風・その2

 もともと桜香には、友人と呼べるほどの親しい存在がなかった。

 同じ学校の同級生やクラスメイトなどとは、もちろんそれなりに話をすることもある。けれどその人たちと過ごす空間は、彼女にとって心安らげるものではなく……どちらかと言えば、窮屈だった。

 それは多分、壁を作り続けてきたからなのだろう。

 昔から桜香は、人付き合いにどこか一線を引いていた。心の奥にある柔らかい場所に、直接触れられることを嫌っていた。だからこそ彼女は、自分で引いた一定のラインから、その奥に踏み込んでこようとする人間を無意識に拒み続けてきた。

 学校での同級生にも、広い家で雇っている使用人たちにも。離れて暮らす血の繋がった両親にさえも、桜香は自分の全てをさらけ出そうとしなかった。さらけ出したいとは、思わなかった。

 そう、ただ一人の存在を除いては。


 初めて恋をした相手――花村優羽に、桜香はできる限り自分の全てをさらけ出したいと思っていた。自分の全てを、捧げたいと思った。普段の敬語口調を彼の前でだけ崩すのも、その心の表れだ。

 それなのに、上手くいかないのはどうしてなのだろう。

 求められるままに身体を重ねるのは、こんなにも簡単なことなのに……自分のことを話すのだけは、やっぱりどうしても苦手で。

 そんな彼女を、優羽は無理に問い詰めてこようとはしなかった。桜香が口に出すことだけを、ただ聞いてくれた。

 だからこそ、桜香は楽でいられた。口に出したいことだけを出せばいいし、彼の言葉を聞いているだけで構わないのだ。優羽と過ごすベッドの中は、そういう意味で桜香にとって心地の良い場所だった。

 激しい行為のあとに訪れる、気怠さを伴った時間。そこに蔓延はびこる空気は、自分たちの心情を思えばもちろん切なく、息苦しくあったけれど……それでもいいと思ってしまうくらいに、桜香は優羽との時間を大切に想っていた。

 たとえ、優羽が自分以外の女の子にも同じように接し、同じようにその腕で抱いていることを知っていても。そうやって彼が常に自分以外の誰かの面影を追っているのだと、頭で分かっていても。

 彼の心は、既に自分以外の誰かのものなのだと……自分の知らない一つの存在が、彼の心の全てを支配しているのだと、理解していても。


    ◆◆◆


 その喫茶店へ足しげく通い始めたのは、一体いつのことだったろう。

 桜香の通う某女子高には、いくつかの付属設備がある。図書館も、喫茶店も、至極当然のように存在した。

 そこの生徒である自分は、必然的に付属設備を利用することになる。自分だけじゃない、この学校の生徒は大概そう。周りは知っている人たちばかりなので気軽だし、何より学校のすぐ近くだから、ちょっと寄り道するのには最適の場所なのだ。

 けれど桜香は、その付属設備をあまり好んでいなかった。右を見ても左を見ても、同じ学校の生徒たち――しかも、当然ながら全員女子――が揃っており、皆それぞれ好き勝手に喋っているという至極かしましい空間は、桜香にとってむしろ居心地が悪いだけだったから。

 心安らげる友人もいない桜香は、授業が終わればすぐに学校から一人でまっすぐ帰宅するのが常だった。

 その喫茶店は、彼女がいつも通る帰り道にあった。

 某高校の前を通り過ぎてから約数分、やがて現れる突き当たりを見渡せば、ちょうど左手にポツンと建っている小さな店。ガラス張りの店頭からは、茶色やベージュを基調としたレトロな空間が垣間見える。そこでくつろぐ数人の客たちは、皆心から安堵しているような表情を浮かべていた。

 もしかしたら、それがうらやましかったのかもしれない。

 いつも無理して作っている、令嬢らしく備え付けられた上品な笑みじゃなくて……あんな風に心から、自然で無邪気な笑みを浮かべてみたいと、心の奥底で願ったからかもしれない。

 気づけば、足が店内へと向いていた。

「いらっしゃいませ」

 艶やかな笑みと共に迎えてくれた店員は、パッと見自分と同じくらいの年ごろのようだった。けれどこのあたりにある高校といえば某女子高と某高校くらいだし、どちらの学校も確かアルバイトは禁止されているはずなので、きっと若く見えるだけで実際はもっと年上の女性なのだろう。

 四時頃というこの時間帯にはあまり来る客もいないようで、いつものように好きなお席をお選びいただけますよと言われた桜香は、奥の方に位置する仕切られた席を指定する。

 店員に着いて店の奥まで行くと、こぢんまりとした小さな空間が二つあるのを見つける。右手の方には四人掛けの少し大きなテーブルが、左手の方には二人掛けの小さなテーブルがあった。

 店員は左手の方――二人掛けのテーブルへと桜香を案内した。促されるがまま椅子を引き、浅く腰かける。手渡されたメニューを開き、目についたハニーラテを注文することにした。味の調節も可能ということなので、とびきり甘く、と指定する。

 いつものハニーラテは、かなりの甘党である桜香にとっても非常に甘い。少し甘すぎるくらいにも思うけれど、独特の甘ったるさが逆に心地いいのだ。

 店内に流れるジャズミュージックと、時折漏れ聞こえてくる客や店員たちの会話以外に、音はない。余計な雑音がない落ち着いた空間は、桜香の心を癒した。

 ――そうだ。この空気を求めて、毎日通うようになったんだった。

 頬杖を突きながらぼんやりと待っていれば、やがてあの店員がハニーラテを銀色のトレーに乗せて運んでくる。

「お待たせいたしました、ハニーラテでございます」

 コトリ、と置かれたカップからは、白い湯気と共に甘い蜂蜜の香りがした。

 顔を上げた桜香は、そこでふと異変に気付いた。いつもならば注文の品を置いてすぐに去っていくはずの店員が、まだ傍に立っていたのだ。

 どうしたんですか、と尋ねようとしたところで、黙って突っ立っていた店員が口を開いた。

「あの、某女子高の人ですよね」

 まさか開口一番そんな問いを吹っかけられてくるとは思わなかったので、いささか驚いてしまう。それでも笑みを貼り付けたまま「えぇ」と答えれば、彼女はさらにこう言ってきた。

「えと、某女子高って喫茶店がありますよね。付属の」

「そうですね」

 同じ調子で桜香は答える。それから少し間を置いたあと、溜まっていたものが不意に吐き出されたかのように、桜香はこんなことを言っていた。

「でも、あそこって同じ学校の子ばっかりいて……まぁ、当たり前なんですけど。どうにも、落ち着かなくて」

 このお店の方が、静かだし、何というか……とっても、好きなんです。

「ありがとうございます」

 トレーを手に大仰な礼をした店員に、桜香は自然と笑みを返していた。

 もっとこの人と話がしてみたいと、桜香は漠然と思った。どうしてなのかは、わからなかったけれど。

「じゃあ、あたしの方からも質問させてもらっていいですか」

 この言葉が、いわば彼女にとっての合図みたいなものだった。人前ではほとんど使わない砕けた一人称こそが、自分が今リラックスしているのだという確たる証拠で。

 そんな風になっている自分自身に戸惑いながらも、桜香は店員に対して自然と話しかけていた。

 聞けば、彼女は某高校の生徒だという。本来はアルバイト禁止であるはずなのだが、特別に許可をもらってバイトしているとのことだった。

 もっと年上だと思っていたのだが……某高校に通っているということは、やはり同い年くらいなのか。

 そこでさらに親近感を覚えた桜香は、向かいの席に彼女を座らせると、本格的に彼女と話す態勢に入った。仕事中である彼女を引き留めることに多少の抵抗は感じたものの、彼女自身それを気にした様子はあまりなかったので、別にいいかと割り切ることにする。

 彼女の方でも某女子高のこと――自分たちのような『金持ち』と呼ばれる存在に興味があるのか、色んなことを尋ねられた。学校内はどうなっているのかとか、設備はどんなものがあるのかとか、女の子ばっかりの空間はどんな感じかとか、家はやはり広いのかとか……言ってみれば素朴なものばかりだったけれど、彼女の持つ純粋な疑問に答えてあげようと、一つ一つ詳しく解説する。

 すごいすごい、と彼女は目を輝かせた。それがまるで物語を聞かされている子供のようで、ついもっと話したくなってしまう。

 逆にこちらの方からも、質問をした。ずっと女子校だったため、共学というシステムにも興味があったし、そういう場所で彼女たちはどんな自由な生活を送っているのかというのも知りたかった。

 彼女が話してくれること――奇想天外な生徒会のこととか、学年に広まるちょっとおかしな噂とか、某女子高に負けないくらいの大規模なイベントのこととか――は、どれも面白かった。賑やかで楽しく、自由な環境は、まるで夢のようだった。

「ホントに毎日楽しそうですね」

「えぇ、とっても」

 嬉しそうにうなずいた彼女に、つられて笑みを零す。

 できればもっと話していたいと、ずっとこんな時間が続けばいいと、心から思っていたのだけれど……。

「あら、もうこんな時間」

 店内の掛け時計をふと見れば、その針はもう五時半を指そうとしていた。今日はこれから、優羽と会うことになっているのだ。

 向かいに座る彼女に断りを入れ、桜香は急いで立ち上がる。その時に名を聞かれたので、素直に名乗った。

 彼女の名は、松木梨生奈というらしい。下の名で呼んで構わないということだったので、その言葉に甘えさせてもらうことにした。

 彼女からは、下の名で『桜香』と呼ばれることになった。その響きが嬉しくて、会計を済ませ外へ出た後も、幾度か口の中で繰り返す。

 ――桜香。

「梨生奈、ちゃん」

 鼻歌を歌いながら、待ち合わせ場所へと向かう。

 自分の機嫌がよくなっていることに気付いたのは、その後まもなく落ち合った優羽にその態度を指摘されてからだった。

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