鳥・その4

 ――どうしてっ。

 どうして、どうして、どうして。

 次の授業で使うはずの科学室と、現在進んでいる方向が全然違うことくらい、頭では分かっている……つもりだ。多分。

 けれど、そっちじゃない、と懸命に訴えている玲の腕を無理に引っ張りながら、早足で廊下を歩く奏は半ば混乱していた。

 どうしてあの時、いつも避けるはずのあのクラスを――葵が在籍しているクラスを、通ってしまったのか。次の授業のため科学室に行くだけならば、他の道もあったはずじゃないのか。

 ……あぁ、そうだ。いつもより準備が遅くなったから、近道しようなんて馬鹿なことを考えたんだ、あの時の自分は。

 玲は、葵と自分のことを知らない。だからほんの軽い気持ちでしたこの提案を、何の疑いも持つことなく受けたんだ。

 いや、通るだけならば別に構わなかったのかもしれない。葵が廊下の方に目をやって、自分の姿があることを認めようとしなければ……自分が、葵の姿をこの目に映さないままで済んだなら、何の問題もなかった。

 まさか彼女の隣にいつもいる雪宮真紘が、玲と自分を見つけて声を掛けるだなんて考えもしなかった。二人は友人なんだから、そうする可能性は十分にあったはずなのに。

 自分の浅はかさが、ほとほと嫌になってしまう。

 ――それとも、自分たちが同じ学校に在籍している以上、いずれあぁなることは必然だったのだろうか? いずれは、顔を合わせなければならない運命だったのだろうか?

 だとしても、何も今じゃなくてもよかったのに……。もう少し心の準備が整ってからでも、彼女への想いを少しずつ消化していける段階になるまで待ってくれても、よかったのに。

 あの時、真紘に目を向けて……それからその隣に、流れみたいにして目を向けて。そうしたら、まるでそれが必然のことだったとでも言うかのように、当たり前のごとく葵と視線がかち合った。

 瞬間、身体に電流のような痺れが走って――……それは何とも甘美で、心地の良い痺れで。昔のように屈託なく笑い合っていた時の記憶が、懐かしく思い出されて。

 だからこそ、奏は苦しかった。自分の中に未だしつこく残る、葵への姉弟愛を超えた狂おしいほどの感情を、改めて思い知らされたから。

 葵のことを未だ諦めきれていない自分に、改めて気づかされたから。

 自分と同じ色をした、それでいてどこか違う、色素の薄い大きな瞳。自分の目に映ったそれが、まるで焦がれるかのように儚く、そして確実に揺れていたことを、奏はきっとこれからも忘れることはないだろう。

 その瞳に、意識ごと吸い込まれそうで。ずっとこうしていたいなどと、一瞬願ってしまったほどだった。

 けれど、それは決して叶わない。叶っては、いけない。これ以上見つめていたら、本当にこの気持ちを表に出してしまいそうになる。

 だからわざと、自分から逸らした。これ以上、彼女と見つめ合うことに精神が耐えられそうになかったし……何より葵が、自分から目を逸らそうとはしなかったから。

 それなのに、あのあと視界の端に映った光景を――葵の哀しそうな瞳と、血の気の引いた自分と同じ造りの白い顔を、思い出すたびに辛くなる。いっそ愛おしいとさえ、感じてしまう。

 そんなことを考えてしまう自分が、許せない――……。

 玲の腕を引いて、いつの間にか辿り着いていたのは屋上だった。前に誰かに抜け道を教えてもらって以来、一人で考え事をするときにしばしば来ることがあったから、落ち着くための場所として身体が本能的にここを欲したのだろう。

 抜け道から屋上へと足を踏み入れ、玲の腕をようやく離した奏は、そのままフラフラと進み、力なく座り込んだ。もう、立っていられそうになかったのだ。

 そんな奏を、玲がどんな顔で見ているのかは分からない。きっと表情は変わっていないだろうけれど、僅かに眉は下がっているだろう。玲は、そういう人間だ。

 いっそ、全て打ち明けてしまおうか……。そうしたら、楽になることができるのかもしれない。もしかしたらそれは、ほんの気休め程度でしかないのかもしれないけれど。

「……幼いとき、」

 どれくらい時間が経っただろうか。黙っていた奏は、ようやくそれだけを口にすることができた。不意に、玲の息を呑むような声が聞こえる。

 不意に、涙が溢れてきた。身体の震えが止まらない。まるで他の誰かに――玲に全てを打ち明けようとすることを、身体が拒否しているかのように。

 それでも、いつかはバレることなのだろう。それに、玲ならきっと分かってくれるはずだ。自分の罪を知っても、受け入れてくれるはずだ。

 内心で祈りながら、漏れ出る嗚咽を堪え、奏は少しずつ、絞りだすような声で話す。

「幼いとき……俺には、姉がいたんだ」

 この告白に、きっと玲は驚いているだろう。無理もない。何故なら、玲が知っているのは今の・・家族だ。こちらから打ち明けない限り、昔の家族のことを知るはずがない。

 だからまず、前の家族のことを説明しておく必要があった。玲の知っている母親とは血が繋がっておらず、実の母親とは幼い頃に別れているのだという事情も兼ねて。

「――それでも案外円満離婚だったから、離婚してからもちょくちょく父親と前の母親は友人として会ってた。もちろん俺も、姉も一緒に。だから俺も姉も、互いに知ってたんだ。自分には兄弟がいて、たまに会うあの子供がその兄弟なんだってことを」

 けど……。

 小さく絞り出すように言うと、奏の身体は先ほどよりずっと小刻みに震え始めた。許されざる罪をこれから告げようとするのが、まるで恐ろしいとでも言うように。咎められるのを、恐れでもするかのように。

「まさか俺が、その姉に……自分と同じ血を持つ彼女に、心惹かれる日が来るなんて思ってなかった。まさか彼女を姉でなく、一人の女としてしか見られなくなってしまう日が来るなんて」

 いくら離婚し、離れて暮らすようになったとはいえ、彼女が実の姉であることは紛れもない事実だ。それは何よりも罪深く、決してあってはならないことで……それゆえに、ずっと今まで誰にも打ち明けられなかったこと。

「どれだけ押さえつけようと思っても、彼女に対する家族愛を越えた想いは……どうしようもない愛おしさは、日に日に募るばかりで。もうどうしていいか、分からなくなって……なんで彼女は姉なんだろう、同じ両親の間に生まれた、血を分けた自分の姉弟なんだろう……って、神様を恨んだこともあった」

 玲が今、何を思いながらこの話を聞いているのかは分からない。どんな顔をしているのか、確かめることさえもできない。純粋に驚いているのか、嫌悪感に満ちた表情をしているのか……それとも、憐れむような表情を自分に対して向けているのか。

「俺は無意識に、たまに会う彼女に対して冷たく当たるようになった。そのたびに彼女は、哀しげな目を俺に向けた。それが辛くて、また冷たく当たった。その繰り返しで……それからいつしか、俺は彼女を避けるようになった。一緒にいたら、また彼女を傷つけそうな気がしたし……さらに、彼女を愛してしまうと思ったから。なのに……それまで違う街の学校に通っていたはずの彼女が、まさか同じ高校にいたなんて」

 あの時目が合った瞬間に全身を包んだ、甘美な痺れ。吸い込まれそうな、色素の薄い葵の大きな瞳。耐えきれず自分から目を逸らした直後に見えた、哀しそうな葵の表情……。

 先ほどの出来事全てが、走馬灯のように一気によみがえってきて。奏は不意に、息が苦しくなる。

 その時、これまでずっと黙ったまま奏の話を聞いていた玲が、静かに口を開いた。相変わらず、顔を上げることはできなかったけれど……その声から、少なくとも彼が自分に対して嫌悪を感じていないのであろうということだけは分かった。

「自分と同じくらい・・・・・、美しい女がいるって……お前も、その噂を聞いていたんだろう。どうして、それがお前の双子の姉・・・・だと気付かなかったんだ」

 それはあまりに直接的で、一番触れられたくなかったこと。

 けれど……だからこそ玲がこれまで真摯になって話を聞いてくれていたのだと、奏の言葉を理解してくれているのだということを感じて、奏はほんの少しだけ気が楽になった。

「もしかしたら……とは思ってた。でも、実際に目の当たりにした事はなかったから、まさかとも思ってた」

 本当は、薄々気づいていた。彼女に関する噂ももちろん耳にしていたし、どこのクラスに所属しているのかもなんとなく知っていた。

 だけど、それでも……。

「……そんなわけないって、絶対違うって、信じたかったんだ」

 彼女が、同じ学校にいるはずがない。まさか、もう一度会うことがあるだなんて、そんなことは絶対にない。泉水葵という人間は、自分の世界の中に決して存在してなどいない。

 意地でも、そう信じていたかった。確信していたかった。そうでもしなければ、ここまで必死に支えてきた自我が、いとも簡単に崩壊してしまいそうな気がしたから。

 それが甘い見通しだとは、分かっていても……。

 奏は耐えきれず、さらにその場に縮こまろうとした。あらゆるものから自分自身を守るように、両腕で自らの肩を抱く。そんな彼の丸くなった身体が、不意に温かなものに包まれた。いつの間にか彼の側にしゃがみ込んでいた玲が、奏を抱きしめたのだ。

 髪を撫でられ、震える背中を幾度も軽く叩かれる。まるで眠りに着こうとする赤ん坊をあやしているかのような手つきに、直接的な言葉ではない玲の優しさがありありと伝わってきて……凝り固まっていた心が徐々に解れていくのを、奏は感じた。

 気づけば、奏の目からは再び涙が零れ落ちていた。先ほどのような辛さからくる苦しい、絞り出されるようなものではなくて、ホッとしたことでタガが外れたかのように、ただ自然にぶわっと溢れてくる涙。

 嗚咽と共に、子供のように声を上げて泣き出してしまった奏の身体を、玲はただ黙ったまま、ずっと抱きしめてくれていた。

 奏の気持ちが落ち着き、いつものように冷静な考えができるまでに回復する、その時まで。

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