鳥・その5
「取り乱しちゃってごめんね」
一夜明け、いつも通り教室に入った奏は、先に登校していた玲のところへ真っ先に行き――第一声として、そんな言葉を放った。
「もう、大丈夫なのか」
玲が浮かべるほとんど変化のない無表情も、ぶっきらぼうで淡々とした低い声も、相変わらずだ。しかしその切れ長の瞳だけは心配そうで、どこまでも奏を気遣うように優しかった。
「うん」
そんな隠れた慈しみに溢れた友人に、奏は満面の笑みで答える。
もちろん、まだ完全に回復したわけでも、吹っ切れたわけでもない。昨日見た葵の一挙一動は脳裏にこびりついて離れないし、彼女に対する愛おしさは薄れるどころか次第に大きくなっていくばかりで、そのことがやはり奏を苦しめていることには変わりない。
それでも一応、今は落ち着いていた。できるだけそのことを考えないようにしながら、別のことに――例えば、勉強のことなどに――意識を向けているうちは、正常の精神状態でいることができる。
いつから、なんて忘れてしまった。けれどそれでも、長年抱いてきた想いを、そう簡単に吹っ切れられるわけがない。
いずれまた、昨日のような出来事が起これば……自分はまた、あんな風に錯乱してしまうだろうし、今度は完全に壊れてしまうかもしれない。
そうしたら、その時は――……。
「また駄目になったら、抱き締めて」
「アホか」
冗談のようにヘラリと笑ってみれば、呆れたように表情を緩めた玲に、軽く頭をはたく真似をされる。
いつものような、つかの間の和やかさが二人の間に漂って、そのことに奏は少しだけ安堵した。
――大丈夫、まだ大丈夫。
こうやって笑っていられるうちは、きっとまだ、自分の精神は正常のままでいられるはず。心の中に爆弾を抱えていても、揺らさないままそっとしておけば、きっといつものように過ごすことができるはずだ。
まだ、彼女への想いに心の全てを侵食されてはいない。大きくなってはいても、抑えきれないほどのものではない。
まだ……隠したままで、いられる。表向きは、平気なふりをしていられる。
そう、奏は半ば自分に言い聞かせていた。
◆◆◆
それなのに、最近やたらと遭遇するようになったこの状況は、いったい何の罰ゲームなのだろうか。
今すぐにでも逃げ出してしまいたいと思うのに、向こうの方で繰り広げられている光景から目が離せない。そのくせ、自分は姿を認められることを恐れるように、こうやってひっそりと壁側に身を隠す。
複雑そうな表情をする奏の視線の先では、二人の男女が立ち話をしていた。和やかな雰囲気で、何やら談笑しているようだ。
男子生徒の方は長めの茶髪で、少し着崩した制服を身に纏っており、全体的に――もちろん、いい意味でも悪い意味でも――軽薄な雰囲気を漂わせている。
彼とは特別親しくしているわけではないが、幼馴染の玲やその友人である真紘とよく一緒にいるところを見ているので、その存在は知っていたし、数えるほどではあるものの話をしたこともあった。名前は確か――花村優羽、といっただろうか。
優羽は長めのズボンのポケットに両手を突っ込み、時折うつむきながら小さく笑みを零していた。それは玲や真紘と一緒にいる時に湛えている馬鹿っぽい笑い方とは違った、大人っぽい微笑みだ。
――あの男は、あんな笑い方もできるのか。
普段よく見るものとはまた違う彼の一面を、奏は見た気がした。
そして、女子生徒の方は――……。
よく知る華やかで眩しげな容姿の少女に改めて目をやり、奏は思わず小さな溜息を洩らした。こんな状況で、一瞬でも彼女に見惚れてしまう自分が情けない……そう、しみじみ思う。
色素の薄いロングヘアの少女は、背中側に位置する壁に軽く身体をもたせ掛けながら、短めのスカートから伸びる白い足をリラックスしたように組んでいる。陶人形のように恐ろしく整った顔には、至極楽しそうな笑みが浮かんでいた。
幼少期の記憶にあるものと重なり、奏の胸が不意にズキリと痛む。
『かなで!』
自分の名を呼びながら、いつだって子供っぽく無邪気で――それでいてどこか妖艶な笑みを湛えていた双子の姉。
彼女の眩しいあの笑顔が、最後に自分に対して向けられたのは、一体何年前のことだっただろうか……。
もしあの頃の純粋な気持ちのままでずっといられたならば、自分は今も葵と一緒にいられたのだろうか。何の後ろめたさも苦しみも一切感じることなく、当たり前のように、元双子として彼女と接することができたのだろうか。
『自分たちは双子なのだ』と周りに宣言して……みんなの前でも二人きりでも、仲良く過ごしていられたのだろうか。
優羽ではなく自分に、あの笑顔が向くこともあったのだろうか。
「……っ。馬鹿じゃないの、俺」
自分の思考に呆れて、奏は思わず首を横に振った。『もし』なんて、この通り実現もしていないような不毛なことを、今更あれこれ考えたって埒が明かないのに。
現に自分はこうして、罪を抱えてしまっているのに。
自分は……葵を姉として以上に一人の女として愛し、それゆえに姉弟であることを拒絶してしまったというのに。
いつの間にか目を逸らしてしまっていたことに気付き、もう一度先ほどの方角――優羽と葵が談笑していたはずの方へと目をやる。
二人は既に別れた後らしく、そこに葵の姿はもうなかった。そのことに、ほんの少しだけ安堵する。
しばらく優羽は独りでぼんやりとどこかを見ながら立ち尽くしていたが、やがて自分の教室にでも戻るつもりなのか、やけにゆっくりとした足取りでこちらへと近づいてきた。姿を見られないように――別に見つかったところで何ら問題はなかったはずなのだが、何故か本能的にそうしていた――奏は一歩下がり、優羽が目の前を通り過ぎるのをひっそりと眺める。
あとは、優羽が見えなくなるまでその背中を眺める……はずだった。
刹那、優羽が何気なくといったようにふと横を見た。優羽の方をじっと見ていた奏は、必然的に優羽と視線がかち合ってしまう。
優羽が、僅かに目を見開いた。それからすぐに、合点がいったかのような表情をする。その唇がゆるりと弧を描き、そして音のない言葉を紡いでいくのが、まるでスローモーションのようにゆっくりと、奏の目に映し出された。
――鏡の自分、か。
今度は、奏が目を見開く番だった。自分の表情が、徐々に強張っていくのが分かる。
そのまま優羽は、何事もなかったかのように奏の前を通り過ぎて行った。その背を目線で追うこともできぬまま、奏はただ全身を凍りつかせ、呆然とその場に立ち尽くす。
優羽は一体、どこまで知っているのだろう。
葵は一体、あの男にどこまで話したのだろう。
先ほど談笑していた二人の雰囲気からは、その関係がかなり親密なものであるらしいことが伝わってきた。ふしだらな噂――まぁ、おそらくだいたいが真実なのだろう――を持つ優羽のことだから、既に幾度も葵の身体を抱いているのかもしれない。
そんな間柄なら、葵から自分たちのことを少しぐらいは聞いていてもおかしくはないだろう。だから奏の姿を目にしたあの時、唐突にあんなことを言ったのだ。
葵と奏の容姿が瓜二つであることを、いとも簡単に見抜いて――……。
『あたしと鳥海奏は、血のつながった双子の姉弟なのよ』
不意に葵の幻聴が耳元で聞こえた気がして、奏は思わず両耳を手で塞いだ。目を閉じれば、豊満な白い身体を惜しげもなく晒した葵が、同じように何も身に着けず隣で横たわる優羽に、恋人などに向けるのであろうトロンとした眼差しを送りながら、耳元で甘く囁いているのが見える。
あまりにも鮮明なその想像に、自分でもなんだか馬鹿らしくなってしまって、奏はフッ、と自嘲の笑みを零した。
――人間なんて、所詮こんなもんだ。
実際にあるのかどうかも分からないことを、実際に目にした少しの場面をもとにして、こんなにも鮮明に脳裏で再現することができる。
そして……自分で作り上げた妄想だけで、こんなにも強く胸を締め付けたり、痛みや苦しみを自らの心に植え付けたり、強烈な嫉妬で自分自身を狂わせることだってできる。
自分でも馬鹿げていると思いながらも、自分の中にどんどん生まれてくる妄想と嫉妬心に、油断すれば容易く呑み込まれて……いずれは、自分を見失ってしまいそうだ。
葵には、好きな人がいると言っていた。その時点で、自分が失恋することなどとうに確定しているのに。血の繋がった実の弟である自分に、葵が恋愛感情など抱いてくれるはずがないのに。
自分はそもそも、葵に恋愛感情など抱いてはいけなかったのに。
思わず頭を抱え、座り込んでしまった奏の頭上で、午後の授業の始まりを告げるチャイムが冷たく鳴り響く。
――あぁ。早く行かないと、また先生に怒られてしまう。玲と共に科学の授業を無断ですっぽかしてしまった、あの時のように。
「……まぁ、いいか」
今は、玲もいない。自分一人だ。
あの時は何も悪くないはずの玲まで巻き添えにしてしまったことに、罪悪感を拭いきれなかったけれど……。
もう少し落ち着いたら、保健室に行って、カードでも書いてこよう。体調不良だったことにすれば、不用意に呼び出されて面倒くさい説教を受けるようなこともない。
座り込んだまま壁に背中をもたせ掛け、こつん、と後頭部を軽くぶつけてみる。しばらくここで、ぼうっとしていよう。
天井を見上げたまま、小さく吐いた溜息は、無意識に震えていた。
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