水・その5

 翌日。

「葵ちゃん、本当に大丈夫? まだあんまり顔色よくないわよ。今日一日、お休みした方がいいんじゃない?」

 いつも通りの時間に起き出し、何事もなかったかのように学校へ行く準備を整える葵に、母親は眉を下げながらそう声を掛けてきた。

 前日に早退してきた時から、母親は『熱があるんじゃない?』とか『ご飯、食べられる?』とか、何かと葵の世話を焼いていた。いっそおせっかいともいうべきそれらの言動は嬉しいけれど、母親に対して余計な心配をさせているのだと感じると、罪悪感で心が痛む。

 理由は分かっているのだ。いつも通りの調子が出ないのは、全部自分が抱き続けている、この身勝手な恋心のせい――……。

 つまり結局、全ては自己責任であり、自業自得なのであって。

 だけど母親は、そのことを知らないはず。

 正直かつ無神経なところがある母親のことだから、鳥海の父親から聞いているのであれば、何かしらアクションを起こしてくるに決まっている。決定的な一言を、葵に対してぶつけてきていることだろう。

 その様子が微塵もないところを見ると、恐らく鳥海の父親はすべて秘密にしているのだ。あの日二人で話したことの内容も、葵が何に悩んでいるのかについても、何もかも。

 まぁ、彼のことだからきっと、仮に尋ねられたとしてもうまいことはぐらかして有耶無耶にしたのに間違いないだろうけれど……。

「大丈夫よ、ママ」

 心の中を渦巻いている様々な感情を押し殺すように、葵はできるだけ明るく答えてみせた。うまく笑えているのかについては、正直言って自信がなかったけれど。

「……そう」

 母親はやっぱり心配そうに眉を下げていたけれど、葵を見て同じように笑みを浮かべてくれた。慈しみのこもった優しい笑みに、ホッとする。きっと自分は今、それなりの笑顔を作ることに成功しているのだろう。

 「体調が悪くなったら、すぐに帰ってくるのよ」という母親の言葉に送られ、葵はそのまま家を出た。

 本当はまだ、万全の状態まで体調が回復したわけじゃない。今も昨日のことを思い出すと胸が痛いし、呼吸がしづらくなる。昨日と同じように頭がフラフラするし、食欲もない。母親の言葉通り、顔色だってよくはないのだ。

 それでも、家にいたら余計に体調が悪くなりそうな気がしたから。何もせずに寝ていたら、一日中ずっと、考えたくないことばかりが頭を支配して、余計に苦しくなってしまうと思ったから。

 せめて身体を動かして、少しでも気を紛らわせたかった。学校で行われるいつも通りの授業や、休み時間の戯れなどといったものが、少しの間でもこの感情を忘れさせてくれるなら。

 それならば、少しくらい倒れそうな状態だったとしても、学校に行った方がまだマシだ――……。


    ◆◆◆


 いつもよりゆっくりとした足取りだったからか、学校に着いた時には既に一限目が始まる時刻を過ぎていた。

「うーん……授業の途中から教室に入るのも、ちょっと気が引けるわね」

 もとより目立つ容姿をしている葵だが、不用意に目立つのはあまり好きではなかった。授業中の教室へ姿を現し、注目を浴びる自分を想像して、気が重くなる。

「仕方ない……あの場所で、ちょっと時間を潰そうかしら」

 授業を受けても、集中できそうにない。昨日のことがあるのだから、このまま遅刻扱いになったとしても、きっと担任も母親も許してくれるだろう。

 教室に向けていた足を、別の方へと向ける。少しふらつくのを気合で抑え、そのまま葵はあの場所――屋上へと足を進めた。


「――先客かな」

 誰もいない屋上に足を踏み入れ、手すりにつかまりながらぼんやりと景色を見ていると、後ろから不意にそんな声がした。ここに入ることができるということは、あの抜け道を知る人間が他にもいるということで……。

 もはや秘密でもなんでもないじゃないか、と小さく笑いながら、葵はゆっくりと振り返った。

 そこに立っていたのは、どことなく軽薄な雰囲気をまとった一人の少年。他に誰もいないと思っていたのか、少々驚いたような表情をしている。その面差しに、葵は見覚えがあった。

「あら、あなたは……真紘ちゃんのお友達の」

「……花村優羽」

 掠れた名乗り声に、そうだった、と思い出す。

 真紘の片想い相手である秋月玲とともに、いつも真紘と楽しそうに笑い合っているところをよく見る……そして同時に、複数の女と身体の関係を持っているなどという下世話な噂のある、そんな男子生徒。

 存在は知っていても、こうやって一対一で向かい合い話をするのは初めてだ。きっと、向こうもそんな認識だろう。もっとも、どこまで知っているのかについては分からないが。

「君は……」

「あたしは泉水葵。知ってるかどうかは分からないけれど、一応、真紘ちゃんとはそれなりに交流があるのよ」

 笑みとともに自己紹介をしてやれば、あぁ、とどこか納得したような返事。それなりに広まっている噂を、彼も聞いていたのかもしれない。『異国の姫君』と呼ばれている、自分についての噂を。

 泉水葵、と名前を繰り返されたことで、優羽に自分の存在をきちんと認識してもらえたのだということが分かって、そのことに満足した葵は小さく笑みを浮かべた。

 優羽が、何気なくというように視線を下へと落とす。その先を追って行けば、短いスカートから伸びる自分の白い足が視界に入る。それでも動く視線をさらに追って行けば、やがて足元に転がる、ほとんど荷物を入れていないひしゃげた鞄へと辿り着いた。

「……泉水、」

 不意に、優羽が葵の名字を呼ぶ。馴れ合うつもりなどもとからなかったはずなのに、気付けば口が動いていた。

「葵、でいいわ」

 優羽が、戸惑ったように口を開閉させる。女たらしで、セックスフレンドなら掃いて捨てるほどいる――その噂が本当だとするならば、女を下の名で呼ぶことぐらい、彼にとっては容易いことのはずなのに。

 逡巡するように目を泳がせ、やがて遠くを見つめるような寂しい表情をする。葵は、その顔をよく知っていた。これは――紛れもなく、恋をしている人間の顔だ。しかもそれは、決して叶ってはいけない類のもの。

 もう、叶うことはないのだからと諦めている。けれど、それでも欲さずにはいられない――そんな表情。

 葵は、なんとなくわかっていた。花村優羽には、恋い焦がれる相手がいるのだということを。

 そして多分、その人は――……。

「真紘ちゃんのこと、考えているのね」

 カマをかけるかのようにそう告げれば、優羽は僅かに目を見開いた。それからやがてゆっくりと、まるで葵の言ったことが図星だとでも言うように、自嘲気味な笑みを漏らす。

「わかってるんだろ。……俺が、真紘のことをどう思っているのか」

「えぇ、なんとなく」

 玲を、痛みのこもった瞳で見つめる真紘。

 そんな彼を、どうしようもなく愛おしそうに細められた、優しい瞳で見つめる――そんな優羽の姿を、葵は何度も目撃していた。

「真紘ちゃんが、別の人に向けている感情を……あなたは、真紘ちゃんに対して向けているのよね」

 辛いわね、と続くそれが、言葉になっていたのかどうかは分からない。優羽の方を見ていられなくなって、耐えきれず葵は視線を落とした。

「葵にも、想いを寄せている相手がいるのか」

 まるで仲間を求めているかのように、投げかけられた優羽の質問。優羽もまた、自分の中に燻る想いを、どうにかして正当化させたいと思っているのかもしれない。

 今の自分と、同じように。

 葵は、小さく笑みを作った。うまく笑えているのかは分からない。優羽の目に、自分の顔がどんなふうに映っているのかもわからない。

 優羽が見せた寂しげな瞳が、そうさせたのだろうか。

 葵はやがて、誰にも――今まで唯一秘密を共有してきたはずの真紘にさえも告げなかった秘密の欠片を、口にした。

「……あたしは、鏡の自分・・・・に恋をしているのよ」

 それは、ひどく遠まわしに聞こえたかもしれない。それでも葵にとっては、この一言こそが全てだった。

 男と女。右利きと左利き。性格も、旋毛の位置も、何もかもが真逆で。けれどその容姿だけは、恐ろしいほどに瓜二つ……。

 それはまるで、鏡に映った自分自身の姿を見ているかのようで。

 鏡の向こうにいる、自身の片割れ。決してそれ以上近づくことは叶わない、近くて遠い、そんな存在。

 鳥海奏とは、自分にとってそんな人間だ。単なる、血を分けた双子の弟とか、そういうのではなくて……。

 ――どうして、いつから。自分はそんなにも深く、同じ血を持つ彼のことを、愛するようになっていたのだろうか……。

 震える息を吐き出し、葵は力なく睫毛を伏せる。これ以上、何も言えそうになかった。

「そうか」

 優羽は短く答える。おそらく、雰囲気で察してくれたのだろう。彼は予想以上に、勘の鋭い人間であるようだ。

 話は済んだとばかりに、優羽はそのままくるりと葵から背を向ける。立ち去ろうと一歩踏み出しかけた優羽の背に、葵はほぼ無意識に言葉を投げかけていた。

「もう、これっきりかしら」

 優羽の息を呑む音が、僅かに聞こえる。きっと、驚いているのだろう。

 無理もない、と思う。何故なら、自分の口から出た言葉に、葵自身も驚いていたのだから。

 葵からは背中しか見えないが、優羽が目線を落としたのであろうことはなんとなく分かった。振り向かないまま、静かに口を開く。

「何、君も俺のセフレになりたいの」

 君みたいな極上の女なら、俺も大歓迎だけどね?

 きっと、幾度も繰り返されてきたのであろう口説き文句。向こうだって言い慣れているだろうし、同じようなことは葵だって言われ慣れていた。

 茶化すような言葉に、葵もわざとフンッ、と嘲笑するように息を吐く。

「冗談」

 予想通りの反応だったのだろう。優羽はわざとらしく、そりゃ残念、と肩をすくめた。そのまま、もう一度足を一歩前へと出す。

「でも」

 囁くような葵の声に、優羽は二歩目に出した足をピタリと止める。不思議そうに振り向く彼に、葵は自然と笑みを向けていた。優羽の目にはどんなふうに映っているのかわからないけれど、先ほどよりはうまく笑えているような気がする。

 小首を傾げ、葵はそのままにっこりと笑ってみせた。

「話し相手になら、なってあげてもいいわよ」

 つられたように、優羽もフッ、と小さく笑った。

「話し相手、か」

 優羽とつながりを持とうと考えるなら、この身体を差し出すのが手っ取り早い。それぐらい分かっているし、優羽だってそのつもりだっただろう。

 優羽はきっと慣れているだろうし、葵も彼になら処女を差し出して構わないと思った。セフレとしても、自分はなかなかの価値があるだろう。何せこちらは、『異国の姫君』と言われているほどの容姿を持っているのだ。

 でも、それじゃつまらない。

 せっかくの機会なのだ。他にもたくさんいるであろう、身体の提供者のうちの一人で――彼の寂しさを紛らわせる程度のレベルの人間で、甘んじるつもりは毛頭ない。

 どうせ関わるなら、それまでとは違う形がいい。それこそ、優羽が今まで考え付きもしなかったような。

 不特定多数の『セックスフレンド』という形でもなければ、『恋人』という一生手に入らないであろう形でもない。それでいて、唯一の……ある意味特別とも言うべき間柄。

 ――なかなか、面白いでしょう?

 心の中でそう呟きながら笑みを深めれば、優羽もまた、まるでその声が聞こえたとでも言うかのように、もう一度笑った。

「いいよ。じゃあまた今度、もう一度話そうか」

「ありがとう」

 久しぶりに、心から笑うことができたような気がした。同じように、優羽もリラックスしたような笑みを見せる。

 真紘とはまた違う形の『共犯者』――もとい、仲間ができたことに、先ほどまで葵の中に燻っていた嫌な気分はすっかり払拭されていた。

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