鳥・その6
頭上で予鈴が鳴り響くのにも構わず、奏はその場から身じろぎすらもできないまま、ただ立ちすくんでいた。
奏の色素の薄い瞳が見据えるその先に、彼女は立ちすくんでいた。自分とよく似ている整った顔には、困惑と悲しみ、そして強烈な痛みがありありと浮かんでいる。
どうしてこんなことになっているのだろうかと、視線を逸らすこともできぬまま奏はぼんやりと考える。
そう。確か自分は、昼休みが始まるや否や教室を出て行った玲を追いかけてきたのだ。彼の思いつめたような表情と、いつも以上にピリピリした雰囲気が、どうしても気になって。幼馴染として、放っておくことがどうしてもできなかった。
玲は迷うことなく真紘のクラスへと赴き、真紘を連れてどこかへ行ってしまった。きっと、二人で何か話し合いをするつもりだったのだろう。
それで……このまま追いかけて行こうか迷ったのだが、この件については所詮傍観者でしかない自分がいろいろ勘ぐるのもよくないと考え直して、戻ってきたのだ。なにか決定的なことがあったら、きっと玲が打ち明けてくれるのではないかと思ったから。
玲を、信じたいと思ったから。
それで、胸のざわつきを残しながらも、教室に戻ろうと歩いていたところだった。もうすぐ予鈴が鳴ることが分かっていたから、心もち早足で。
それが……まさか、今日に限って葵と鉢合わせしてしまうなんて。
きっと彼女も、真紘のことが心配で追いかけてきたのだろう。大方、今の自分と同じようなことを考えていたに違いない。こういう時、双子であることを心から恨めしく思う。
奏が苦しげに眉を寄せた時、彼女――葵が、唇を開き自分に何かを告げようとした。
どのようなことを言われてしまうのか、想像するだけで怖くて、早く逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。けれど同時に、彼女の甘くふくよかな声を久しぶりに直接聞くことができるのだという期待も、奏の中には確かに生まれていた。
――傷つく前に、早く立ち去ってしまえばいい。今この場から逃げてしまえば、不用意に心を痛めることもないのだから。
――いや、でも彼女の声が聞きたい。今ここで彼女を捕まえて、この腕に閉じ込めて、自分だけのものにしてしまいたい。
――駄目だ。もう、戻れなくなってしまう。そんなことをしたら、今度こそ一生嫌われてしまうに違いないのに。
心の葛藤をしばらく続けるものの、結局その場から動くことはできなくて。葵の澄んだ瞳から、陶人形のように精巧な顔立ちから、目を離すことなんてできなくて。
結局、彼女の口から言葉が零れることはなく、ただ震える息だけが吐き出された。よく見ると、母親譲りのふっくらした唇も小刻みに震えているのが分かる。
彼女も、動揺しているのだ。
ほかでもないこの自分が、未だに彼女を悩ませ、苦しませ続けている。
葵は迷っているのか、その後も音もなく口を開閉させたり、前で組んだ両手を落ち着きなくいじくったりしていた。それでも視線だけは、頑なに自分の方へと固定されていて……混乱しているのであろう彼女の内心が、ありありと伝わってくる。
「……葵」
久しぶりに本人の前で口にしたその名は、心とは裏腹にひどく落ち着いた声色に乗って発された。刹那、葵の身体が電流でも注がれたかのように、びくり、と大きく跳ねる。
名を呼んだはいいけれど、言うべき言葉は結局見つからないままだ。久しぶりに対峙する双子の姉に対して、本当は言いたいことならいくらでもあったはずなのに。
一番言いたい言葉が、出てこない。
それは、本来ならば言ってはいけない一言だから。
迷っている間にも、時間は刻一刻と過ぎていく。最後に時刻を認識した時――彼女とこうやって対峙する一瞬前から、どのくらい経ったのか、奏にはわからなかった。
あっという間だった気もするし、一時間ぐらい経っているような気もする。
現実逃避のようにそんなことをぼんやりと考えていると、葵がもう一度口を開いた。そこから、今度は震えた声が僅かに漏れる。
「かな、」
「おーい、そこの二人!」
葵の声をかき消すように、不意に二人の間を割りいる声が響いた。葵と二人してそちらを振り向けば、どこかのクラスに入って行こうとしていたのであろう教師が、教材を片手にこちらへ不審げな視線を向けている。
「そんなとこで突っ立って、何やってんだ? もうそろそろ授業始まるから、早いとこ教室戻れよ」
「……っ、はい」
「すみません……」
さすが双子というべきか、二人して妙に息の合った謝罪をしてしまう。
その姿に首を傾げながらも、納得したかのようにどこかの教室へ入って行ってしまったその教師を見送った後、二人はどちらともなくその場から離れ、各々の教室へと足を向けた。
◆◆◆
「玲、大丈夫?」
興味本位か、野次馬根性か、それとも本当に心配しているのか……とにもかくにも、玲の周りに最近でき始めた人だかりを一喝することで解散させると、奏は自分の席でうつむく玲に声を掛けた。彼の心情を考え、言葉を選びながら慎重に続ける。
「真紘も優羽も、最近この教室を通りかかってすら来ないね」
顔を離し、放課後で人通りが多く、やたらと騒がしい廊下を一瞥する。その中に、いつもこの時間になると必ずといっていいほどいるはずの二人――真紘と優羽の姿はなかった。
奏は、玲からこれまでの経緯を聞いていた。
少し前の放課後、優羽と真紘がキスしようとしているところを、玲が運悪く目撃してしまったこと。そのことでどうしても話がしたくて、真紘を呼び出したこと。そこで……真紘に、好きだと言われたこと。
いつも一緒にいた三人が唐突にバラバラになったのは、その出来事があってからだという。
もちろん玲は、ひどく混乱していた。真紘に好きな人がいることは知っていたけれど、まさかそれが自分だなんて思っていなかった……そう呟きながら、奏にすがりついた。まるで、助けてくれとでも言うように。
玲はまだ、悩んでいるようだった。想い人である優羽のこと、そして友人だと思っていたはずの真紘のこと。それは彼にとってあまりに重すぎることで、一人で抱えきることにいい加減疲れているのだろう。
これから部活はあるかと聞かれ、流れのようにないと答えれば、まさにそれが合図だとでも言うように、玲と奏は二人で教室を出る。
自然に足が向いた屋上は、あの日――奏が玲に、葵に対する恋心を打ち明けた日以来、久しぶりに足を踏み入れた場所だった。
案外新しいらしいグレーの手すりに、二人並んでもたれかかる。よく晴れた青い空に雲はほとんどなかったけれど、ただ一筋、飛行機雲がどこか物悲しげに流れているのがやけに目立った。
「もともと俺らの関係って、とんでもなくこんがらがってたんだよな。こんなんでよく、何事もなかったかのように友人同士でいられたもんだ」
飛行機雲に視線をやりながら、玲は独り言のようにぽつぽつと言葉を紡いでいく。同じように空へ視線を投げかけながら、奏は口をはさむことなく、ただその独白を静かに聞いていた。
「俺は優羽が好き。でも、優羽は真紘が好き。んで……真紘は、俺のことが好き。何回聞いても笑っちゃうだろ。三角関係じみているって、前に言ったと思うけれど、ホントに見事な三角関係だった」
玲は自嘲気味に、フフッ、と乾いた笑いを漏らす。その声はひどく震えていて、今にも泣いてしまいそうなのが分かった。
「けど、真紘は誤解してるんだろう」
それまでつぐんでいた口を開けば、小さく息を呑む声が聞こえる。隣からの視線を頬の辺りに感じながら、奏は穏やかなトーンのまま続けた。
「真紘は、お前が優羽を好きなことを知ってる。でも、優羽もまたお前のことが好きなんだって、二人は両想いなんだって、今も勘違いしている。そうなんだろう」
あぁ、と掠れた肯定の声が聞こえる。軽く視線を落とし、奏は責めるでもなく淡々と、けれどきっぱりと、言った。
「誤解を、解かないままでいいの?」
「……誤解を解けば、また違う苦しみを真紘に与えることになるだろ」
迷うような沈黙の後、玲は吐き捨てるように答えた。
もっともだとは思うし、自分が言うべきことでもないのだろう。この件について、奏は単なる傍観者にすぎない。
真実を知れば、さらに事態はこんがらがっていくだろう。三人は、きっともう元の関係に戻ることなどできない。
どうすることが正しいのか。どうすれば、誰もが『幸せ』だと、口を揃えて言うことができるような未来になるのか。
『幸せ』は、一体どこにあるのか。
そんなこと、もちろん自分が知るはずなどない。自分だって今まさにそれを探しあぐね、悩み苦しんでいる最中なのだから。
だけど、それでも……。
顔を上げ、玲の切れ長の瞳をじっと見据える。半ば睨むように視線を向ければ、玲もまた真摯にその目を見つめ返してきた。
発した声は、どこかぎこちない。それでも、本心からのものであることに間違いはなかった。
「本当の気持ちをぶつけ合わなければ、救われないことだってある」
互いの本心を知らなければ……『幸せ』に近づけないことだって、ある。
「言葉を虚像で飾り立てて、どれだけ相手を喜ばせることができても……それは、幸せとは言えないんじゃないかな」
なぁ……そう思わないか、玲?
玲に対して尋ねながら、奏はその言葉を自分に対して言っているような気になっていた。
真実を知ったところで、辛い未来しか待っていないかもしれない。けれど、何も知らない上に築かれる虚構の幸せは、きっと本物じゃない。そんなものに甘え、ずっと浸り続けているよりは……真実と向き合い、本心をぶつけ合った上で幸せを探し続ける方がずっといい。
「本当の気持ちを知らせれば……真紘に新しい真実を知らせてやれば、俺たちは救われるのか?」
幸せに、なれるのか?
玲の困惑したような問いに、ゆるりと首を横に振る。
「それは分からない。だって……真実を知ったうえでどうするかは、お前たちが決めることだから」
『幸せ』の形を決めるのは、お前たち三人だから。
たとえ、周りからは歪んだものに見えていたとしても……パズルのピースを組み立てるみたいに、その人にとってぴったり重なる場所があるなら、その場所こそが『本物の幸せ』の在り処なのだろう。
自分のような傍観者は、ただその手助けをするだけ。ただ、それだけのために存在しているようなものだ。
「幸せを決めるのは、俺たち三人……か」
「そうだよ。俺はただ、そのためのアドバイスをしてるだけ。こうすればいいんじゃないかな、っていう、単なる客観的な意見。セカンドオピニオンってやつだね」
「セカンドオピニオン、ねぇ……いやお前、いつからその道の専門家になったんだよ」
「まぁまぁ、それは単なる言葉の綾だから」
いつものような鋭い玲の突っ込みにホッとして、自然と笑みがこぼれる。
手すりに身体をもたせ掛け直すと、奏は溜息を吐いた。目を閉じるまでもなく、浮かぶのは血を分けた姉であり、今現在自分の心のほぼ全てを占める少女――葵の姿。
「俺も、本当の気持ちをぶつけ合ってみるべきかなぁ」
ポツリとつぶやいた言葉に、玲は先ほどより落ち着いた声で応じる。
「泉水と、話をしてみるのか」
「そうだなぁ……」
唇に指を当てながら、考える仕草をする。
避けているのは、いつだって自分。こちらから歩み寄れば、解決の糸口の先ぐらいは見えるだろうか。
葵は、自分の話を聞こうとしてくれるだろうか。
愛しい名を、久しぶりに呼んだ時のことを思い出す。戸惑いがちに、けれど確かに自分に対して答えようとするかのように、『奏』と自分の名を紡ごうとした、彼女の震える声と唇を――……。
「それも、視野に入れてみるよ」
彼女が素直に従ってくれるかは、わからないけれどね。
「そっか」
玲の呟きが、ひんやりとした風と共に流れていく。
これからどうなるのかなんて、誰にも分からない。これからの行動により、玲も、そして奏も、望むままの幸せを得ることができるのか。その形は、一体どのようなものになるのか。
けれど、それでも……。
「悪いことだけじゃ、ないよな」
玲の明るさの戻った呟きに、奏は笑みと共に即答した。
「あぁ、きっと」
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