月・その3
「取り乱しちゃってごめんね」
一夜明け、いつもと変わらないおっとりした笑みを浮かべた幼馴染――奏の、玲に対する第一声はそれだった。
特別頭の回転が速いわけではない玲にも、それが昨日の出来事を指しているのだということはすぐに分かった。相変わらず表情を変えることなく――あくまで傍から見れば、だが――ぶっきらぼうな低い声で答える。
「もう、大丈夫なのか」
「うん」
にっこりと、奏は笑う。
吹っ切れたのか、とりあえず一旦は気持ちの整理がついただけなのか……おそらく後者だろう、と玲は思った。
長年抱いてきた想いを、そう簡単に吹っ切れられるとは思えない。
また何かあったときには、彼の精神はあの日のように、再び崩壊してしまうのだろう。たとえそれが、ほんの些細なことであったとしても。
そうしたら、その時は――……。
「また駄目になったら、抱き締めて」
「アホか」
軽口を叩く奏の頭を、軽くはたく真似をしてみせる。いつものような、つかの間の和やかさが二人の間に漂った。
いつもおっとりと落ち着いている奏が見せた、双子の姉に対する肉親として以上の、家族愛を超えた感情。それはきっと、恋心などという純粋なものすらもとっくに超えてしまっている。
彼は離れて暮らす姉を――葵を、一人の女性として愛してしまった。
それが、世間的に認められるようなものではなくても。周りからは『禁忌』と呼ばれるような、忌み嫌われるようなものであっても。
『どうして彼女は、姉なんだろう』
苦しげに、奏が告げた言葉。
自分が欲望のために一歩踏み出せば、たちまち何もかも壊れてしまうから。今の日常すらも、失ってしまうことは分かっているから。だから――……定められてしまった運命をただ、憎み、悲しみ、自分の感情をもてあますことしかできない。
その気持ちは、玲にも痛いほど分かった。
どうして優羽は、同性なんだろう。
どうして、優羽が想いを寄せているのは自分じゃなくて、同じ友人である、真紘なんだろう。
どうして――……真紘は、優羽じゃない他の誰かに、想いを寄せているのだろう。
どれほどたくさんの『どうして』が幾重に積み重なっても、明確な答えなど出ないのは分かっている。今の状況を変えることなど、どう足掻いても無理なのだということも。
でも……だったらせめて一つでも、ほんの少しでも、何か変化があってくれればいいのに、と玲は思う。
この淡々と続く、歪んだ日常が……いっそ退廃的とも言えるようなこんな毎日から抜け出せるような、そんな何がか。
そんな日は、いつやって来るのだろうか。もしかしたら、一生こないのかもしれない。
玲には想像もつかなかった。
――けれど、その日は案外すぐにやってきた。
◆◆◆
放課後、『役員会議』と呼ばれる集まりから帰ってきた玲は、教室の並ぶ校舎をいつもより少し遅めの時間に歩いていた。
『役員会議』は校内で二ヶ月に一度行われる会議のことで、各委員会の委員長や部活の主将などが集まり、それぞれ報告や情報交換をすることになっている。玲もまた、とある委員会の長としてこの会議に参加していた。
本来は生徒会長がその会議を取り仕切らなければならないのだが、面倒臭いことが嫌いなこの学校の生徒会長は滅多に表に出ようとしない。そのため、しっかりした性格の副会長がいつもその場を執り仕切っている。
しかし今日はその副会長が欠席しているとのことで、代わりに書記・会計を務める生徒会役員の女子生徒がピンチヒッターとして来たのだが……。
もともと前に出ることに慣れていないらしい彼女は、周りに助けてもらいながらどうにか与えられた責務をこなしていた。けれど、勝手を知らない者の仕切りではやはり、グダグダな会議になってしまうのはどうにも仕方がないことで。
結果、いつもよりも遅い時間に会議が終了し、外が暗くなり始めてきた頃に玲たちもようやく解放されたというわけである。
慣れないながらも、副会長の代わりとして一生懸命に働いてくれていたあの書記・会計の女子生徒のことは、不思議と憎めなかった。むしろ彼女が行動しているところを見ていると、ささくれ立った心が癒されていくような気さえする。そういうところがきっと、彼女のカリスマ性なのだろう。
彼女の一挙一動を思い出して、思わず玲は笑みを零した。
が……。
その後すぐに、無駄に会議を長引かせた生徒会役員のことを、玲は心底憎らしいと思うことになる。
「――唐突だけど、この前――……」
男子としては少し高めの、どこかで聞いたような声が玲の耳に届いたのは、教室の前――おそらく位置からして、真紘のクラスだろう――を通りかかったときのこと。それは、教室の中から聞こえてきた。
荷物を教室に置いてきていた玲とは違い、他の生徒たちは会議が終わってからすぐに帰ったと思っていたのだが……まだ他にも、誰か残っていたのだろうか。
不思議に思い、こっそりと教室内を覗いてみる。
ほんのりと暗くなった教室内に、二つの影があった。シルエットからして、おそらくどちらも男子生徒のものだろう。平均的な身長と体格をした男子と、少し小柄で華奢な男子。
目を凝らして見てみると、それは――……。
「真紘と、優羽……?」
窓際の方で、向かい合ってなにやら話をしているのは、玲の友人である雪宮真紘と、花村優羽だった。
一瞬、身体が強張る。
それでも何となく二人に姿を見られてはいけないと思った玲は、動きづらい身体をどうにか無理矢理に動かすと、教室の出入口の陰へととっさに身を隠した。
二人が話している内容については、声を押し殺しているせいでほとんど聞き取れない。だが、特に言い争いをしているようにも見えなかった。だからといって、いつも三人でやっているような漫才のごとき雑談をしているという和やかな雰囲気でもないけれど……。
真紘と優羽が、互いに友人としての感情しか抱いていないのならば――また、玲が優羽に対して友人以上の感情をまったく抱いていないのならば、玲は躊躇せず二人のもとへ行っただろう。あの雑談に、いつものように混ざっていたことだろう。
でも、実際はそうじゃない。優羽は真紘のことを友人として見ていないのだし、玲だって優羽のことを、同じようにただの友人として見ることができていないのだ。
こみ上げてくるものに耐えるように、玲は人知れず唇を噛む。
嫉妬しているのかもしれない。優羽をただの友人としてしか見てなくて、彼が向ける恋心なんて知らなくて……だからこそあんな風に屈託なく笑っていられる、純真無垢な真紘に。
そこまで考えて、玲は自分に呆れた。
自分勝手な感情に振り回されて、挙句大切な友人に対して嫉妬心を向けるだなんて……自分はなんて、ひどい人間なのだろう。
本当に自分は、馬鹿だ――……。
――ガタッ。
深い自己嫌悪に陥りかけたところで、玲は先ほどから真紘と優羽のいる教室の中から、何やら物音がしたのを聞いた。
次に焦ったような、男のものにしては少し高めの声が耳に届く。
「ちょ、優羽……っ」
中にいる二人に見つからないよう、玲は息を潜め、こっそりと中を覗いてみた。暗闇に慣れきった彼の目は、現在教室内に誰がいて、どんな状況になっているのか、ということを容易く判別する。
目に映った光景に、玲は思わず息を呑んだ。
優羽が自分より下にある真紘の両肩をがっしりと掴み、机の上へとその身体を押し倒していた。玲からは横顔しか見えなかったが、それでも彼を見下ろす優羽の目が、ありありとした欲情に満ちているのが分かる。あのように欲望を剥き出しにする優羽を見たのは、初めてだった。
一方、真紘は訳がわからないという表情で、大きな目を右に左に泳がせながら、どうにか抵抗しようと試みている。しかし押し付ける優羽の力は予想以上に強いらしく、どれだけ真紘が身じろぎしようとも、まったくびくともしていない。
戸惑いと恐怖に、真紘の表情が哀れなほど歪んでいく。そうしている間にも、優羽の顔は徐々に真紘の顔へと接近していた。
――キスする、つもりだ。
瞬間的に悟った玲は、互いのおでこ同士がくっつく直前ぐらいで、耐え切れずに目をそらす。それからすぐにきびすを返すと、とにかくその場を離れようと必死で、一目散に廊下を走った。バタバタ、という足音が辺りに響いたが、この際気にしていられない。
これ以上、あの場所にいたくなかった。
二人の唇が重なる瞬間など、見届けたくなかった。
そんなことをしたら――……自分は本当にもう二度と、あの二人と友人ではいられなくなってしまいそうだったから。
「玲――……」
誰かに名前を呼ばれたような気がしたけれど、立ち止まることも振り返ることもできなかった。
――こんな変化、望んでなかった。
これからどんな顔で、二人と話をすればいいのだろうか?
自問自答したところで、答えなどもちろん出てくるはずはなかった。
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