの、某女子高の人ですよね」
そんなことは着ている制服を見れば一目瞭然なのだが、話の導入としてはそれしか思いつかなかった。
「えぇ」
案の定、彼女は曖昧に笑う。それでも梨生奈のことを無下にした様子はなく、その態度が緊張気味だった梨生奈を少しだけホッとした気持ちにさせてくれた。
「えと、某女子高って喫茶店がありますよね。付属の」
「そうですね。……でも、あそこって同じ学校の子ばっかりいて……まぁ、当たり前なんですけど。どうにも、落ち着かなくて」
このお店の方が、静かだし、何というか……とっても、好きなんです。
控えめでありながらも芯を持ったその受け答えに、梨生奈は自然と笑みを零していた。バイト先とはいえ、一応自分が関わっている場所のことをそんな風に褒められたことが、嬉しかったのかもしれない。
「ありがとうございます」
トレーを手にウエイトレスよろしく大仰に礼をしてみせると、彼女はふんわりと笑った。
「じゃあ、あたしの方からも質問させてもらっていいですか」
その口から出た予想外の言葉に、梨生奈は目をぱちくりとさせる。まさか質問返しをされるなどとは思わなかったし……淑やかそうな彼女の一人称が『あたし』であることにも驚いた(まぁ、これには多少偏見も含まれていたのかもしれないが)。
戸惑いつつもうなずけば、柔らかな笑みを浮かべたままでこちらを見つめてくる。あまりに邪気のない、自分とは正反対であるそれに当てられた梨生奈は、思わずちょっとした眩暈を覚えた。
「あなたは、このお店で働いてどれくらいになるんですか」
「えと……」
目頭を押さえる。眩暈を抑えるためだったのだが、彼女からは単純に考えているように見えるだろう。
「一年と少し、くらいになるかしら。言っても、バイトなんですけど」
「アルバイト? というと、学生さんなんですか?」
「えぇ。わたし、某高校に通ってて……ホントはうちの学校ってバイト禁止なんだけど、特別に許可をもらって働かせてもらっているんです。いわゆる、特権ってやつ」
喋っているうちにリラックスしてきたのか、話し口調からだんだん丁寧さが抜けてきていることを自覚した梨生奈は、思わずハッと口を手で押さえた。「も、申し訳ありません。お客様に無礼な態度を……」などと言い訳のように零すと、彼女は思わずといったようにクスリと笑う。
「別に、気にせずともよろしいんですよ。……どうやらあたしたち、同じくらいの年ごろのようですし。気を遣われるのも、居心地いいものではないので」
まぁ、立ち話も何ですし、座って。
言いながら向かいの席を手で指す彼女の仕草は、非常に自然で手慣れているように見えた。コホン、と咳払いをした梨生奈は「失礼します」と一声かけてからその場所へ腰を下ろした。
仕事中であることはもちろんわかっていたのだが、今はそんなに客入りが多いわけではないし、自分ひとりが抜けたところでそんなに支障はないだろう……頭の中で、そんな言い訳がましいことを考える。
それに……どうやら今の会話で、彼女の興味を惹くことに成功したらしい。そして同時に、梨生奈の中にあった彼女に対する興味も、当初よりさらに大きく膨らんでいた。
それから梨生奈と彼女は、しばらく他愛のない話をした。私生活のこと――主に趣味などのこととか、互いに通っている高校でのこととか。
もちろん梨生奈にもお金持ちの生活に対する興味があったため、様々な質問をした。いっそ素朴ともいうべきその一つ一つに、彼女は明確に、そして丁寧に答えてくれた。
一方の彼女の方も、こちらに対して根掘り葉掘りいろんなことを尋ねてきた。なんでも小学校からずっと女子校に通っていたらしく、共学かつ庶民の学生たちの生活に対して、非常に興味があるということらしい。
そんな彼女に、梨生奈は某高校での生活を包み隠さず語った。一風変わった生徒会のことや、学年で専らの噂である美男美女のこと、大規模な文化祭のことなど、本当に色々なことを。
途中から敬語はすっかり抜けてしまっていたが、そんなことも気にならないくらいに夢中で話した。
「それでね、仮装した三人の女の子……生徒会長と副会長と書記さんだったんだけど、授業受けてたらその子たちがいきなり教室に入ってきて」
「まぁ」
「先生たちはそのこと知ってたらしくて、いつの間に持ち込んでたのかお菓子を渡したの。そしたらおっきなクラッカー取り出して、パァンって」
「あら、何事でしょう!」
「クラッカーの発砲とともに、袋に包まれたかぼちゃ味の飴があちこちにばら撒かれて……んで結局三人は、そのまま出てっちゃったんだ」
「それはまた……衝撃的な出来事ですね」
「まぁ、わたしもちょっとびっくりしちゃったけど。生徒会の面々がそういう突拍子もないことやるのって、結構日常茶飯事だから」
「そうなんですか。でも、ホントに毎日楽しそうですね」
「えぇ、とっても」
楽しそうに笑ったり、心から驚いたように目をぱちくりとさせたり。そういった純粋で素直な反応が嬉しくて、もっといろんなことを教えてあげたくなってしまう。
もっと話したいと思ったけれど、時間が過ぎるのは早いもので……。
「あら、もうこんな時間」
店内の掛け時計を見た彼女が、焦ったように言う。つられてそちらを見れば、時計の針はちょうど五時半を指そうとしていた。
「ごめんなさい。そろそろあたし、行かなくちゃ」
「いいのよ。ごめんね、つい引き止めちゃって」
「いえ。引き止めたのはこちらですし……あなたのお話は、とても楽しかったので」
またこうやって、お話させていただいてもいいですか?
思ってもみない申し出に、久しぶりに心が弾んだ。感情のままに笑うことができたのは、もう何年振りのことだろう。
「こちらこそ、あなたさえよければいつでも」
「えぇ、是非」
笑みを浮かべながら立ち上がった彼女に、そういえば、と梨生奈は引き止めるように言う。
「名前、まだ聞いていなかったわね」
「あ、そうでしたね。あたし、風早桜香といいます」
「わたしは、松木梨生奈」
「松木さん、ですね」
「梨生奈でいいわ。こっちも、桜香って呼んでいい?」
「はい」
返事をした後、彼女――桜香は不意にはにかんだ。
「……なんだか、こういうのっていいですね」
お友達、みたいで。
照れたように発されたお友達、という言葉が、なんとなく寂しいような響きに思えたのは、梨生奈の気のせいだったのだろうか。
今のところ桜香の方に、その真意を打ち明ける気はなさそうだが……まぁ、今日が実質初対面のようなものだから、当然といえば当然か。
一緒にレジまで着いて行き、会計をする。ハニーラテ一杯分の値段は決して高くはないのだが、そこはやはりカード払いで済まされた。
「では、今日はありがとうございました」
優雅に一礼してから、急ぐ様子もなくおっとりと去っていく桜香の所作は、紛うことなく由緒正しき令嬢のそれで。
ずっと気になっていた存在の少女と話をできたことは、もちろん嬉しくもあった。けれどその後ろ姿を見送っていると、やはり彼女と自分とでは住む世界が根本的に違うのだな、と梨生奈は実感せずにいられなかった。
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