水・その7

「真紘ちゃん」

 どこか生気を失った横顔に声を掛けると、真紘は取ってつけたような笑みを顔に張り付け、明るい声を出した。

「おはよ、葵ちゃん」

 どうして、そんなに無理をしようとするのだろう。どうして彼は、何もかもを一人で抱えようとするのだろう。自分たちは、理解者同士であるはずではなかったのか。

「葵ちゃん……どうして、そんなに悲しそうな顔をするの」

 そんな想いが顔に出ていたのか、真紘は貼り付けていた笑みを崩し、泣きそうな顔でそう呟いた。

「真紘ちゃんが、辛そうにしているからだわ」

 真紘たち三人の間に、何があったのかは分からない。真紘はあれ以来、何も言ってくれないから。

 けれど、どこか気まずげな三人の様子や、真紘があまりにも露骨に二人を避けていることから、恐らく決定的な何かがあって――……虚像の上に作られていた三人の友情がその均衡を崩し、途切れてしまったことは間違いなかった。

 そしてそれはきっと、玲が真紘を呼び出した原因にもつながるのだろう。それくらい、傍観者である葵にも分かる。

 チャイムが鳴る少し前になって、自分の席に戻ろうとした葵の腕が、何の前触れもなく引かれる。単純に驚いていると、真紘が耳に唇を寄せ、放課後になったら話をしたい、と囁いてきた。

 きっと、何もかもを打ち明けてくれるのだ。

 気づかれないように息を呑み、覚悟を決めた葵は一言、「わかったわ」と了承の言葉を口にした。


「――真紘ちゃん、お待たせ。じゃ、行きましょ」

「……うん。ありがと、葵ちゃん」

 放課後、早速テキパキと荷物をまとめてしまうと、葵は真紘と連れ立って教室を出た。制服や部活動のユニフォームなどを身に纏った生徒たちの群れは何とも言えない活気と生気にあふれていて、それらの姿が今の葵にはひどく眩しいものに映った。

 どちらからも、言葉はない。葵は真紘が話してくれるのを待っているからなのだが、真紘はこれから話す内容を頭の中で整理していたり、心の準備をしていたりするのだろう。その証拠に、足取りがどこかぎこちない。

 玄関に辿り着き、靴を履きかえ、そのまま迷いない足取りで校門を出る。特にどこへ行くというのは話し合っていないので、葵はとりあえず真紘に合わせて歩いていた。

 学校を少し離れたところで、ようやく人通りのほとんどない場所に出た。こっちは確か、真紘の家に通じる道だ。本来の葵の家からは道が数本外れているため最近はあまり来ないものの、雪宮家にいた頃は真紘と一緒にここをよく通っていたので、葵にとっても馴染みのある場所だった。

「……一週間ほど、前になるかな」

 やがて、真紘がポツリと言った。

 葵はあえて、それに対しての返事をしなかった。話を聞こうとしている雰囲気が伝わったのか、真紘はどこかホッとしたように話を続ける。

 役員会議があった日の放課後、たまたま教室で二人きりとなった優羽に押し倒され、キスされそうになったこと。

 それを、玲に見られていたらしいこと。

 その翌日、玲に呼び出され……何やら誤解をしたらしい彼に対し、思いあまって自分の秘めていた想いを告げてしまったこと。

 途中で何度もつっかえたり、嗚咽じみた声になったりして、お世辞にも聞きやすいとは言えなかったけれど、それでも一生懸命話してくれる真紘の独白を、葵は一つずつ噛みしめるようにしながら聞いていた。

 やがて語り終えたらしく、真紘は静かに口を閉ざす。葵が何も答えようとしなかったから、自然とそのまましばしの沈黙が流れた。

 彼に対して何を言うべきか、葵は正直迷っていた。

 部分的とはいえ、自分がけしかけたことによって、三人が修復不可能なまでにバラバラになってしまった。真紘は真実を知らないが、こうなったのには自分にも責任がある。

 どうして、全てがうまくいこうとしてくれないのだろう。

 真紘たち三人の関係も、そして……自分と奏の関係も。

 どうして……こんなにも苦しくて、悲しくて、たまらなくなるのだろう。幸せから、足が遠ざかっていくような気がしてしまうのだろう。

「可哀想な、真紘ちゃん」

 口から零れたのは、見事なまでにテンプレ通りの言葉。

 それは、自分でもびっくりしてしまうくらいに悲痛に響いて……ただでさえ張りつめていたはずの空気を、さらに張りつめさせたような気がした。

「けれど……ね、真紘ちゃん」

 思いとは裏腹に、口だけが別の生き物のように勝手に動き、スラスラと言葉を紡ぐ。

「あなたは真実を、知らなくちゃいけないわ、ね」

「……真実?」

 訳が分からないというようなニュアンスで、真紘が答える。

「俺はもう、全部知ってるよ」

 ――全部?

 葵と目を合わせ、迷いはないとでも言うようにそうきっぱりと告げる真紘に、葵はゆるりと首を横に振った。

「いいえ。……真紘ちゃんにはまだ、知らないことが一つあるわ」

 そう。彼には一つだけ、知らないことがある。

 有り体に言えば、真紘は大きな誤解をしているのだ。

 玲が優羽に想いを寄せており、さらに優羽もまた玲に想いを寄せている――そう、真紘は思っている。そのことを信じて疑わず……『虚構の真実』に縛り付けられ、苦しんでいる。

 実際は、違うのに。

 確かに玲は、優羽に対して恋愛感情を抱いているだろう。これは本人から直接聞いたわけではなく、間接的な情報でしかないが。

 けれど、優羽が想いを寄せているのは……。

 かつて屋上で邂逅した時の、優羽の姿を思い出す。想い人の――真紘の名前を出したとたんに一瞬だけ見せた、何とも形容しがたい想いにあふれた表情を。

「話し合わなければ、見えない真実があるのよ。三人が通じ合って初めて、それは事実となりえる。だから……いつまでも、逃げていてはいけないのよ。真紘ちゃん」

 それは、自分自身にも言えること。

 頭では分かっているはずのことで……それでも、なかなか実行することができずにいること。

 傍観者であり、かつ現在進行形でそこから目を背けている自分が、偉そうに言えることではないのだろうけれど。

「知らなくちゃ、いけないのかな。やっぱり」

 真紘の諦念にも似た問いに、自嘲気味な笑みを浮かべてうなずく。

「知らなくちゃ、いけないのよ。真紘ちゃんも……あたしも」

 『あたしも』という声が、弱々しく震えたのに、真紘は気付いただろうか。

 自分の声に、心に生まれた迷いや痛みを自覚してしまって、不意に鼻の奥がツンとする。

「葵ちゃん……?」

 隣からの不思議そうな声に、取り繕うようなことを言うこともできず、葵はただ独り言のように呟いた。

「……皮肉だわ。まさか自分自身の言葉で、気付かされることがあるなんてね」

 本当に、皮肉なものだ。

 全く気づいていなかったわけじゃない。ただ、知っていながらわざと目を背け続けていただけ。

 知らなくちゃいけない。向き合わなくちゃ、いけない。本当に、幸せでありたいと思うなら。

 どれだけ後回しにし続けたところで、いずれは何らかの形で知ってしまうであろうこと。不幸でありたくないならば、そこは必ず通らなければいけない道で……。

「どんな形であれ、俺たちが幸せと呼べるものを手にできる日は……やって来るのかな」

 真紘の言葉に、葵は意図的に笑みを向ける。うまく笑えているかは、わからないけれど。

「そうね……」

 自分が幸せだと思ったら、そこがゴールなのかもしれないわね。

 幸せとは、自分の心が決めるものだから。自分が最終的にそう思うところがあるなら、きっとそこが『幸せ』のゴール地点なのだ。

 徐々に陽が落ちていき、オレンジ色から暗がりに変わっていく空の下、二人はそれぞれの思いを胸に、無言で歩く。

 この道からだと、葵にとってはいつもより遠回りになるのだが……今日はなんとなく歩きたい気分だから、ちょうどいいだろう。

 いずれは来るであろうその日――奏と向き合う日までに、気持ちの整理をつけなければと思う。この恋慕を完全に断ちきることは、きっとできないだろうけれど。

『葵』

 あの日、奏に呼ばれた名を反芻するだけで、胸がキュウっと痛くなる。まるで、初恋の時に感じるのであろう新鮮な気持ちのような。

 あの時彼は、ほんの少しの間だけでも、葵と話をしようとしてくれていたのだろうか? 葵と、向き合おうとしてくれていたのだろうか?

 すがるような奏の表情と声に、少しでも期待してしまった――実は、現在進行形で期待していたりもする――自分を情けなく思う。

 けれどその一方で、いっそのことこのまま期待に身を任せてしまおうかとも思う。

 隣にいる真紘に気付かれないように、葵はそっと、あの日彼の前で呼ぼうとして呼べなかったその名を唇に乗せた。

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