花・その3

「――あれ、まだ残ってたんだ」

 放課後。

 明かりのついていない教室の一つを覗いてみると、窓から漏れる光に照らされた、小柄な男子生徒の立ち姿が浮かんでいる。その見覚えのある姿に、優羽は目を丸くした。

 彼の声に気付いて振り返った男子生徒――真紘は、優羽の姿を認めると、いつものように屈託なく笑う。

「優羽」

 声変わりはとうに終わっている年齢のはずなのに、それでも男のものにしてはまだ高い――そんな特徴的な声で名を紡がれれば、柄にもなく胸の奥が甘く疼いた。

 けれどこの気持ちは、決して知れてはいけない。

 口を開けばたちまち溢れ出ていきそうな想いを無理矢理に押さえつけ、できるだけ自然に聞こえるように、優羽は言葉を続けた。

「珍しいな、こんな時間まで残ってるなんて」

「うん……ちょっと」

 真紘は苦笑しながら、さりげなく優羽から目をそらす。いつだって正直な真紘が、こんな風に言葉を濁すのは珍しい。勘のいい優羽でなくても、何かを隠そうとしていることは容易く察することができるだろう。

「優羽は?」

 誤魔化そうとするように、真紘が聞き返す。あえて問い詰めることをせず、何も感じていない振りをして優羽は答えた。

「俺は今日、部活だったんだ。主将が役員会議でいなかったから、代わりにミーティングまとめてた」

「そっか、お疲れ」

「おう」

「……」

「……」

 沈黙が降りる。

 優羽としては、黙っていても真紘がその場にいてくれさえすれば別に構わなかったのだが、真紘の方はどうやらそうもいかなかったようだ。続く沈黙に耐え切れなくなったらしく、不自然に目を泳がせながら「あー」とかいう何の意味もこもっていなさそうな声を上げる。

「どうした、真紘」

「……ごめん」

 恥ずかしくなったらしい真紘が、人差し指で頬を掻きながら視線を上にやる。意図していないのだろうけれど、ほんのり頬を染めているところがその辺の女子よりもよほど可愛らしかった。

 優羽の口から思わず、フフッ、と笑い声が漏れる。それを聞いた真紘は、さらに顔を赤くした。

「笑うなよっ!」

「ははっ、ごめんごめん」

 むぅっ、と不機嫌そうに頬を膨らませる真紘の頭を撫でてやると、真紘は嫌がることもなく、それどころかむしろ心地よさそうに柔らかく微笑んだ。どうやら、少しはリラックスしたらしい。

 それを合図としたように、優羽はポンッと真紘の頭を軽く叩いた。

「……で、何だったの?」

「何が?」

 優羽の言葉の意味がわからなかったらしく、真紘が今度は心底不思議そうにコテンと首をかしげた。このように表情がくるくる変わるところも、優羽が真紘を好ましく思う要因の一つだ。

 真紘に向ける優羽の眼差しが、自然と優しくなる。

「さっき、何か言おうとしたろう」

 真紘はあぁ、と思い出したように声を上げた。

「そうそう。唐突なんだけど、この前風早さんに会ったんだよね」

「風早……あぁ、桜香?」

 真紘の口から、優羽が関係を持っている女子の一人である風早桜香の名前が出たことに、優羽は内心動揺した。

 桜香は、何も言っていなかったのに――……。

 そんな優羽の心情などまるで知らないらしい――まぁ、当然といえば当然なのだが――真紘は、どこか寂しげな笑みを浮かべながら言葉を続ける。

「そこで、葵ちゃんが……あぁ、あの時彼女も一緒にいたんだけど。葵ちゃんが、言ったんだ。風早さんは、優羽の好きな人に似ている――……って」

 優羽は大きく目を見開いた。真紘の言葉が、信じられなかった。

 確かに、真紘の――葵の、言う通りだ。優羽が風早桜香を選んだのは、ただ抱くために他の女の子を誘っていた時のように、単に寂しかったからという理由だけではない。

 普段は通らないはずの某女子校がある大通りを歩いていて、風早桜香の姿を初めて見かけたとき。優羽は思わず立ち止まって、彼女の一挙一動を凝視してしまっていた。

 見れば見るほど、似ている、と思った。

 そして同時に、優羽の中には、とある一つの考えが浮かんだ。

 彼女なら――手に入らないの代わりとして、自分のものになってくれるのではないか、と。

 ずいぶん勝手だと思う。自分は彼女のものになるつもりがないのに、彼女だけを一方的に自分のものにしようだなんて。しかも、他の誰かの身代わりとして。

「身代わりなんてなくても、本物は容易く手に入るのに」

 真紘がまるで見透かしているかのように、小さな声でポツリと言う。優羽はドキリとした。

 本物は、容易く手に入る?

 そう言うのなら、じゃあお前は俺のものになってくれるのか。真紘。

 そう、訴えたかった。

 けれど……優羽は知っていた。真紘が、決定的な勘違いをしているのだということを。そしてそれが何より、真紘を苦しめているのだということを。

「風早さんって普段は無邪気で可愛らしいけど、時々全てを見透かすみたいな、知的な目をするんだ」

 真紘は目を伏せた。どうしようもなく寂しそうで、哀しそうで――それでいて心底愛おしそうな、行き場をなくしているのであろうとてつもない想いが、その瞳から、表情から、伝わる。

「本当は、鋭い子なんだね。風早さんって」

 それは決して、自分の方へは向かない。

「確かに、よく似ているよ」

 どう足掻いたって、真紘の想いをこちらへ向けることなど、できない。

「彼女のそういうところ――……」

 だって、真紘が見ているのは。ただ一人、その特別な想いを向けている相手は。

 彼が、桜香に重ねているのは――……。

「――玲に、そっくりだ」

 ――ガタッ。

 気付けば、衝動的に真紘を押していた。自分よりも少し小さな身体は重力に従って倒れ、たまたま後ろにあった机に背中を強かぶつける。痛みに顔をしかめる彼の両肩を、優羽は逃がさないというように強く押さえつけた。

「ちょ、優羽……っ」

 困惑気味に見つめてくる真紘を、優羽は見つめ返す。今まで腕に抱いてきた、他の誰にも――もちろん桜香にさえも向けなかった、あり余るほどの欲情に満ちた目で。

 真紘は抵抗しようと身じろぎする。けれど体格差にはさすがに敵わないようで、彼がどれだけ逃れようと動いてみせても、優羽にはびくともしない。

 真紘の顔は恐怖と混乱、そして戸惑いに満ち、その大きな黒い瞳には、みるみるうちに涙が浮かぶ。

 あぁ、こんな顔をさせたいわけじゃないのに。

 けれど――それにすらも、欲情してしまう自分がいる。全てを自分のものにしてしまいたい、という欲望が、優羽を支配する。

 優羽は黙ったまま、ゆっくりと真紘へ顔を近づけた。女にも負けないほどにふっくらと色づいたピンク色の唇へ、己のかさついた唇を近づける。

 真紘がいやいやをするように首を横に振り、ギュッと目を瞑った。目の淵に溜まっていた涙が、その拍子に彼のすべすべした健康的な肌を伝う。

 タガが外れ、とうとう耐え切れなくなったらしい真紘の目からは、いくつもの雫が零れ落ちる。ほんのり色づいた唇がわずかに開き、そこから懇願するような小さな声が漏れた。

「玲……っ!」

 ほぼ同時に、教室の外からはバタバタ、という足音が響く。

 それでようやく、優羽は我に返った。

 近づけていた顔をすっと離すと、真紘の涙に濡れる顔を取り出したハンカチで拭いてやった。

 きょとんとする真紘に、精一杯の笑顔を向けて言う。

「冗談だよ。びっくりした?」

 まさか、泣かれるなんて思わなかった。ごめんね。

 申し訳なさそうな顔を作り、両手を合わせて謝ると、真紘はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。それから少し気まずそうに、おずおずと口を開く。絞りだすように出された声は、震えていた。

「馬鹿……ホントに、怖かったんだから」

「ごめんって」

 手を引っ張って真紘を起こしてやると、頭に優しく手を置く。真紘は潤んだ大きな目をくりくりとさせ、それ以上言葉を発することが出来ないまま、ただただ優羽を見ていた。

「じゃ、また明日」

 ポンッ、と弾ませるように頭を叩いてやると、近くの机に置いていた荷物を引っ掴み、優羽は足早に教室を出て行った。

 真紘は身じろぎ一つしないまま、優羽が出て行くところをただ呆然と見つめていた。


「――ホントに、何やってんだ。俺」

 もう少しで、真紘を傷つけるところだった。純真無垢な彼のことだけは、何があっても決して汚したくなどなかったのに。

 それに……。

『玲……っ』

 唇が触れそうになる少し前、真紘が震える声で懇願するように告げた言葉を思い出し、優羽はぐっと唇を噛んだ。

 あの時とっさに優羽の心を包んだのは、自分は何をしているのだという波のような後悔と、自己嫌悪。そして……深い絶望と、玲に対する隠し切れないほどの嫉妬心。

 こんな時にも、真紘の中にいるのは……真紘の心を捉えて離さないのは、やはり玲なんだ。真紘が自分のことを恋愛対象として見てくれる可能性など、これっぽっちもありはしない。

 いくら真紘が玲に対して抱いている感情や、玲自身が抱える想いのことがあったとしても、それでも間違いなく、玲は優羽にとって大事な友人だ。

 なのに、その玲に――大切な友人に、あろうことかこんなにも醜くどす黒い、嫉妬なんていう最低最悪の感情を抱いてしまうだなんて。

「また明日、って言ったけど……明日から、どんな顔で二人に会えばいいんだろう」

 呟いた言葉は、誰もいない廊下に空しく反響して消えた。

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