水・その6
なんだかここ数日は、とても濃い日々だった。数えるほどしか日が経っていないはずなのに、もっと……あれから一気に一か月くらいの時が経ったんじゃないかと思うくらいに、本当にたくさんの出来事があったような気がするし、同じくらいたくさん思い悩んだような気がする。
まず、真紘の友人である花村優羽と、屋上で予期せぬ邂逅をしたこと。
薄々そうではないかと思ってはいたけれど、あぁやって面と向かって彼の秘める想いを打ち明けられて……そして、かなり遠回しではあったものの、こちらの秘密も伝えて。
ほんの口約束ではあったけれど、セフレとかではなくて、『話し相手』というちょっと変わった関係を結んで。
あれから優羽とは、たまに会っては他愛もない話をするくらいの間柄になった。クラスが違うから、そんなに頻繁というわけではないけれど……それでも、ほんの短い間でも彼と話をしていると、普段から張りつめていた精神が一時的に解き放たれるような気がして、なんだかとてもホッとする。自然に、笑みを作ることができるような気がする。
もちろん、普段真紘と過ごしているときだって楽しいし、安心するし、心から笑うことだってできるはずなのだけれど……それとはまた違う、そんな妙な安定感が優羽にはあった。
それが、とても心地よかった。
おそらくこれは、葵にとっての数少ない『心安らぐ時間』だったのだ。
それから、真紘と共にたまたま立ち寄った図書館で、優羽のセックスフレンドだと名乗る少女――風早桜香と出会った。
優羽が彼女をセックスフレンドとして選び、傍に置いている理由については、実際にその顔や仕草を見て、話していたらすぐに分かった。
清楚そうな黒髪と白い肌、そして純真無垢な性格。黒目がちの大きな目に、時折見せる無邪気な笑顔。
全体的におっとりとした雰囲気の彼女は、どこか抜けているようで……それでいて、他人の心の内を手に取るように理解し、それに合わせた態度を取ることもできる。その優しい心根ゆえに、他人を思いやれる女の子。
そういった要素の全てが、優羽の恋い焦がれている、決して手に入らない存在を――雪宮真紘を、どことなく思い起こさせる。風早桜香は、そんな少女だった。
きっと優羽は、桜香の姿に真紘を重ねているのだろう。
そして桜香は、その事実に薄々気付いている。気付いていながら何も言わず、むしろ彼の孤独な心に寄り添うかのような、まるで包み込むかのような寛大な心で、彼に抱かれているのだ。
同情しているわけでは、決してなくて……ただ単純に、花村優羽という一人の人間を、心から大切に想っているから。
いくら、その心が自分にないことを――本当の意味で結ばれる運命にないことを、知っていたとしても。
『そっか……だから、優羽くんは』
――あたしを、選んだんだ。
ほんの少し傷ついたような、寂しげな笑みを浮かべた桜香。
それでも……彼女の言葉にも表情にも、優羽を責める気配が微塵もなかったのが印象的だった。
この子は、どこまでも優羽のことを愛しているのだと――……この子もまた、一種の報われない想いを、彼に対して抱いているのだと。
その気持ちが、手に取るように分かってしまって。決して振り向いてくれない相手を想う桜香の空しさとか寂しさ、そして痛みを、まるで自分のことのように思えてしまって。
あの時のことを思い出すと、今でも胸がじくりと痛む。
けれど桜香の無邪気だったり優しかったりするあの笑顔を思い出すと、不思議と浮上した気持ちになってしまうのも事実だった。
それから、もう一つ――……。
『……っ』
苦しそうに、そしてどこか名残惜しげに、見つめ合っていた目をすっと逸らしてしまった奏。
あの時の彼の姿が、今でも目を閉じると鮮やかに――彼の行動の一つ一つが、まるでスローモーションのようにはっきりとよみがえってくる。
そのたびに心が、身体が、どうしようもないくらいに痛くて、苦しくて。そして同時に、気が遠くなってしまうくらいの悲しみが襲ってくる。
考えても考えても、ゴールなんてないはずなのに。それでも、答えを求めずにはいられない。奏の本心を、彼自身の口から聞きたくてたまらない。
いつかその日が――奏に面と向かってはっきり拒絶されてしまう日が、来たとしたら。そうしたらきっと、自分は本当に壊れてしまうのだろう。
そうなる前に、自分から拒絶してしまいたいのに。奏のことを、単なる元双子の弟だと……いや、むしろ自分にとってはもはや赤の他人なのだと、認識してしまいたいのに。
普通に生活できる程度にまで体調が回復した今でも、心の傷は……狂おしいほどに彼を想うこの感情だけは、どうしても消えてくれなかった。
◆◆◆
「おはよ……」
「おはよ、じゃねぇよお前! もう昼だっつの」
「あー、マジだぁ。ごめんごめん」
「どしたんよ、寝坊?」
「んー、まぁそんなとこ」
翌日、珍しく遅刻してきた真紘は、なんだか顔色が悪かった。心配になった葵が声を掛けるため近づこうとしたところに、ちょうど誰かがやって来て真紘に声を掛ける。とたんに、真紘は顔をこわばらせた。
やがて、その誰か――彼の友人の一人である秋月玲と、真紘は連れ立って教室を出て行ってしまった。ただならぬ雰囲気に不安を感じながら、葵は二人の後姿をただ黙って見送る。
真紘たちは何も言ってこなかったし、何があったのかなんてことを、部外者である葵が知る由もない。けれど、あの様子だときっと……真紘と玲、そして彼らの一番身近な友人である花村優羽の間に、決定的な出来事があったのだ。
本来なら、自分が首を突っ込むようなことではない。それでも、今までずっと秘密を共有し続け、支え合ってきた仲間であり、短い間だったものの家族として共に過ごしたこともある――そんな真紘のことを、どうしても放っておくことはできなかった。
もしかしたら優羽が、何か知っているかもしれない……。
直感的にそう思った葵は、急いで教室を出ると、真紘たちが歩いて行ったのと逆方向へ向かって走った。
「――葵? お前がここに来るなんて珍しい」
珍しく息を切らせ、切羽詰まったような表情で姿を見せた葵に、優羽は目を丸くしていた。が、葵が先ほどの出来事を早口に話すと、徐々に複雑な表情に変わっていく。特に真紘の名を出した時、明らかにそれと分かるほどの動揺を見せた。
「様子を、見に行ってもらってもいいかしら」
懇願するようにそう言うと、優羽はあからさまに視線を逸らした。零した彼の声は、僅かに強張っている。
「自分で、見に行けばいいのに」
葵はゆっくりと首を横に振った。
自分が行くのでは、意味がない。自分は所詮部外者であり、彼らの事情に首を突っ込む権利などないのだから。彼らの苦しみを解き放ち、救い出すことなどできない。
きっと真紘も玲も、優羽が来るのを待っている。
「駄目なの」
互いに救われるためにはきっと、当事者同士がきちんとその場に揃うことが先決なのだろう。彼らにとっての『幸せ』への本当の近道が何なのかは、傍観者である自分にもまだ見えはしないけれど。
「あなたじゃなくちゃ、意味がないもの」
だから……お願い。どうか、行ってあげて。想い人のためじゃなくて、大切な友達のために。
「じゃあ、頼んだわね」
優羽が何かを言おうと、口を開く。そこから言葉が紡がれる前に、葵は踵を返し彼の前から立ち去って行った。
――余計に、掻き乱してしまっただろうか?
もしそうなったとしても、きっとそれは彼らにとっての試練だ。幸せになるための、一つの答えに辿り着くための、段階の一つ。
自分にできることはただ、彼らを心配し、見守ることだけ。大切な彼らの、幸せを祈るだけ。
きっと、まだ間に合うはず。
幸せになるための権利が、彼らにはまだ残されているはず。
大きな罪を抱え、相手にさえ極端なまでに嫌われてしまっている自分にはきっと、一生幸せになる権利などないのだろうけれど……。
すべての采配を優羽へと委ねた葵は、これでひと段落ついたと思いながら、教室へ戻るべく廊下を進んでいく。
歩くたびに揺れる色素の薄い髪がキラキラと輝き、その美貌を引き立てている。すれ違う異性はおろか、同性まで思わず立ち止まり振り返ってしまっているが、葵自身にとってそのような光景は日常茶飯事であるため、さほど気にはしていなかった。
昼休みがそろそろ終わるところだったため、心もち早足で進んでいく。そんな葵の足が、不意にピタリと止まった。色素の薄い瞳が驚愕に見開かれ、顔からみるみるうちに血の気が引いていく。
「っ……」
みずみずしく色づいた唇を開き、何か言葉を発しようとするのだが、震えてしまって言葉にならない。思わず一歩後ろに下がってしまうが、それ以降はまるで地面に足を縫い付けられたかのように、その場から動くことはできなかった。
頭上で、無機質な予鈴の音がやけに大きく鳴り響く。
困惑気味に揺れる葵の瞳が、焦がれるようにじっと見据える目の前の相手……それは、今の彼女にとって一番の悩みの種であったはずの少年。
歪んだ鏡に映ったかのように、自分と瓜二つの容姿を持つ双子の弟――奏がそこにいた。
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