月・その4

 頭上で、午後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響く。それでも玲は、フリーズしたようにその場から動かなかった。……いや、動けなかった。

 真紘の苦しそうな泣き顔と、嗚咽混じりに告げた言葉が、次々とフィードバックしては玲を襲う。

『俺が好きなのは――』

「っ!!」

 脳内に反響する真紘の声に、玲は反射的に耳を塞ぐ。そんなことをしても無駄だとはわかっていても、そうせずにはいられなかった。

「嘘だろ……」

 唇から零れた声はいつもより低く、掠れていた。どうも、思うように言葉を紡ぐことができないらしい。

 玲はそれと分かるほどにはっきりとした、大きな溜息をついた。

 ――真紘に好きな人がいるのは、なんとなく知っていた。それがおそらく、優羽でないのだろうということも。

 それでも……優羽の真紘に対する強い想いを、これ以上黙って見続けているのは辛いから。好きな人の想いが報われないのは、幸せになれないのは、とても辛いから。

 だからいっそ、真紘本人を呼び出して確かめてみようと思ったのだ。『優羽では駄目なのか。その人よりも、優羽を好きにはなれないのか』と。

 いっそ二人がくっついてくれたら、自分もこの気持ちを捨てることができるのではないか、と……楽になれるのではないか、と思ったから。

 なのに、まさかあんなことになるなんて。

 先ほど真紘に触れようとして、跳ねのけられた手を見る。そんなに強い力ではなかったから、さすがにもう痛みは引いていたけれど、物理的なものではない痛み・・が、そこにはまだ残っているような気がした。

 真紘のことは、大切な友人だと思っていた。それこそ『親友』と呼んでも、まったくもって差し支えがないくらい。彼と話していると楽しいし、一緒にいるだけでも居心地がよくて、普段ほとんど変わらない表情も自然と緩んだ。

 でも……同時に、嫉妬していた。優羽に特別な思いを寄せられている真紘のことが、心底羨ましくてたまらなかった。

 だからといって、真紘のことを嫌いになったわけじゃない。だって……嫌いになんて、なれるわけがない。

 真紘も、優羽も、玲にとって大事な存在だ。恋心や嫉妬といった感情を抜きにしたって、それは変わらない。

 それなのに……。

「まさか真紘が好きな奴が、俺だったなんて」

 真紘が嘘をついたとは、とても思えない。そんなことをするメリットなどないはずだし、そもそも真紘は嘘を吐かない――いや、吐けない人間のはず。一応付き合いは長いのだから、彼が正直者であることもよくわかっているつもりだ。

 つまり、さっきの真紘の言葉は、全部本当だということで――。

 ――でも。

「あいつは一つ、勘違いをしている」

 そう、真紘は勘違いをしている。それも、致命的な。

『きっと優羽だって、お前のことが好きなんだよ』

 真紘が、苦しそうに告げた言葉。

 あれは、ひどい誤解だった。何を見て真紘がそう思ったのかは分からないが、少なくともあれは……真紘の言葉は、真実ではない。

 確かに玲は優羽のことが好きだし、彼を恋愛対象として見ている。『ずっと見ていた』という言葉通り、真紘が見事見抜いてみせた、それは紛れもなく真実だ。

 けれど、優羽が好きなのは――……。

「くそっ、どうしたらいいんだよ……」

 ぐしゃぐしゃと頭を掻きながら一人、途方に暮れたように呟く。その時、唐突に後ろから声がした。

「追いかけなくて、よかったのか。玲」

 ピタリと動きを止め、玲は恐る恐る振り返る。

「優羽……どうして、ここに」

 そこにいたのは、今まさに玲が思い浮かべていた人物だった。

 玲の想い人であり、真紘にとっては想われ人でもある、二人の友人だったはずの少年――花村優羽。想像の中ではなく、実物として目の前に現れた彼は現在、制服のズボンのポケットに両手を突っ込み、壁に寄りかかりながら、静かな目を玲に向けている。

 『お調子者』や『節操なし』などと周りから言われ、本人もそういう風に振る舞っていながら、その本音がどこにあるのかを決してその口から語ることはない。そんなスタンスがどこかミステリアスで……思わず本音をこの手で暴きたい、と思ってしまう。もっともっと、彼の中に踏み込みたいと感じてしまう。

 優羽のそういうところに、彼の周りを取り囲む女子たちも――玲自身も、惹かれたのかもしれない。

 口元に笑みを湛えながら、優羽は口を開く。

「葵がうちのクラスにわざわざ来てさ、俺に頼んできたんだ。真紘とお前が、連れ立ってどこかに行ったんだけれど、心配だから追いかけてくれないか、って」

 それは、先ほど玲が発した問いに対する答えのようだった。

 葵――真紘と同じクラスで、彼とよく一緒にいる美しい少女の姿を思い浮かべる。彼女が真紘を心配し、その動向を気にするのは、当然と言えば当然のことだ。

 しかし……優羽は、いつの間に葵と知り合いになっていたのだろうか。

「言っとくが、セフレとかじゃないからな」

 玲の中に生まれた不信感をまるで全て見透かしたかのように、優羽が補足の言葉を告げる。

「あいつは、ちょっとした話し相手だ」

 話し相手……?

 わずかに引っ掛かりを覚えたものの、そういえば話の論点はそこではなかったと、玲は慌てて思い直す。

 えーと……何だったっけ。

「その顔は、俺の問いを忘れたって感じだな」

 優羽が可笑しそうに、小さく笑う。ときめいている場合ではないのに、玲の心臓が小さく跳ねた。

「もう一度言うぞ。真紘のこと、お前は追いかけなくて良かったのか」

 触れたくなる衝動を抑えながら、玲は感情を押し殺した声で、今度はちゃんと答えた。

「追いかけたって、あいつはまた俺から逃げるに決まってる。それに……今の俺にはまだ、あいつに掛けてやる言葉が見つからない」

「ふぅん」

 優羽はさして興味もなさそうに答える。玲がどう思っていようが、きっとどうだっていいのだ。だって優羽は、真紘のことしか見ていないのだから。

 顔を逸らす玲に、優羽は小さな笑い声を上げた。いつものように、冗談めいた口調で呟く。

「じゃあ、俺が追いかけて、慰めてやろうかな」

 こんなチャンス、めったにないもんね。

 不敵な笑みを浮かべる優羽に、玲は大きく目を見開いた。突如、怒りが炎のように心の全てを包む。

 ひどい、と玲は思った。

 勘のいい優羽のことだ、この気持ちぐらいとうに知っているだろうに……全部分かっているくせに、わざわざそんなことを言うなんて。

「優羽っ、お前……!!」

 とっさに顔を上げると、玲は今にも掴みかからんばかりに優羽へと詰め寄った。まぁまぁ、と困ったような笑みを浮かべながら、優羽がなだめる。

「落ち着けよ、玲。冗談に決まってんだろ」

 ふざけんな、という気持ちはもちろん消えなかったが、理性が働いたことで玲はいったん落ち着きを取り戻す。飄々とした態度の優羽を、切れ長の目でじろりと睨みつけた。

「冗談と本気の、垣根が見つからねぇんだよ。これだからチャラ男は」

「相変わらず口が悪いな、玲は」

 ハハッ、と声を上げて優羽が笑う。それは、友人との他愛もない会話を楽しんでいるかのようだった。

 あぁ。やっぱり優羽は、自分のことをそういう風にしか見てくれないんだ。

 とうに分かっていたはずのことだったけれど、改めて現実を突きつけられるとやはりショックだ。強気に睨んでいた自分の目から、力と勢いが少しずつ抜けていくのが分かった。

 ふぅ、と優羽が溜息を吐く。その顔を彩る笑みが、一瞬にして物憂げなものに変わった。視線を埃っぽい廊下に落とし、ポツリと言う。

「そうしたいのは、やまやまだが……真紘が本当に求めているのは、俺じゃない。どんな言葉を投げかけてやったところで……俺じゃ、やっぱり駄目なんだよ」

 最後の言葉に、彼がこれまで隠してきたのであろう本心の全てがこもっているような気がした。優羽の放った言葉が、踊り場中に響いては消える。それはやけに悲痛さを伴って、玲の耳に反響した。

 相変わらず埃っぽい廊下に視線を落とし、寂しそうな顔で黙り込んでしまう優羽を見ていると、玲の中にも抑えてきたものがこみ上げてきた。わざわざ告げるつもりもなかったはずの言葉が、口をついて出る。

「優羽……好きだ」

 優羽はそのままの姿勢で、小さく笑った。

「知ってる。でも……ごめん」

 玲も同じように、口元にわずかな笑みを浮かべた。切れ長の目から、頬に一筋の涙が伝う。

 シンとした踊り場の中で、静かな――いっそ安らかささえ感じさせるような声で、玲は言った。

「知ってる」

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