雪・その4

 教室に一人、取り残された真紘は混乱していた。

 優羽には気まずくて言えなかったのだが、真紘が今日残っていたのは、役員会議があるという玲を待っていたからだった。優羽は先に帰っているだろうから――彼には少し、悪いと思ったけれど――せめて久しぶりに二人で帰れたらいいな……という、淡い期待を抱いて。

 それなのに……。

 優羽の姿が見えなくなっても、彼が立ち去った方向から目を離すことが出来ない。その場から、動くことさえできなかった。

「優羽……どうして?」

 怖かった。ただただ、怖かった。

 思わずうわ言に、想い人の名を乗せてしまうほどに。

 本人は冗談だと言って笑っていたけれど、それにしたってあんな……。

 いきなり真紘を押し倒し、両肩を机に押さえつけたままじっと見下ろしてくる優羽の、一種狂気じみていた――ように、真紘には見えた――眼差しを思い出して、真紘は背筋がゾクリとした。

 あんな優羽は、初めて見た。

 あの時初めて、真紘は優羽のことを怖いと思った。初めて会ったときから、友人として接してきた今まで、ただの一度も、ほんの一瞬でさえ、そんなことを思ったことはなかったのに。

「冗談にしたって、ひどすぎるよ……」

 優羽は、玲が好きなんじゃないの?

 だったら……玲だって優羽のことが好きなんだから、結局両想いなんだから、あぁいうことは自分にじゃなくて玲にしてあげればいいのに。好きでもない、ただの友人であるはずの自分に――いくら冗談とは言っても――あんなことまでする必要なんてないはず。

 ――そこまで思って、真紘はふと、ある一つの考えに辿り着いた。

 ひょっとして自分は、優羽に嫉妬されているのだろうか。憎くて憎くて、仕方がないと思われているのだろうか。

 何せ、今まで何があっても三人で過ごしてきたのだ。自分たち三人は、仲のいい友人だったのだから。

 玲を好きならば、優羽は必然的に一緒にいる――彼の側にいる、真紘に対して嫉妬していたかもしれない。友人として接しながら、真紘を内心疎ましく思っていたとしても、何ら不思議なことではない。

 だから、憂さ晴らしにあんなことを?

 仮にそうだったとしても、不思議と優羽を憎む気にはなれない。それはやはり、優羽が自分にとって大事な友人だからなのだろうか。

「何かもう、わかんなくなってきたなぁ……」

 玲に対する恋心も、優羽に対する友情の気持ちも。

 何が本当なのか、わからなくなってきてしまった。

 玲も優羽も、真紘にとっては両方大事な人だ。

 だからこそ二人には、誰よりも幸せでいて欲しいと思う。幸せになって欲しいと、心から思う。

 けれど……自分だって、幸せになりたい。幸せでいたいと思うし、そうなる権利があって欲しい。あるはずだ、と思いたい。

『どうすることが、自分にとって一番の幸せなのか』

 いつか葵が言っていた言葉を、今さらになって思い出す。

「どうすれば、みんなが幸せになれるんだと思う? ねぇ、葵ちゃん……」

 いつの間にか再び零れていた涙を拭うこともせず、真紘はただ、窓からぼんやりと暗くなっていく空を見つめていた。


    ◆◆◆


 翌日。

 結局あの後、帰宅してから明け方まで寝付くことが出来なかった真紘は、寝坊してしまった。目が覚めたときにはとっくに一限目が始まる時間になってしまっていたが、恐ろしいほど焦りの気持ちが湧いてこない。それほどまでに、昨日のあの出来事は真紘にとって衝撃的だった。

 それに……。

「まぁ、ちょうどいいか」

 支度を終え、いつもよりゆっくりとした足取りで学校までの道を歩きながら、真紘は苦笑気味に呟く。

 いつものように朝から行っていれば、同じように登校してくる玲や優羽と顔を合わせてしまっていただろう。

 何せ昨日の今日だ。一夜明けた程度では、気まずさが抜けるはずなどない。二人と顔を合わせても、いつものように軽口を叩ける自信は全くと言っていいほどなかった。

 まぁきっと二人も同じ気持ちだろうから、もし会ったとしても声は掛けてこなかっただろうが……。

「これで、後は放課後すぐ帰っちゃえば、二人と会うこともないでしょ」

 もう一日経てば、きっとこの気まずさも抜けてくれるはず。明日になれば、またいつもみたいに三人で過ごすことができるに違いない。

 そう思って少し安心した真紘は、心持ち先ほどよりも軽くなった足取りで学校へ向かった。


 ――しかし、自分の見通しが甘かったことを、真紘はその後すぐに思い知ることとなる。


「おはよ……」

「おはよ、じゃねぇよお前! もう昼だっつの」

「あー、マジだぁ。ごめんごめん」

「どしたんよ、寝坊?」

「んー、まぁそんなとこ」

 教室に入るや否や、近寄ってきては口々に声を掛けてくるクラスメイト達と笑顔で言葉を交わすと、真紘は席に着く。それからいつものように近寄ってきた葵と言葉を交わしてから、購買へ行こうと財布を持って教室を出た。

 そのときだった。

「真紘、ちょっといいか」

 後ろから聞き覚えのある声がして、真紘は一瞬心臓が止まりそうになる。おどおどと振り向けば、そこに立っていたのは、真紘が今まさに思い描いた通りの人物――玲だった。

「な、に……?」

 出した声が、不自然に掠れる。そんなことを気にした様子もなく、玲はピクリとも表情を変えぬまま淡々と言った。

「ここじゃ何だから、人のいないところに」

「っ、わかった」

 たどたどしくも、真紘は了承する。それを見届けるや否や、玲はくるりと背中を向け歩き出した。だんだんと遠ざかっていく広い背中を、真紘は慌てて追いかける。

 連れ立って歩く二人の後ろ姿を、葵が心配そうに見送っていたことに、真紘が気付くことはなかった。


「……どうしても、確かめたいことがあって」

 人気のない、屋上へ続く階段の踊り場へ連れて来られる。真紘が話を切り出すよりも早く、玲がポツリとそう言った。

「確かめたいこと?」

 僅かに眉をしかめながら真紘が尋ねると、玲は小さくうなずく。それまで向けていた背中を翻すと、玲は真紘と向かい合い、しっかりと彼を見据えた。相変わらず無表情だったけれど、その切れ長の目はいつもよりどこか不安げに見える。

 すぅ、と小さく息を吸うと、覚悟を決めたように玲は続きを告げた。

「真紘、お前の好きな人は誰なんだ」

「え……?」

 予想外の言葉に、真紘は唖然とする。

 好きな人は、誰か……だって? 玲は一体、何を言っているのだろう。

 そんなの、ずっと前から決まっているというのに。これまでもずっとそうだったように、これからもずっとその事実は変わらないというのに。

 真紘が口を開こうとしたところに、玲がさらに言い募る。

「優羽じゃ、やっぱり駄目なのか」

「何を、言っているの」

「昨日、優羽がお前にしたこと……忘れたわけじゃないだろう?」

 真剣な声で、表情で問われ、ドキリとする。

 そして、悟ってしまった。昨日の放課後、教室であった出来事の一部始終を、玲に見られてしまっていたのだと。

 役員会議から荷物を取るため教室に戻る時や、そこから玄関に向けて歩いていく時、玲が必ず自分のクラスの前を通りかかることを、真紘は経験則として知っていた。だからこそ、あそこで彼のことを待っていたのだ。

 ――そしてその予測は、見事に現実のものになった。

 あの時優羽にキスされそうになって、思わず玲の名を口にした時を思い出す。そうだ、そういえばあの時……バタバタ、という足音が、やけに大きく廊下に響いていたっけ。

 あれは、玲が立てた音だったんだ。

「玲……」

 真紘の呼びかけが聞こえていないのか、無視して玲は淡々と話し――いや、真紘を責め続ける。

「そんなに、優羽じゃ代わりになれない?」

「玲」

「優羽じゃ、お前を笑顔にしてあげることはできないのか?」

「玲っ」

 どれだけ真紘が止めようとも、玲の口からはとめどなく言葉があふれ出している。まるで、優羽の幸せを願っているとでも言わんばかりに。

 おかしい、こんなの。おかしいよ。

 だって優羽が好きなのは……玲、お前のはずだろう?

 どうして二人は、自分を巻き込もうとする? 二人にとってただの友人でしかなく、二人の恋愛沙汰には無関係なはずの自分を。

「優羽が、どれだけお前のことを――」

「やめろっ!!」

 踊り場中に反響する声を上げると、我に返ったらしい玲はようやく言葉を止めた。心底驚いたように、幾度か目を瞬かせる。

 呆然としている玲をキッと睨みつけると、玲は珍しいものを見るような目で真紘を見た。

「真紘……泣いているのか?」

 言われて初めて、真紘は自分の頬に熱いものが伝っていることに気付く。

 自覚してしまえば、きっともう抑えることなどできはしない。これまで抑えてきたはずの、隠してきたはずの全てが、今すぐ口をついて出てきてしまいそうだ。

 嗚咽を呑み込みながら、真紘は口を開いた。

「……っ、おかしいよ、」

「何が、おかしいって言うんだ?」

 玲の答える声は、ひどく優しかった。急に泣き出した友人を、慰めようとしているのだろうか。

 そんな、単なる同情や友情からくる優しさならば。優羽に向けている想いより、ずっと弱いものならば。

 そんなの、いらない――……。

「真紘」

 パシッ。

 肩に触れようとする玲の手を、真紘はありったけの力で振り払った。当たった手の甲辺りが、ジンジンと痛む。振り払われた手――見たところ、振り払われた衝撃で少し赤くなっているようだ――をもう片方の手で庇うように包むと、玲は困惑に満ちた瞳を向けた。

「真紘……?」

「触るなよっ……」

 強がるつもりで発した声は、ひどく弱々しい。威嚇したはずなのに、迫力も何もあったもんじゃない。

 玲は相変わらず、訳が分からないという表情で真紘を見ている。

 やっぱり、何も知らないんだ。自分の想い以外は、きっと何も……こいつは何も、知らないんだ。

 唇を噛み、真紘はもう一度、キッと玲を睨んだ。涙に濡れた黒い瞳に、今度はありったけの意志を込めて。

「その気もないくせに、気安く触れるなっ! そっちは単なる友達だと思ってるかもしれないけど、俺は……俺は、辛いんだよ」

「え……?」

「俺が好きなのは……玲、お前なんだよ」

「っ!!」

 玲が、切れ長の目をこれでもかというほどに見開く。それほどまでに、真紘の発言に対して衝撃を隠しきれないようだった。

 真紘は玲から視線を外すと、床に落とした。発する声がだんだん小さく、弱々しいものになっていく。

「お前が、優羽を好きなのはとっくに知ってる。お前のこと、ずっと見てきたから……」

「……」

「でも……でも、きっと優羽だって、お前のことが好きなんだよ。昨日あいつが俺を押し倒したのは、きっと単なる嫉妬。両想いだっていうのに、ことごとくすれ違って……実はすごくシンプルなのに、無関係のはずの俺のことまで巻き込んで、わざわざこんなにややこしくしちゃって。お前らホント、馬鹿みたいだよな」

 自分が発する言葉の一つ一つが、まるで刃のように真紘の心を次々と貫いていく。刃によってグサグサと刺し貫かれる心は痛くて、苦しくて、辛くて……真紘は耐えきれず、顔をしかめた。

 玲が一瞬手を伸ばしかけて、下ろす。どうすればいいのか分からず、真紘の気持ちを計りかねているようだった。

 嗚咽混じりに、真紘は言った。

「答えは、これで……全部だよ。俺の好きな奴も、優羽のことも……これで、わかったろう」

 話は、終わりだ。

 そう言い残して、真紘は玲に背を向けた。本当ならば一刻も早く、玲のもとから立ち去ってしまいたいところだけれど、もはや走り去るだけの体力は残っていない。ただゆっくりとした足取りで、真紘はとぼとぼと歩いて行った。

 玲は、追いかけてこなかった。


 ――これで、全部終わった。

 真紘は声を出さず、唇だけ動かして呟いた。次々と頬を伝う涙は、当分止まる気配もない。

 きっと今、自分はひどい顔をしていることだろう。さっき来たばっかだけど、午後の授業サボって帰っちゃおうかな、と真紘は漠然と思った。

 二人の願いどおり、互いの想いは通じあうだろう。明日になれば、二人は恋人同士になっているに違いない。

 けれど、自分たち三人はもう……友人同士には、戻れない。

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