水・その2

 嫌われているのなら、やはり近づかないほうがいいのだろう。その方がきっと奏のためにも、自分自身のためにもなるに違いない。

 だからこそ葵は、自分からも徹底的に奏のことを避けようとした。自分からは極力近づかず、他所で彼の話題を出すこともせず。自分には双子の弟など初めからいなかった、とでも言うように。

 奏の方には、わざわざこちらから頼むまでもなく、もう既に徹底的なまでに避けられている。

 おかげで奏とは、それ以来一度も顔を合わせることがなかった。母親いわく、わりかし近い街にいるという話なのだが……その会わなさっぷりは、いっそ笑えてしまうくらいだ。

 傍から見れば、二人はまるで磁石のように――同じ極同士が、反発しあう現象のように、退け合っているように見えるだろう。

 きっと、神様が自分たち二人を引き離そうとしているに違いない。二人は、そもそも出会ってはいけなかったのだ。

 だけど、それでも……。

 会えない日が幾度も重なっていくたびに、こんなにも苦しみが増えていくのは何故だろう。心が、どんどん乾いていくのは何故だろう。

 会いたいと、欲してしまうのは何故だろう。

「嫌ね、こんなの……弟に抱く感情なんかじゃないわ」

 奏は、あくまで血の繋がった双子の弟。それ以上の感情を抱くことなど、本来あってはならないはずなのに。

 彼を、一人の男として見てはいけない……いや、見ることなど、本来できるはずがない。そんなことがあっては、それこそおかしいと一蹴されてしまうし、世の中から拒絶されてしまう。

 ――いや、本当はそんなこと、どうでもいいのだ。自分が・・・拒絶されるだけならば。

 問題は、好奇の目や世の中からの拒絶などといったものが、奏の方に向けられること。それが、葵にとって何より恐ろしいことだった。

 今でさえ、奏には嫌われているのだ。何故かなんて知らないけれど、理由はどうであれ、自分の存在はきっと奏にとって目障りであり、憎しみの種でしかないのだろう。

 それなのに、自分のせいでさらに奏が苦しみ、追い詰められるなどということがあってはならない。

 だから……。

「あたしには、弟なんていない。鳥海奏なんて人間、知らないわ」

 こうやって、自分に言い聞かせる。

 昔の記憶を振り払って、無理矢理自分の中から追い出して……あくまでも、知らないフリを貫き通すしかない。

 そうすれば、いずれは奏に関する記憶のすべてをなかったことにできるに違いない。そんな未来は、きっと遠くないだろう。

 葵は、半ばそう盲信していた。


「――明日、鳥海のパパが葵と話したいんですって」

 母親から唐突にそう告げられたのは、ある週の土曜日の夜、いつものように母娘二人で食卓を囲んでいた時だった。

「いつもの面会でしょう、分かっているわ」

 改めて報告することでもないだろう、と言外に込め、おかずをつつきながらしれっと答える。今日の夕食のメインディッシュは、葵の好物であるチーズハンバーグだ。

 箸を止め、いつになく真剣な面持ちで葵を見つめると、母親は葵によく似た声色で、静かに――それでいてきっぱりと、告げる。

「あなたと、二人きりで話がしたいらしいわ」

「……え?」

 予想外の言葉に、葵は箸を止めた。困惑気味に瞳を揺らしながら、向かいに座る母親を見やる。射るような視線を向けられていることに気付き、思わず怯んでしまった。

 答えようと開いた唇は小刻みに震え、発した声が自然とか細くなる。

「どう、して」

「さぁ。詳しいことは、ママにも教えてくれなかったから。けれど……葵ちゃんにはきっと、心当たりがあると思うの」

 鳥海のパパも、そう言っていたしね。

 意味深に笑う母親は、ぞっとするほど美しい。けれどその顔を、葵は真正面から見ることができなかった。

 もちろん葵には、わかっていた。鳥海の父親が――自分と奏に血を分けた男が、自分に何を話したいのかを。

「って訳で、明日は一時にいつもの場所よ。送っていってあげるけど、中まではママ、着いていかないから。ちゃんと一人で行きなさいね」

 続く母親の言葉も、ほとんど頭に入ってこない。

 葵の心は既に、明日起こるであろう出来事に関する不安と恐怖でいっぱいだった。


    ◆◆◆


「じゃあ、行ってらっしゃい。鳥海のパパによろしくね」

 いつもの場所――両親が暮らす家のちょうど中心にあるという、街中の素朴な喫茶店まで車で送ってもらった葵は、運転席にいる母親の言葉を背に受けながら、無言のままで車を降りる。

 カランカラン、と音を立ててドアを引くと、すぐさまシックなワンピース調の制服に身を包んだウエイトレスが駆け寄ってくる。「お一人様ですか」という作ったような高めの声に「待ち合わせよ」とそっけなく返し、葵は迷いない足取りで店の奥へと足を進めた。

 店内の奥、仕切りを隔てた個室のようになっている空間に、一組だけひっそりとテーブルが置かれている。四つ用意されている椅子の一つに座り、一人の男性がゆったりとした仕草で珈琲を口にしていた。

 落ち着いた物腰から察するに、年のころはおおかた四十代半ばぐらいなのだろうが、見た目はそれよりもっと若いように見える。

 Tシャツにジーパンというラフな格好をした彼は、巷で見かけるには珍しく、精巧に整った顔立ちをしていた。色素の薄い髪が、窓から差し込む太陽の光を浴び、キラキラと金色に光っている。

 近づいてくる葵の存在に気付いたらしい彼は、カチャリと音を立てて珈琲を受け皿に戻すと、柔和な顔を綻ばせて笑いかけた。

「やぁ葵。相変わらず、見とれてしまうほどに美しいね。さすがは俺と加奈子かなこの娘だ」

 加奈子というのは、彼の離婚した妻……つまり、葵の母親のことである。

 葵も同じように――ただし、こちらは多少の皮肉をこめて――柔らかな笑みを返してみせた。彼の調子のいい軽口など、昔からのことだ。

「こんにちは、鳥海のパパ。相変わらず、口だけはお上手ね」

 彼――鳥海の父親は、ハハハッ、と軽い調子で笑った。

「手厳しいなぁ。加奈子なら上品に笑いながら『ありがとう』って一礼するところなのに」

「お生憎様。あたしは、ママとは違うのよ」

「まぁ、知っているけどね……」

 その先を押しとどめるように、鳥海の父親は珈琲を口に含む。全て飲み干してしまったところで、テーブルの端に控えていたメニューを取り出した。

「とりあえず、お前も座って何か飲みなよ」

 変に焦らすよりも、早速本題に入って欲しかったのに。どうやら鳥海の父親はそう簡単に、葵の都合通りには行動してくれないらしい。

「わかったわ」

 溜息を一つ吐いた葵は、言われた通りおとなしく向かい側の椅子を引き、腰掛けた。彼の手から、メニュー表を受け取る。

 いつだってそうだ。小悪魔のような性格の彼は、昔から一度だって葵の思い通りに行動してくれたことはない。身勝手でありながら、どこかそれは魅力的で……怒る気にも、愛想をつかす気にもなれない。鳥海の父親とは、そんな人間だ。

 ちなみに、その性質が葵自身にも遺伝しているということは誰の目にも顕著なのだが、葵本人に自覚はない。

 いつの間にかテーブル横に控えていたウエイトレス――葵がメニューを眺めている間に、鳥海の父親が呼んでいたらしい――に向け、適当にカフェラテを注文する。鳥海の父親は、珈琲のおかわりを注文した。

「話は、注文した品が来てからにしよう」

 鳥海の父親はそれだけ告げると、他愛もない世間話を持ちかけてきた。内心ハラハラしながらも、葵はそれに付き合う。

 やがて十分ほどで、注文していた品が来た。父娘ともに猫舌であるため、すぐには手をつけないままにウエイトレスが立ち去るのを待つ。

「……じゃあ、話をしようか、葵」

 それまで笑顔だった鳥海の父親が、急に真剣な面持ちになった。普段はふわふわしている鳥海の父親だが、こうなると一気にキリッとした男らしい印象になる。

 それまでリラックスしていた葵の身体が急速に冷え、強張っていく。

「内容は、もう既に分かっているだろうが」

 こくり、と無言でうなずく。鳥海の父親は、小さく息を吐いた。

「俺が今日わざわざお前を呼び出したのは、お前の本当の気持ちが聞きたかったからだ」

「本当の……気持ち?」

 自分でも、声が震えているのが分かった。

 彼の言葉の意味が、葵には薄々わかっていた。だからこそ、怖いのかもしれない。聞きたくないのかもしれない。

 今すぐここから逃げ出したい、と葵は心から思った。立ち上がろうと、思わず椅子を引きそうになる。

 けれど、葵を見つめる凛とした瞳が、それをさせなかった。目の前では今、鳥海の父親が全身で告げている。『逃げることなど、許さない』と。

 怯えた瞳で見つめ返しながら、葵は彼が次に発する言葉を待つ。ごくり、と生唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた気がした。

 葵を射るように見つめながら、鳥海の父親は答えを返す。

「分かっているだろう。……奏のことだよ」

 奏、というその名前に、胸がとくん、と甘い音を立てる。それに気付かない振りをしながら、今にも溢れ出そうな感情の全てを押さえ込み、葵は弱々しい声で反論した。

「何の、ことかしら。奏は……あたしにとって、ただの弟でしかないわ。血を分けた、双子の……」

「本当に、それだけか」

 厳しい声が、まるで矢のように葵の心を貫く。先ほどから一度も逸らされることのない視線から逃げるように、葵は目を泳がせた。

「それ……だけよ」

「そうか」

 鳥海の父親は、吐息交じりの声でそう呟く。一見追及を諦めたかのように見えるが、葵には分かっていた。

 この人は、全てを見透かしている――……。

 鳥海の父親の方を、もう一度伺うように見る。テーブルに肘を付き、組んだ両手に顎を乗せた状態でこちらを見つめる彼は、優雅に微笑んでいた。太陽の光に当てられた姿は、この場に舞い降りた天使のようにも見える。

 そんな彼を見ていると、急激に身体中の緊張が解けていく。心から安堵したような、泣きたいような……不思議な気持ちだ。

「ただ、」

 教会の神父に懺悔でもするように、気付けば葵は自然と口を開いていた。

「ただ……奏に急に冷たくされて、避けられるようになってから……あたしはずっと苦しくて、悲しくて、不安で、たまらないの。奏のことを考えると、胸が締め付けられるように痛い。半身を失うって、きっとこんな気持ちだと思う」

 葵の一人語りを、鳥海の父親はただ黙って聞いていた。葵を安堵させる、柔らかな微笑みを絶やさぬまま。

 だからだろう。一度話し始めてから、堰を切ったように口が止まらなくなってしまったのは。

「家族と、奏と過ごした昔のことを思い出すとね……苦しくて、悲しくてたまらない。けれど同時に、あったかい。奏と手を繋いだこととか、抱き合って一緒に寝たこととか。そういう日々を思い出すと、胸がポカポカして、甘い気持ちになるの。それは兄弟愛なのかもしれないし、違うのかもしれない。だけどそれでも、あたしにとって奏は多分、大事な存在なんだわ」

 その時のことを思い出しながら話していると、表情が自然と綻ぶ。きっと今の自分も、鳥海の父親のように優しい顔をしているのだろう。

 ――もちろんそれが、つかの間の幸せだということは分かっている。

 それを自覚したとたん、葵の心の隙間に冷たい風が吹いた。

 たった今まで葵の心を支配していたあたたかさや甘さは、とたんに苦しみと哀しみへその色を変えていく。

「だけど、あたしは奏に嫌われてるから。こんな気持ち、迷惑だから。だから、封じ込めなくちゃいけないって。例え兄弟愛でも、そうじゃなくても……あたしはもう、奏にそんな気持ちを抱いてちゃいけないんだって」

 震える声に、嗚咽が混ざる。いつしか葵の白い頬を、いくつもの雫が伝っていた。

 それ以上何も話せなくなった葵が、肩を震わせながら小さく咽び泣くのを、鳥海の父親はしばらく黙ったまま見守っていた。

 やがて、小さくポツリと言った。

「お前の気持ちは、よく分かった」

 葵が、弾かれたように顔を上げる。陶人形のように整った美しい顔は、溢れた涙でぐちゃぐちゃになっていた。

 そんな娘の顔を、懐から取り出したハンカチで優しく拭ってやりながら、鳥海の父親は淡々と続けた。

「葵……お前のその感情の正体を、今俺がここで口にするのは、酷だよな」

 お前も、薄々感づいているとは思うけれど。

 確かに、鳥海の父親は何も言わなかった。けれど……彼のその言葉と態度、そしてその雄弁な瞳で、葵ははっきりと気付いてしまった。

 何故、奏に拒絶されたと分かった時、あんなにも苦しくて悲しくて、どうしようもない気持ちになったのか。

 何故、奏と過ごした日々のことを思い出すと、あんなにも胸が甘く締め付けられるのか。

 何故……奏に対するその感情が、兄弟愛ではない・・・・のかもしれないと、一度でも思ったのか。

 そう。それは、兄弟愛なんかじゃない。自分の半身のような存在である、双子の弟に対する感情ではない。

 比較対象がなくても、なんとなくわかる。単なる兄弟愛とそれ・・との、明確な違いなんていうものは。

 それ・・というのは、紛れもなく――……。

「恋――……」

 鳥海の父親でさえ口にしなかったそれを、改めて口に出してみると、ストンと腑に落ちるような不思議な錯覚に陥る。

 鳥海の父親はほんの少し目を見開いた後、諦めたように笑った。

「気付いて、しまったか」

 こくり、と小さくうなずけば、鳥海の父親はさらに笑みを深める。先ほどまでいやに雄弁だったはずなのに、今はもう、その瞳の奥に隠れる感情を読み取ることが出来ない。

 笑みを絶やさぬまま、けれど声だけは真剣に、鳥海の父親は言った。

「お前が誰にどんな感情を抱いていても、文句は言わないよ。ただ――……それ・・は、禁断だ」

 どう取り扱うべきかは、わかっているね?

 覚悟を決めたように、しっかりとうなずいてみせる。それを見た鳥海の父親もまた、満足そうにうなずいた。

「――よしっ」

 パンッ、と高らかに両手を打ち鳴らす。先ほどから互いに一口も手をつけていなかった飲み物を目にした鳥海の父親は、手前にあった自分の飲み物――珈琲の入ったカップに手を滑らせ、笑う。

「いい加減、冷めてしまったかもしれないが……まぁいいだろう。とにかく、乾杯しよう。葵」

「こういうものは、乾杯なんてするものじゃないと思うのだけれど」

 ティッシュで鼻をかみながら、葵が皮肉めいた声で反論する。すっかりいつものように戻ったことに安堵したかのように、鳥海の父親は笑った。

「まぁ、いいじゃないか。乾杯」

「……乾杯」

 渋々持ち上げたカップに、鳥海の父親が持つ珈琲のカップがカチリと当たる。無言のまま、二人はカップの中身に口をつけた。

 口に含んだ葵のカフェラテは生温く、胸焼けがするほど甘かった。

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